第百三十八話 代償なんかじゃない
空腹に耐えかねて入店した『喫茶ブランコ』で、上質な喫茶空間と食事を堪能した洋市、亜希の二人は、唐突に目的の品を見つけて驚いてしまった。
カウンター奥の食器棚、その上に、美しい大人の妖精が時計を抱える姿の置物があった。
「洋市さん、あれなら……」
「そうですね。きっと大丈夫でしょう。しかし……」
品質については文句なし。
だが、持ち主はおそらく喫茶店のマスターであり、私物となれば譲り受けるハードルも高くなってしまう。
『交渉の流れが鍵になってくるな』
いきなり事情を説明するより、まずはどのような理由で飾っているのか、そのバックボーンを理解するのが先だと洋市は判断した。
「亜希さん、マスターが戻ってきたら、私からさりげなく話題を振ってみます。その上で、交渉をサポートしてもらえますか?」
亜希は眉に力を入れつつ、ひそひそと洋市に方針を確認する。
「ええと、洋市さんは、最終的に譲り受けるんですか? それとも買い取るんですか?」
「基本的には買取りを想定しています。思い入れのある品を譲り受ける以上、タダ、というわけにはいかないでしょう?」
「でも、お金の話が嫌いだったら、かえって逆効果になるんじゃないですか? むしろこっちの事情を正直に伝えた方が……」
「ここまで喫茶店を丁寧に経営している以上、お金の扱いについても誠実だと考えた方がいいでしょう。シビアな価格交渉も視野に入れておかないと」
亜希の両目が右に動き、そのまま少し止まる。
数秒後、再び目は洋市の方を向き、交渉の順番を伝える。
「じゃあ、まずは譲り受ける方向で話を進めましょう。その上で、お金が必要になったら買取りと……」
話し終える前に、カウンター奥から人の影が見えたため、亜希はいったん会話を終えた。
しかし、意図を理解した洋市は、皿を片付けにきたマスターと雑談を試みる。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「ありがとうございます」
「須田にこんな素敵な喫茶店があったなんて、知りませんでした」
「そういっていただけると嬉しいです」
「私は二十代後半から須田にいるんですが、こちらのお店はそれ以前から?」
「そうですねぇ……先代からお店を引き継いでから、かれこれ四十年は経ちますかね」
「そうなんですか! それはお父様から?」
「血は繋がっていないんですけどね。父代わりになってくれた方に仕事を教えてもらってから、ずっとここで営業しています」
洋市が会話のきっかけを掴んだタイミングで、若い世代ならではの視点から亜希が言葉を挟む。
「そんな昔からやってるのに、私、全然知りませんでした! 須田っ子なのに!」
マスターは乾いた笑いの後、少し考えるようにして、亜希が自店を知らない理由を推測する。
「ウチは最近流行りのSNSとかやってませんし、客も顔馴染みばかりで、特段宣伝をやってないんですよ。テレビの取材もお断りしてますし」
このレベルの喫茶店なら、取材依頼は引く手あまただろうと洋市は思った。
「確かに、宣伝なんかしなくても、お客さんはたくさんいらっしゃるでしょうね」
マスターは遠くを見つめる。
「まあ……“いた”って言った方が正しいかな? 馴染みのお客さんもみんな『あっち』に行っちゃったから。正直、僕もこれからどうなるかは分からないしね」
そう言うと、マスターは静かに、自分の過去を語り始めた。
「喫茶店で働き始めて、三年くらいしごかれたのかなあ。そのあたりから前マスター、まあ僕の親父代わりだった人は、どうやら“がん”だったらしくて。当時は余命宣告どころか、本人にがんだって伝えるケースも少なかったらしくて、最後まで胃潰瘍だと思いながら亡くなったんですよ」
洋市は、有名アナウンサーが病名を告白し、がんと戦う決意を見せた昔のワイドショーを思い出していた。
一方、亜希は余命宣告がなく、病名さえ言わないことに驚き、思わず自分の意見を口にする。
「それ、遺族にとっては辛いですよね……身のまわりのこと、なんにもできないし」
真面目に状況をイメージする亜希に対して、マスターは優しい口調で当時の状況を説明する。
「まあ、そこはね。あの、本人に言わないってだけで。家族が察してたから、色々と準備は進めてたんですよ」
亜希は、自分が出過ぎた真似をしたような気がして、マスターの言葉に軽く頷いてから口をつぐむ。
洋市、亜希の様子をうかがってから、マスターは話を続ける。
「で、前マスターの娘、今の奥さんと一緒に切り盛りしてたんだけど、おかげさまでいつも同じお客さんが来てくれて、新しいお客さんも常連さんが連れてきてくれるから、これといって客集めには困ったことがなかったんですよ」
ある意味、理想的な経営ともいえる状況に、洋市と亜希はほぁー、とため息をつく。
その後一呼吸おいて、洋市と亜希が無意識に食器棚上の妖精像を見たのに気付き、マスターは妖精像について説明を始めた。
「この置時計はね。常連さんがくれたものなんですよ。夫婦の銀婚式祝いにってね」
洋市が再度、妖精像を観察すると、表面の光沢が少ないことから“いぶし銀”であると推測できた。
「素敵な方ですね。おそらく、オーダーメイド品なのでは?」
マスターは目を大きく開き、洋市の言葉に感心した様子だった。
「お分かりですか?」
問いに対し、まったく分からず首をかしげる亜希を横目に、洋市が答える。
「このサイズ感で、時計をはめ込めるデザイン、かついぶし銀の鋳造品というのは、なかなか市販品ではお目にかかれません」
マスターは、思わぬ客が来たものだと目を細め、嬉しそうに返す。
「審美眼がおありなのですね」
洋市は慌てて首を振る。
「いえ、専門家ではないので詳細は分かりかねますが、やはり佇まいが凛としているので」
洋市の言葉に少し心を開いたのか、マスターは口元を少し緩め、この店が歩んできた歴史について語り始めた。
「もともとこのお店、名前が“アジト”っていうんですよ。顔馴染みばっかりだったからね。でも妻が妊娠して、子供が生まれたタイミングで“ブランコ”って名前に変えたんです。その頃は常連さんも子供と一緒に顔見世に来てくれたりしたから、ちょうどいいかなって」
思わぬ形でインタビューが始まったため、洋市はインタビュアーとして話を促す。
「ああなるほど、昔はゆりかご型のブランコが流行りましたからね」
「うんうん、親子で乗れるくらいのやつね。周りでも流行ってたから、その勢いで」
亜希は室内で乗れるような子供向けのブランコしか知らなかったので、昭和のスケールに驚かされる。
「私、そんなの見たことありません! 昭和っていい時代だったんですねー」
いい時代、と言われて、マスターは今を懸命に生きる若い世代に笑顔を見せる。
「今だっていい時代ですよ。過去を懐かしむ時点で、人生は終わりに近づいている。私のようにね」
洋市は心に引っ掛かるものを感じたが、続きを促すのが最善と判断した。
「……それは、どういうことですか?」
マスターはふう、とため息をついた後、少し重々しく言葉を紡ぐ。
「私は今七十歳ですが、歳を取るたびに今までの“嬉しいこと”の代償を支払わされているような気がしています」
洋市、亜希は沈黙する。
「四十代までは何も問題がなかった。忙しかった分、一人息子にいい思いはさせてあげられなかったかもしれないけど、何とかグレずに専門学校を出てホテルに就職してくれた」
「「……」」
「二十年前かな、職場から電話がかかってきて、警察からだった」
「「!!」」
「厨房で倒れて病院に運ばれたんだけど、事件性が高いから来てくれって」
マスターの手がわずかに震える。
「息子が目を覚ました後で事情を聞いたら、新しい料理長が暴力、今でいうパワハラをやってたらしい。あの子はチーフだったから、部下に暴力がいかないよう、身体を張ってたって聞いてさ……」
結局、料理長は書類送検されてクビになったんだけど、とマスターは続ける。
「逆恨みだったんだろうね。その料理長がウチにまでやってきて暴言を吐いた。それだけなら良かったんだけど、包丁持ってきて『息子を出せ』っていうから冗談じゃないって、そしたらカウンター裏にいた息子が……」
命に関わるDVを受けた経験がある亜希は、その先を理解した。
理解してしまった。
「……もう、お亡くなりに?」
無言で頷くマスター。
その目には、うっすらと涙が浮かぶ。
「それで妻もおかしくなって……最初はたまに皿を割るくらいのことだった。でも次第にメニューの名前が出てこなくなったり、注文を取れなくなったりして。おかしいと思って医者に相談したら、地域包括支援センターに行けって」
若年性痴ほう症。
洋市はそう直感しつつも、それを言葉にすることはできなかった。
マスターは、無理やり笑顔を作るようにして続きを話す。
「ストレスで脳に負担がかかったみたいで、昔のことはよく覚えてるのに、いろんなことができなくなって、今はグループホームで面倒を見てもらっています」
これまでの重荷を一気に下ろすように、マスターはその半生を語った。
洋市には、その重荷をどう仕分けるべきか、まったく判断がつかなかった。
しかし、亜希は重荷を仕分けるどころか、むしろ処分するかのように声を張り上げた。
「……代償……なんかじゃないです。そんなの……そんなの、マスターに全然関係ないじゃないですか!」
大きな目にうっすらと涙を湛え、マスターを真っすぐに見つめる亜希。
「私、ちょっと前に元カレからDVを受けてたんです。毎日ビクビクして、別れてからも殺されかけて……今でもまだ生きてるんじゃないかって……思う日があるくらい」
マスターは、急な亜希の激昂に戸惑うも、亜希を見据える。
洋市は、過去に受けた心の傷がまだ癒えていないことに、胸が痛む。
「最近なんか、私の姉みたいな人にも殺されかけて……そんなことになる前、別に私、嬉しかったことなんて、何にもなかった!」
思いのたけを吐き出し続ける亜希。
「お父さんが死んで、お母さんは働いて、私だってバイトして、一生懸命勉強して専門学校入ったのに正社員になれなくて、奨学金返さなきゃだからガールズバーでバイトして……それなのに、なんで私、誰かに殺されなきゃいけないんですか!!」
洋市は、亜希がこれから紡ぐはずの言葉を予想しつつ、黙る。
マスターは、自らの心に響く何かを予想しつつ、黙る。
「代償なんか……払う……代償なんか! どこにもない!!」
人生への怒りをぶちまけた亜希の目尻で、大粒の涙が弾けた。
次回の更新は、10/16(金) 11時、または21時頃を予定しております。
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