第百四十話 街の片隅、ひとつの救い
「……マスター。実は私、人を殺したことがあるんです」
マスターと亜希のやり取りを黙って聞いていた洋市は、二人の間にある認識のギャップを埋める必要があると判断した。
人生に対して感じている理不尽と、それに対する行動が違い過ぎるからであった。
亜希はそもそも、亜希のあずかり知らぬところで進んだ物事によって、命の危機にさらされた。
ミナと殺し合いをしなければならなかったのは、運命の糸の綻びと言われればそれまでである。
加えて、元カレにも殺されかけるという不運の連鎖が、彼女に「まずは自分が幸せにならなければならない」という思いを抱かせるのも無理はない。
そして、誰かに自分の幸せを奪われるのが「許せない」と感じることも、自然な反応だと洋市は感じている。
一方、マスターは七十年という長い歴史の中で、過去に悔いるほどの過ちを犯している。
その上に成り立った幸せだからこそ、瓦解するのは致し方ない、という諦めが生まれている部分は否めない。
そこまでシビアに判断した上で、洋市はエッジの効いたトピックを選んだ。
果たして、暴力の重みを知る者として、マスターは洋市の言葉に耳を傾けた。
「実質的には正当防衛……ではありました。しかし、自分が生き残るために、同じ人間の命を奪ったことは事実です」
黒鉄のマチェットの重み。
刃が肉を切り、骨に当たる感触。
そのすべてを洋市は覚えていた。
「……彼女がいなかったら、私は人間を辞めていたかもしれません」
洋市はいったん呼吸を整え、隣で涙の跡を拭う亜希に目を遣ってから、再びマスターの方を向く。
そして、人生の曲がり角を迎えようとしている四十代の視点で、今を振り返る。
「罪を背負うことは、必ずしも不幸に甘んじることを義務付けないと、私は思います」
少々難解な言い回しに首を傾げる亜希。
マスターは、洋市から目を逸らさず、無言で続きを促す。
「先代のマスターが、死への渇望を抱えながらもあなたを『喫茶店のマスター』として育て上げたのは……果たして人生を失った者への“贖罪だけ”だったんでしょうか」
洋市の問いかけには、誰も答えない。
洋市は語り続ける。
「生き残った人間がするべき『精算』とは、永遠の自罰ではないと私は考えます。犯した罪による人生への影響を加味し、周囲からの非難糾弾を受け入れながら、他者の役に立つこと……それだけではないでしょうか」
40歳という“不惑”の歳を過ぎ、社会の理不尽を自分なりにいなすほかなかった、一人のしがないフリーランス。
理屈っぽく、しかしながら感情が込められた言葉。
亜希の心の叫びと洋市の言葉は、確実にマスターの心を揺らしている。
「それに!」
亜希が、洋市の言葉を引き継ぐように身を乗り出す。
「奥さんだって、全部分かった上で一緒になったんだから、もう共犯ですよ! マスターの美味しいサンドイッチを、もっとたくさんの人に食べさせてあげるだけで、もう十分……じゃないですか」
マスターは、驚きの表情で亜希を見る。
文字通り『はっ』としたような表情だった。
「息子さんがどんな方だったのか、私は分かりません。でも、今もマスターの心に残るくらい、素敵な人なんだな、っていうのは伝わります!」
亜希は再び感情がこみ上げて、声が詰まる。
涙声で、マスターの心の奥底に届けとばかりに、言葉を振り絞る。
「私が死んじゃったとして、お母さんが泣いてばかりいたら、私は嫌です!」
マスターの肩が大きく揺れた。
『おとーさん、コーヒーってにがいね、ぼくきらい』
『なんで悪いことした奴を殴ったらダメなの? リョウくんいじめられてたからホンダ殴っただけなのに』
『俺思うんだけど、メシ食ってるときって、人間は基本的に他のことできないんだよな』
『まいったよ、また新人辞めちゃった。あの料理長ホントクソだわ。今度の休み月末だってさ、悪いな、手伝い行けなくて』
『親父、俺、アイツ殴らなかったよ。殴ったら、もう親父のカレー食えないもんな』
「浩紀……お前は……いつだって……僕の……」
右手で両目を押さえ、時々咳き込みながら、ドレスシャツと黒ベストを震わせるマスター。
洋市と亜希もまた、その目に浮かぶ涙を止めることができなかった。
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