弟は兄をただ凄いと
真夜中だ。
混乱するなずなさんを実家に向かわせることは阻止できた。
兄は凄い。
実家に今すぐに帰ると言い出したなずなさんを宥めだけでなく、自分からなずなさんの実家に電話を入れて彼女の両親を宥めたのだ。
宥めただけでない。
なずなさんが全くの無実で貶められた事を彼女の両親に伝え、この冤罪について全て相手に賠償させるからと安心させた。
なずなさんのお父さんは、血が頭に昇って倒れた、とか言う状況では無かった。
届いた内容証明付き封書の中身を読んで機嫌が悪くなり、昼間から酒を飲み始めての今は半分ふて寝の様な状態ということだった。だから、兄からなずなさんが全くの無実と聞いて、なずなさんの父親は内容証明を送って来た弁護士事務所に殴り込みに行く勢いで憤慨していたくらいだ。
「ええ。ご心配なく。私の方も顧問弁護士を動かしています。あなた方に内容証明を送った弁護士事務所についてはこちらが対処します。間違った情報に踊らされてのなずなさんへの名誉棄損行為、許しませんからご安心を」
電話の向こうのなずなさんの両親も、倒れた父親への心配で混乱しているなずなさんも、兄が一人で落ち着かせたのだ。
「ええ、ええ。明日すべて一緒に相談しましょう。では」
すごい、俺達兄弟が今日からなずなさんと同居する話まで、明日なし崩し的に認めさせるつもりだ。俺は兄の手腕には惚れ惚れどころかゾクゾク脅えた。
この人、本気で怒らせたら駄目な人だ。
だが、味方にいれば百人力なのも事実だ。
なずなさんは二階の部屋で寝ている。
早すぎる時間かもしれないが、彼女は疲れているはずだ。
俺は彼女と同じ屋根の下という状況に眠れなくなっていると、自分を恥知らずと罵りながらキッチンの冷蔵庫を開ける。出来る限り音が出ないように。
夕飯の前に開けなくて良かったぜ。
ミルワームや赤虫などの生餌に、まだ羽化させたくない幼虫などが冷蔵庫の棚に並べられていた。一瞬で食欲が失せた。ついでに、今夜食べたエビグラタンのエビは本物のエビだよね、と別の不安も湧き出て来た。
いかん。
俺は少々乱暴に炭酸水を手に取り、しかし冷蔵庫は神経質な程に静かに閉めた。
ここには夜行性の狩人がいるのだ。
炭酸水の蓋を開けた時にプシュッと出た音がリビング中に響いた気がして、俺は怖々と周囲を見回す。
水槽群から離れた位置に、ちょこんと設置してあるケージが目に入った。
今や目隠しの布が駆けられた長方形のシルエットでしかないそれであるが、俺には解っている。ケージの中で、実は夜行性のモルモットが目を光らせて俺を見ているということに。
絶対に俺をじっと見ている。
俺が奴に意識を向けていると気が付けば、餌寄こせのコールを始めるはずだ。
「リビングに置くべきじゃ無いんだよな」
「犬猫は許されて、トカゲは駄目か?」
「ちがう。トカゲなんか可愛いものだ。俺が言っているのは、つぶらな瞳で人間をカツアゲして来る凶悪な生き物のことだ」
「ぷ、くくく。それはお前のことか?」
「兄さん」
兄も眠れないのか冷蔵庫まで歩いて来たので、兄用にペットボトルをもう一本取り出そうと冷蔵庫に手をかける。
「ハハハ。ああ、それはいらない。俺は温かい茶を飲みに来たんだ。お前も温かいのはどうだ?」
「ハーブティーに凝っているんだっけ? 今」
「ああ。ヨガスタジオで飲んだら嵌ってさ」
「兄さんが、ヨガ」
「お前も行くか?」
行くわけ無いだろ、と言い返しかけて、俺は口を噤んだ。
兄がガスコンロにヤカンを乗せただけなのだが、そんな兄の背中が数年前の俺の記憶を呼び覚ましたのだ。
もちろん、兄がコンロに向かっている姿は、この家のキッチンではなくあの家のキッチンだ。兄の結婚相手、更木柚葉の実家である、あの爬虫類館という名の店がくっついた住居のキッチン。




