第百三十九話 因果応報
亜希は、自らに非のないことで責められる理不尽を思い出しつつ、今なお精一杯生き延びようとしていた。
その想いは玉の涙となり、瞬きするたびに弾け、それでも止まらない。
「ごめんなさい……でも、絶対違うと思うんです……。相手が反省しないからって、悪いことを自分のせいにするのは……だって、だって、マスター、悪くないですよね? 自分の大切な人を理不尽に奪われて、その不幸を……過去の幸せと結びつける必要なんか……ないじゃ……ないですか……」
最後の言葉は嗚咽と混じり、洋市もマスターも十分には聞き取れなかった。
しかし、その悲痛な訴えは、若さを失い世界を斜めに見ることを覚えた中高年男性の心を揺さぶった。
目の前には、自らの不憫を叫びながら、涙とともに運命に抗っている娘がいる。
その姿を見た白髭の男、喫茶ブランコのマスターは、心に押し隠した理不尽への怒りを、少しずつあらわにする。
「……納得はいってない。それはそうなんだ。君が苦しいと思っているように、僕も自分の苦しみを受け入れ切れていない。相手への憎しみだって今でもある」
そこまで話したところで、マスターは息を大きく吸って吐き、今なお理不尽に悩む若い娘へ自分なりのアドバイスを試みる。
「嫌なことがあると、そこからどんどん嫌なことが続いていく。でも本当はそんなことなくて、自分がそこにフォーカスしてるだけなんだ。あなたにだって、きっと楽しいことや嬉しいことがあって、そのおかげで今がある。隣にいる彼が……そうなんじゃないのかい?」
亜希はいったん目を逸らした後、それは自分の伝えたいことではないというように、マスターを見据えて言葉を選ぶ。
「そう……ですけど、私が言いたいのは! マスターが! ずっと“幸せになること”を諦める必要はないって! そういうことで……」
マスターは、目の前の名も知らぬ娘の思いやりに心打たれる。
目を閉じて優しく頷き、口角を少しだけ上げる。
「ありがとう。言いたいことは伝わってるよ。僕はただ、立ち止まる言い訳が欲しいだけなんだ。これ以上の不幸に耐えるためのね。あなたは違う。これから幸せになればいい」
亜希は納得いかない様子で食い下がる。
「どうして……そんなに達観できるんですか? 誰かの身勝手に幸せをぶち壊されて、なんでそこまで静かでいられるんですか?」
マスターは下を向いて逡巡し、十数秒の沈黙のあと、亜希に優しく語り掛けた。
「歳を取るとね、少しずつ自分の人生の精算をしなければならない、という気持ちにかられるんだ。僕が気付けていなかっただけで、他の誰かに不幸を押し付けていなかったか、とか、あのとき本当は自分が裁かれなければならなかったんじゃないか、とか」
洋市は心の中で静かに頷き、マスターの次の言葉を待つ。
亜希は何か言いたそうにしつつ、口元を固く結ぶ。
「……僕は、たくさんの、人の、人生を……壊してしまった」
カウンター裏のシンクから、水が一滴、したたる音がした。
結界で隔絶されたような、他に客がいない静かな空間で、マスターの過去が語られていく。
「僕が十代だった頃、世の中には理不尽があふれていた。一生懸命勉強しても、スポーツをしようとしても、施設育ちってだけで差別される。学校には正義や悪を振りかざす奴がいて、そいつらは結局“力”で主張する。だから、力をつけようとした」
マスターの視線はどこか遠くを見つめ、その表情は能面のように無感動だった。
「中学を出てから、僕は働きながら定時制高校に通う傍ら、暴走族に入った。力は正しく機能して、クラスメイトは誰も僕に逆らわなくなった。弱い者いじめはしなかったけど、誰かをいじめている奴がいると聞いたら、平気で金属バットで腹を殴ることもあった」
亜希は、目の前の温厚そうな紳士の佇まいと、生々しい暴力のエピソードとのギャップに目を大きく開く。
「あるとき、チーム間での抗争があって、僕もそこに参加することになった。初めての大舞台でワクワクしてたけど、いざ戦闘になるとそこは地獄だった」
須田市内の暴走族に属していたマスターのチームは、首都圏に本部を構えるチームとの抗争で、敵味方双方のほとんどが再起不能になるほどの壊滅的な被害を出した。
「僕は髪を全部燃やされたくらいで済んだけどね。それでも頭皮の毛根が死滅するほどの影響だったし、実はお尻の皮膚を一部移植してるんだ。仲間の中には車いす生活をしてる奴もいるし、頭がどうにかなっちゃった奴もいる」
もっとも、敵チームは本部に粛清されたらしいけどね、と、力で生きる世界の厳しさを垣間見せる。
結局、マスター自身も責任を取る形で、少年院送致となった。
「恥ずかしい話だけど、少年院で初めて、自分と向き合う時間が作れた気がした。自分がやってきたことは、結局世の中に対する戦い方としては、下の下だったってことに気付いたよ。出所しても、出迎えてくれる友達は、いなかったからね」
暴走族が壊滅し、高校も退学して一人になったことで、人と人との『絆の作り方』を考えるようになったとマスターは語る。
「須田に戻って来てから職業訓練を受けて、最初は自動車整備の真似事をやってたんだ。そこでこの喫茶店の前マスターに出会った。マスターは本当なら戦争で特攻するはずだったけど、その前に終戦を迎えたって話で、死に損ねたことを悔やんでた」
洋市は息を呑み、マスターの顔を観察する。
最初は紳士然としていたその顔が、今ではどこか退役軍人のような険しい皺を刻んでいるように見える。
「二人とも“似た者同士”だな、って笑い合って、それから休みの日に喫茶店の仕事を手伝ってたら、いつの間にか、紳士面してマスターなんかやってた。たくさんの人と出会って、笑って、コーヒーを飲んで過ごしてたら、昔のことなんて忘れていた」
亜希は、マスターの壮絶な日々と現在のギャップに驚きつつ、彼が残りの人生について“精算”と称した意図を理解した。
自らが加害者であり、被害者。
結局のところ、人生とは、そういうものではなかったか。
自分が生まれただけで、誰かが不幸になることもある。
亜希とミナのように。
複雑に絡まり合う運命の糸。
その巡り合わせの残酷さに、亜希は言葉を失うしかなかった。
だが。
「……それでも」
亜希は掠れた声を振り絞り、しっかりとマスターを見つめ返した。
「自分がやったことのせいで、自分が生まれたことのせいで不幸になった人がいたとしても、私たちには、幸せになる権利があると思うんです」
今度こそ、目を大きく見開くマスター。
誰かの人生を犠牲にした人生でさえ、肯定せよというのかと、マスターは目の前の娘を凝視する。
「……権利、か」
マスターはぽつりと呟き、下を向いたまま自嘲するように笑う。
「自分の蒔いた種を、自分が刈り取るなら納得できる。でも、何の罪もないはずの息子の命が奪われ、妻の心も遠くに行ってしまった。どうして僕じゃなかったのかって……神様がいるなら、本当に殺してやりたいくらい憎いよ。でも、それが贖いだというなら……今さら僕だけが笑って生きるのは、違うと思う」
再び、自分の殻に閉じこもろうとするマスター。
亜希がさらに言葉を重ねようと息を吸った、そのとき。
「……マスター。実は私、人を殺したことがあるんです」
それまで黙って聞き役を続けていた洋市は、つい最近経験した生々しい体験を、重々しく静かに語り始めた。
次回の更新は、10/18(日) 11時、または21時頃を予定しております。
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