第十三話
お腹が落ち着いた洋市は、もう一度ゴブリンの姿を想像して、紫色に光った紋章に舌で触れた。
最初は触れ方がよく分からず戸惑ったが、身体を曲げれば舌でも届く位置にあると気付いたのだった。
ゴブリンの姿に戻った洋市は、まるで“大蛇から脱皮した”ような気分だった。
ずっと着ぐるみの中にいたような感覚で、しかしオオカミは胃の中にいるという、よく分からない状態だったのである。
完全にオオカミを消化すると、再び洋市の頭にアナウンスが流れた。
> スキル「夜目」 Lv.4にアップ
> 体力、魔力が3,000、1,000にアップ
> 人間味が65にダウン
『まあ、そりゃそうなるか』
ゴブリンに戻ったことで、改めて自分が何をしたのか思い返し、少し違和感を覚えつつも納得した。
自分は確かに、この世界で蛇になって、獲物を丸呑みしたのだ。
そして、そのことにさほど心がざわめいていないことに、自分の頭が警鐘を鳴らしているというか、強い違和感を覚えている状況である。
しかし、違和感どころか疑問と恐怖を感じているであろう存在が、今目の前にいる。
「あああ、あの、あれは、どうして、どうなって、その、魔法とか、そういう、あれですか?」
度重なる非現実的な戦いを見て、亜希の語彙力は完全に失われていた。
ただでさえ、緑色の化け物がオオカミの首を刈っていたのに驚き、その上大蛇になって残りを食べ尽くすという、およそ現代日本人の現実とは程遠い現象を見せられた亜希。
理解が追い付いていないだけでなく、そもそも自分がここにいることが、本当に現実かどうかさえ疑い始めている。
「大丈夫です、あの大蛇も、今のゴブリンの姿も、私です。敵が多かったので、以前覚えた、というか手に入れた能力を試してみました。驚かせてすみません」
洋市がそう言うと、亜希はしくしくと泣き出した。
恐怖ではなく安堵の涙だった。
「……良かった……あのまま……蛇のまんまだったらどうしようかと……私……どうやって帰ろうかとか、これからどうしようかとか、自分のことばっかり考えてて……ごめんなさい……」
無理もない話である。
元カレに殺されかけ、助けてくれた男がゴブリンで、しかも今は異世界で蛇になってオオカミをたいらげているのだ。
むしろ発狂せず、現実を精一杯受け止めようとしているその純粋さを、洋市は褒めたい気持ちだった。
同時に、こんなイレギュラーだらけの状況を、どうして自分は素直に受け入れられているのかと、むしろそこが不思議でさえあった。
『何となく、自分が物事を短絡的に判断している気がする』
亜希をねぎらう気持ちが生まれ、同時に洋市は自分の現状を素直に分析できている状況を不思議に思っていた。
いかに鈍感な人間だったとしても、ここまで強烈な状況の変化を受け入れる精神的土壌はないはずだった。
クライアントとのやり取りの中で、普段とは違う表現がチャットに表記されただけでも、洋市は不安を感じるタイプだった。
チャット文末の『引き続きよろしくお願いいたします』が『ありがとうございます』に変わっただけでも、今月で依頼は終了するのではないかと邪推して胃を痛めるほどだ。
だからこそ、自分が怪物に変容し異世界を出入りしている状況を、つとめて冷静に受け入れている現状に違和感がある。
そして、その一因にステータスの【人間味】という項目があるのではないかと推測した。
『おそらく、人間社会からかけ離れた状況に陥ったり、人間がとらない行動をとったりし続けることで、人間味がなくなっていくんじゃないだろうか』
ゴブリンはどうか分からないが、少なくとも陰蛇と人間との間には、肉体的な違いは大いにある。
なにせ手足がない動物に変化しているわけだから。
このように洋市が思考の海を泳いでいると、当然のように亜希も不安を感じる。
「……あの、洋市さん?」
「あ、すみません。ちょっと考え事をしていて。そういえば何だか眩しくなってきましたね」
移動や戦闘を行っているうち、空は少しずつ白み始めており、湖の全貌が見えてきた。
スキル【夜目】では十分に把握できなかったが、湖の対岸にはどうやら木造の桟橋らしきものがある。
また、小さなボートのようなものが係留されているのも見えた。
その先からは煙が真っ直ぐに立ち上がっており、どうやら人が住んでいる集落のような場所があるらしきことが予想できる。
「亜希さん、あの煙が見えますか?」
「はい。あれがその……人が住んでいる村にあたるんでしょうか」
「分かりませんが、その可能性はあります。あるいは、この森に入る前のゲートのような場所なのかもしれません」
「ゲート?」
「以前、私がここで出会った人たちは、この湖のあたりが森の出入口近辺だと言っていました。ということは、誰かが迷い込まないような門を作っていても、決しておかしくはありません」
「そうなんですね……その人たちは、私たちを素直に受け入れてくれるでしょうか」
亜希は当然の不安を洋市に伝えた。
「もちろん、不審がられる可能性はありますが、同じ人間同士なら通じあえるかもしれません。少なくとも、私はその人達が話している言葉が分かったので、コミュニケーションはとれると思います」
「……な、なるほど」
洋市は亜希をそう説得したが、基本的にはすべて主観での回答だった。
つまり、すでに面識がある人を頼るわけではないため、亜希の不安は拭えない。
コミュニケーションは成立するのか。
成立したとして、自分たちをかくまってくれるのか。
その後、ちゃんと日本に戻れるのか。
考えれば考えるだけ、亜希の心のなかに不安は生まれ続ける。
その一方で、赤の他人である洋市が、自分の事情を踏まえて亜希を守ろうと動いてくれているのを、否定することもできなかった。
少なくとも、今まで自分が出会ってきた男たちと比較して、洋市は異様なほど誠実だと亜希は感じていた。
結局、単純にそれぞれがイメージする優しさの方向性が違うだけで、洋市が亜希を思いやっていることは間違いないと亜希は判断した。
「……分かりました。それじゃあ、行きましょう。でもその前に、何か食べませんか?」
そう言って、亜希は500mlペットボトルの水と、パッケージに“カロリーバー”と書かれたお菓子を洋市に手渡した。
「ありがとう、いただきます」
まずは水を飲む。
普通に美味しい。
洋市の感覚だと、湖の水を飲んだときと変わらないが、どちらかというとペットボトルの方が純度が高いというか、雑味がない気がした。
このあたりは、ゴブリンだからといって特段違いはないらしい。
次にカロリーバーを食べてみる。
『……まあ、何ともないけど……』
洋市がカロリーバーを食べた際の正直な感想は『甘みが強くてパサパサしている』というものだった。
おそらく、人間の状態で食べたとしても同じことを考えただろうが、以前食べたリスの魔物【エビルスクワロル】に比べると大味という印象を持った。
『味覚は変わったんだろうな』
ゴブリンの味覚と人間の味覚の違いを、図らずも自らの身体で把握した洋市であった。
しかし、少しだけ胸の周りが暖かくなったような気がして、ふとステータスをチェックしてみると、人間味の項目に少し変化が見られた。
【人間味】 66/100
『人間らしい生活をすると、人間味を取り戻すのか?』
確証はなかったが、ペットボトルの水とカロリーバーを亜希から与えられたことで、数値が変わったと考えれば納得がいく。
人間味を失うことのペナルティについて、頭の片隅で考えながら、洋市は亜希に訪ねた。
「亜希さんは食べないんですか?」
「はい……何か食べた方がいいのは分かってるんですが、ちょっと食欲が」
「何か食べたほうが安心できますよ。見張ってますから、まだカロリーバーがあるなら食べてはどうですか?」
「……ふふっ」
亜希は吹き出してしまった。
このゴブリンは、なぜか私のことを心配してくれる。
よくよく考えたら、こんな面白い生き物はいない。
もちろん、もとは人間だということは知っているのだが、今のところ亜希はゴブリンの姿の洋市しか知らない。
それゆえに、ゴブリンが人間のことを心配してくれる状況に、つい笑いが込み上げてしまった。
二人でいる時間が経過するにつれて、亜希の心にも、このシュールな状況を受け入れる準備が整ったようだった。




