5:おかしな仮面夫婦(4)
一通りの挨拶を済ませたところで夜会を早めに抜け出したアウローラとヴィンセントは、帝都の屋敷に戻ってきた。
皇帝から賜ったこの屋敷は、特別に豪奢というわけではないが、貴族としての体裁を保つには十分な造りをしている。玄関ホールは程よく広く、白壁と大理石の床が夜の灯りを受けて静かに輝いていた。
「……お先にどうぞ」
「ありがとうございます」
アウローラをエスコートするように玄関扉を開けたヴィンセントは、小さくため息を漏らした。
(……慣れないな)
無駄に長い廊下と無駄に高い天井。
アウローラにとっては見慣れた貴族の屋敷でも、軍の宿舎で暮らしていたヴィンセントにとっては、どこを見ても広すぎるのだ。
ここに帰って来る度、彼はまるで自分だけが場違いな場所に迷い込んだかのように、緊張してしまう。
「お帰りなさいませ、旦那様。奥様」
二人を出迎えたのは、家令のリオルと、年嵩のメイドのジーナだった。
「ジーナ、風呂の用意は?」
「はい、出来ておりますよ。すぐに入られますか?」
「ああ、頼む。ついでにマッサージもしてやってくれ」
「かしこまりました。……では、奥様。こちらへ」
「…………わたくし、ですか?」
てっきり、自分の風呂の用意をさせているのかと思っていたアウローラは、驚いたように目を瞬かせた。
「あの……、わたくしがお先にお湯をいただいてもよろしいのですか?」
「はい、もちろんです。あなたのために用意させておいた湯ですから」
むしろ、何故そんな当たり前なことを確認してくるのか。ヴィンセントは不思議そうに首を傾げた。
妙に噛み合わない二人に、ジーナとリオルは顔を見合わせ、肩をすくめる。
「アウローラ、今夜はお疲れでしょうし、しっかり湯船につかり、体を温めてからお休みください」
「は、はい」
「では、俺はもう行きますね。おやすみなさい」
「おやすみなさい……」
言動はアウローラを気遣っているのに、態度はちっともそう見えない。
相変わらずの素っ気ない口調と合わない視線に、アウローラはポカンとしたまま、去ってゆく夫の背中を見送った。
*
自室に戻ったヴィンセントは、扉を閉めた瞬間、上着や装飾品を脱ぎ散らしながらベッドへ倒れ込み……
枕に顔を埋めて叫んだ。
「ああぁぁぁー!! か・わ・い・いー!!!」
足をバタバタと激しく動かし、枕を抱きしめてベッドの上でのたうちまわる姿は、まるで恋する乙女そのものだ。そのでかい図体には似つかわしくない。
「……ハァ」
家令リオル・バーネットは、大きなため息をこぼすと、肩くらいまで伸びた黒髪を後ろで緩く束ねた。
そして主人が床に脱ぎ捨てた上着や高価な装飾品を手際よく拾い上げると、テキパキとクローゼットへ片付けていく。
「もう少し声を抑えてください。本人に聞かれたらどうするんですか」
枕に顔を埋めて叫んでいるため声はくぐもっており、はっきり聞き取ることはできない。そもそも主語がないため、『可愛い』の対象が誰なのかも、第三者にはわからない。
だが、それでもこの叫びは絶対に本人には決して聞かれてはならない。
だって、そういう約束だから。
「まったく……。何が『邪な目で見ない』だ。十分すぎるほど、そういう目で見てるじゃないですか」
リオルはその薄い紫色の瞳を細め、心底軽蔑したように眉を寄せた。
ヴァレンティア家との取り決めである『アウローラを邪な目で見ない』という誓いを、この男は最初から守る気などないのだ。
「旦那様の視線が奥様にバレていないのは、元々の目つきの悪さとそのでかい図体から放たれる威圧感のおかげなんですからね?」
「……うるさいな。わかってるよ」
ようやく枕から顔を上げたヴィンセントは、髪をぐしゃぐしゃに乱したまま不満そうに呟いた。
「まあ、男としての欲望は……血を吐くような理性で何とか抑え込んでいるようですし、適度な距離感に関しては、むしろ不自然なほど距離を取って逃げ回っているので、旦那様の恋心がバレることはそうそうないでしょうが」
「リオル、お前ほんっとうるさい」
「うるさいのは貴方ですよ、旦那様」
少女のように可憐で愛らしい顔立ちからは想像できないほど、容赦なく辛辣な毒を吐く男だ。
ヴィンセントは冷めた目で自分を見下ろしてくるリオルに対し、不服そうに唇を尖らせた。
「うるせぇな、可愛い顔しやがって……」
「相手が気にしていることを平気で口にするなんて、人間として最低ですね。心底軽蔑します」
「ほんと辛辣だな。可愛げがない」
「褒め言葉と受け取っておきます。それより、ほら。さっさと着替えてください。僕ももう眠いんです。早く休みたいんです」
リオルは大きな欠伸をしながら、ヴィンセントに寝巻きを投げつけた。
「今日も朝から晩まで働き詰めだったんですから」
「ははっ。苦労をかけるな」
「本当ですよ。使用人の数に制限があるのなら、こんなに広いお屋敷に住む必要ないでしょうに」
リオルは広い室内を見渡し、呆れたように鼻で笑った。
この屋敷では、アウローラの身の安全を守るため、使用人の数を最小限に抑えている。
人員は、皇帝が所有していたころから、長くこの屋敷の管理を任されているメイドのジーナとその双子の娘。そして庭師兼馬丁、御者を務めるジーナの夫。それ以外だと、新しく雇ったシェフの女性が一人と、家令のリオルだけだ。
全員信用に足る人物なので、アウローラは安心して穏やかに暮らすことができているようだが、いかんせん人数が少ない。そのため、一人当たりにかかる負担は決して小さくないのが現状だ。
「皇帝陛下から賜った屋敷だ。仕方がないだろう」
「陛下も、どうしてこんなに立派すぎるお屋敷をくださったのか……」
「貴族としての体裁を保つためだな」
「貴族って面倒くさいですね」
「まあ、そう言うな。グランフォートの屋敷はもっとこぢんまりしているから。あと、そろそろヴァレンティア家からアウローラの侍女が一人送られてくる予定だ」
「グランフォートにはその人も連れて行くんですか?」
「ああ。そのつもりでこちらに来てくれるそうだ」
「では、連れて行くのはジーナの娘のマルタとエルゼ……、それから、その侍女の方ですね」
「長旅になるからな。ジーナたちを連れていくのは負担が大きいだろう。彼女たちにはここに残ってこのお屋敷を守ってもらう。……そういえば、リオル。現地で雇う使用人の方はどうだ?良いやつは見つかったか?」
「はい。知り合いの伝手で紹介してもらいました。机に候補者の身辺調査報告書を置いてありますから、明日にでも確認してください」
「了解」
ヴィンセントは投げられた寝巻きに着替えながら、短く答えた。
その直後。
コンコン、と控えめなノックが響いた。
「旦那様、まだ起きていらっしゃいますか?」
扉の向こうから聞こえたのは、アウローラの声だった。
「……っ」
ヴィンセントは目を見開く。
「リオル!」
「はいはい。わかりました。空気になっておきます」
リオルは欠伸を噛み殺しながら部屋の隅へ下がった。
「いや、そうじゃなくて……!」
むしろ、代わりに対応して欲しいのだが。
そう言いかけたヴィンセントの耳に、再びノックの音が届く。
「旦那様?」
「あ、えっ、ま、待って!」
ヴィンセントは慌てて寝巻きの襟を整えると、急いで扉を開けた。
その慌ただしさに、アウローラはコテンと首をかしげた。
「もしかしてもうお休みになられるところでしたか?」
「いや、そういうわけ……では……?」
そこまで言って、ヴィンセントは固まった。
ほのかに湿った髪と、化粧を落としたあどけなさの残る素顔。薄手の寝間着に身を包み、肩にストールを羽織っただけのアウローラの姿に、彼の視線が吸い寄せられる。
アウローラは、なぜ彼がそんなにもジッとこちらを見つめてくるのかが分からず、今度は反対側に首を傾げた。
「……旦那様?どうかなさいまして?」
「あ、いや……!ちが……!」
アウローラの声に、ハッと我に返ったヴィンセントは、咄嗟に顔を背ける。
彼の眉間には、これ以上ないほど深い皺が刻まれていた。
「旦那様?」
「そ……」
「そ?」
「そんな格好で、夜中に歩き回るものではない………と、思います……」
「え……?」
アウローラはゆっくりと、自分の格好を見下ろした。
そして、そこで初めて、ストールが少しずれていることに気づいた。
「あ……」
これは大変はしたない格好だ。
アウローラは慌てて胸元を隠し、申し訳なさそうに眉を下げた。
「申し訳ありません。ご不快でしたよね」
「いや、そういう問題ではないのだが……」
まさか、男としての理性が試されて危ないからだ、などという馬鹿な本音を言えるはずもない。
ヴィンセントは顔を背けたまま、「……気にするな」とだけ短く絞り出した。
そうして内心の動揺を抑え込むように深く息を吐き出すと、相変わらずの仏頂面を貼り付け、そっと彼女へ視線を戻した。
「それで?こんな時間に、何のご用でしょうか?」
「えっと……明日の朝稽古はどうなさるのか、お伺いしたいと思いまして」
「朝稽古って……まさか、明日も一緒にするつもりだったのですか?」
「ええ、もちろんですわ。一日サボると、感覚を取り戻すのに三日かかると言いますでしょう?」
「それはその通りですが……」
本来であれば、裕福な貴族の令嬢であるアウローラが、ストイックに身体を鍛え上げる必要などどこにもないはずなのに。
(きっと、そうせずにはいられないのだろうな……)
男を誰一人信用できず、常に戦えるよう気を張らざるを得なかった過去の傷。それを思い知るたび、ヴィンセントの胸は締めつけられる。
(安心して息をつける場所を作ってやりたい)
胸の中で渦巻くやるせなさに、ヴィンセントは思わず拳を強く握りしめた。
「アウローラ」
「はい、何でしょう?」
「今は……」
言葉が喉まで出かかり、ヴィンセントは咄嗟に口をつぐんだ。アウローラは不思議そうに彼の顔を覗き込む。
「旦那様……?」
「……いや、何でもないです」
(今は俺がいる。君を傷つけるものからは、俺が命がけで守るから)
ヴィンセントはそんな本音を、血を吐くような理性でどうにか飲み込んだ。
今その言葉を口にすれば、彼女を警戒させ、自身の評判と引き換えに勝ち取った信頼を壊してしまうかもしれないからだ。
「明日は、少し軽めの稽古にしようと思っています。……俺も、少々疲れましたので。それでも良ければ、いつも通りの時間に」
「本当ですか!ふふ、ありがとうございます」
アウローラは安堵したように笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
そして「おやすみなさいませ」と可憐に踵を返し、自室へと戻っていく。
無防備で、無警戒なその背中を、ヴィンセントはただ切なさの募る瞳で見送ることしかできなかった。
*
翌朝、裏庭でヴィンセントから体術の指導を受けるアウローラを眺めながら、リオルとジーナは顔を見合わせて、肩をすくめた。
アウローラがヴィンセントに向ける真剣な眼差しと、それに応えるように厳しく指導するヴィンセント。
その姿は夫婦というよりも、師匠と弟子である。
「奥様の信頼は、しっかりと得られているようですね」
「そうですね。女顔の僕ですら警戒なさるのに、どうしてあの大男は平気なんでしょうか」
「絶対に自分に好意がないと思い込んでいらっしゃるのよ」
「実際はむしろ好意しかないんですけどね」
「……もしバレたらどうなるのかしら」
「きっと『安全だと思っていたのに裏切られた』と思うでしょうね」
そうなれば、もちろんこの仮面夫婦は終わりだ。離婚の他に道はない。
だからこそ、ヴィンセントは『冷たく素っ気ない夫』の仮面を被り続けなければならないのだ。
リオルはジーナと共に、主人のあふれんばかりの恋心を死んでも隠し通すことを、改めて心に誓い合うのだった。




