第百三話 血塗られた一日
トゥイの視線の先で、三十年前の悪夢に囚われ立ち尽くすバルカス。
その背中は、今も拭えない血と涙の跡を背負い続けているように洋市には見えた。
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三十年前のバルカスには夢があった。
田舎の家族と病気で苦しむ妹のため、お金を稼ぎたかった。
軍人として立派になり、自分を馬鹿者だとののしった奴等に復讐したかった。
正義の執行者として、弱いものを守り、強いものに挑みたかった。
彼は努力して力をつけた。
訓練隊では優秀な成績を収め、初任地でも任務をこなし、表彰もされた。
数年が経過すると、より多くのお金を稼ぐために死闘の森への赴任希望を出す。
そこで、運命は彼に「兵士として生きること」の残酷な現実を見せる。
「……いや、ちょっと待ってください!相手は何の武器も持たない民間人ではないですか!?」
苔むす死闘の森の砦、執務室で上官から知らされた任務の内容に、若き日のバルカスは困惑した。
死闘の森、南にある山間で石造りの町を築いた人々を、鉱床の掘削権を譲渡しないという理由だけで『国への抵抗者』として処罰するという方針を上官から聞いたからである。
「そうだ。しかし、我が国に牙を向いている。それは事実だ」
ヘルメットを目深にかぶった上官は、バルカスの発言を肯定しつつ、現実問題として命令が放置できないものであることを淡々と説明する。
「君、そもそも民間人の定義とは?」
バルカスは端的に定義を述べる。
「我が国の国民であり、王国各省の職員でない無辜の人々であります」
「では、彼らは?」
上官は、今回のターゲットとなった旧魔族・現亜人種の立場について質問する。
「無論、民間人でありましょう。国土にて生活を営む以上、人種に関係なく保護されるべき存在であります」
上官は、ヘルメットの奥で目を少しだけ細め、部下の若さを窘めるように言う。
「では、彼らの暮らす場所は、果たしてレゾルグ王国の国土であると言えるかね?」
「……は?」
「知っての通り、死闘の森の国境線は明確でない。ゆえに我ら開拓軍は、国土の規定を明確にすべく、開拓と警護の任にあたっている。さて、彼らは本当にレゾルグ王国の国土に暮らす無辜の人々と言えるのかね?」
「そ、それは……」
上官の言っていることは、若さゆえの正義感を持て余すバルカスにも理解できた。死闘の森は広大で、かつその下にあるはずの月下公国レジエール、吸血種が治める国との国境は明確にできていない。
あえていうならば、森によって国境が示されているようなものである。したがって、詭弁に近い論理を呈すれば、森で暮らす民は”どちらの国にも属さない”民であり、レゾルグ王国が保護する理由はなかった。
むしろ、レゾルグ王国の提案を断り抵抗する時点で、明確な敵になり得る要件を揃えている。しかし、バルカスは実際に山間の民と接した経験から、彼らが戦闘能力を持つ存在だとは思えなかった。
「……その判断は、全種族保護法第四条『居住の自由と財産の不可侵』に違反すると自分は考えます。今はまだその時では」
「その時なのだよ、バルカス君」
上官は、一刻の猶予もならないとバルカスを諭す。
「こうは考えられないか?彼らは我が軍の窮状を知っている。砦の堅牢さを維持し、砦で戦いに臨む冒険者や兵士たちの安全を守るためには、あのマハタイト鉱床の掌握は必須だ。しかし、その事情を理解した上で、できる限り自分たちに有利な条件での契約を吞ませるまで、我が軍を苦しめようとする意図があるとは」
バルカスの頭の中には、石造りの町のベンチにチョークでお絵描きをする子供の姿や、敬虔に教会で祈りを捧げる老人たちの姿が思い出された。
「……そんなはずは、ないでしょう……ただ彼らは生活を……」
絞り出すように反対意見を出すバルカスだったが、執務室の空気は上官の次の一言で完全に割れてしまった。
「内務省および軍務省の辞令だ。バルカス伍長、君を仮称『石の民』討伐隊隊長に任ずる」
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国の命令に従い、無辜の民を討伐することになったバルカスは、冒険者を率いて宣誓する。
「……諸君らに告ぐ!この町は我ら辺境開拓軍が掌握する!抵抗しなければ命は奪わぬ!潔く……潔く、町を離れ鉱床を……」
「鉱床を明け渡せ、だよ、バルカスさん」
冷淡な声で、フードをかぶった冒険者がバルカスに耳打ちする。
若き日のトゥイは、自分が暗部であることをバルカスに伝え、事実上の作戦指揮を執っていた。
明らかに困惑している様子の兵隊を見た石の町の人々は、よく見かける兵隊の一人が何かを言っていると興味津々で近づいてきた。バルカスは辺境警備と称して石の町にも足を伸ばしており、多くの人に顔が知れていた。
「あんれぇ、バルカスさん、どうしたのさ」
朝の水浴びを欠かさないおじいさんが、心配になってやって来た。
「あれだべぇ、兵隊さんは訓練せんといかんから、それで来たんでねえのかい?」
ぐずる孫を右手で引っ張りながら、風車のようなおもちゃを回すおばあさんがいる。
「バァルカス坊、ウチに来て肉せんべい食ってけぇ、こないだポーションもらったから調子いいわ、あんがとなあ」
一週間ほど前、採取中にケガをしたおじさんが、ポーションを分けたときのお礼を言いに来た。
バルカスは、自分にこれほどよくしてくれた人々に、どう剣を向ければいいのか分からなかった。温かい声を聞くたびに、目の前が水の膜で覆われたように濁り、やがて誰の顔も見えなくなった。
『……こんなことをするために、俺は剣を取ったのでは……ない!』
顔をくしゃくしゃにして、自分という人間が兵士として上に立つ限界を悟った瞬間、バルカスの背筋に何かが忍び込んだ。
「悪いね。」
バルカスの背後をとったトゥイは、その冷たい手をバルカスの背中に添えた。
一瞬にして、バルカスの心にあった温かい感情が凍結するとともに、先ほどまであった目の潤みが消えていく。
彼らは、誰だ?
俺は、今、何をしている?
目の前の風景が、どんどん遠くに離れていく。
空から、誰かの声が響いて聞こえる。
「死神の慈悲を、死を恐れぬ無法者へと賜りたく。光あるところの迷いを断ち切り、闇の思念に心を縛らん。失うことへの恐れなきよう、愛ゆえの檻をこの者の心へ。責任は信仰者にあり――【魂の忘却】」
詠唱が完了すると、トゥイの手から流れる黒い魔力の靄が、バルカスの体内へと流れ込んでいく。
「う……、あ……」
闇が身体の中に入るにつれて、バルカスの顔から感情が抜け落ちていく。
やがて、情熱ゆえの涙を流していたバルカスは、能面のように表情をなくした。
「作戦開始」
トゥイの静かな、それでいて妙に響く声の後。
バルカスの記憶は、遠くにいる人々の風景に、バスタードソードを振り下ろしたところで終わった。
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数時間後。
意識を取り戻したバルカスが見たのは、粉々になった石の家々と、木々が燻る風景だった。
その手には、血まみれのバスタードソードが握られている。
目の前に遺体はない。
ただ、自分が立っている場所にも、少し離れた場所にも、屋根の上にも赤黒い染みのような汚れ。
自分が何をしたのか、何とかして思いだそうとする。
だが、どうしても思い出せない。
遠くに目をやると、冒険者たちが数匹の魔物を屠ったようで、解体作業を行っている。
バルカスは一人、考えをめぐらす。
『……魔物の襲撃に、間に合わなかった……?』
強烈な違和感がある。
そんなはずはない、と、心が騒ぎ続けている。
何かが足りない。
本来ここにあるはずだった何かが。
ここで生活を営むべき人々がいたはずだ。
学校で勉強をしていた子供たちがいたはずだ。
教会で祈りを捧げていたご老人がいたはずだ。
今、ここには自分と、砦の防衛兵と、冒険者しかいない。
おかしい。
そして、血まみれの人間は、俺しかいない。
ざわざわと、身体中を悪寒が支配する。
状況から導かれる答えは、一つ。
『俺が……やったって……いうのか……』
少しずつ思い出していく、かつて、自分に向けられていたはずの笑顔。
バルカスは、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
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