4:おかしな仮面夫婦(3)
背後から突き刺すような視線を感じ、ヴィンセントはびくりと肩を震わせた。
「どうした、ヴィンス?」
アウローラの兄であり、ヴァレンティア公爵家の嫡男であるロベルトは不思議そうに尋ねる。
さらりと肩になびく金髪に、涼やかな青い瞳。妹のアウローラによく似た格式高い顔立ちの男だが、絢爛な衣装を身にまとったその佇まいには、公爵家の跡取りとしての威厳と華がある。
「い、いえ。少し悪寒が……」
ヴィンセントは不審そうに背後を警戒した。
ロベルトはそんな彼を見て、可笑しそうに口端を上げた。
そして、グラスを揺らしながら、親しみを込めてその背中をぽんと叩く。
「背中を狙われているんじゃないか?何せ、社交界の『女神』とまで称されたアウローラを、掻っ攫っていったのだからな。男どもの嫉妬の視線なら、この会場中に溢れているぞ」
「や、やめてくださいよ」
ヴィンセントは困り果てたように眉をひそめ、小さく息を吐き出した。
「……本当に、すまんな。こんな風に汚れ役を買って出てもらうことになって」
それまでの軽妙な態度から一変、ロベルトの表情にふっと陰りが落ちた。
その変化に、ヴィンセントは首をかしげた。
「それは……あの結婚式での件を仰っているのですか?」
「それ以外に何がある」
「ははっ。よしてくださいよ。あれは俺が自分の意志でやったことですから」
「しかし、そのせいでお前の評判は地に落ちただろう」
嫌でも世間の注目が集まる、社交界の華アウローラ・ヴァレンティアの結婚。相手が身分違いの元平民というだけでも周囲の耳目を集めるには十分だったが、その縁談を整えたのは他でもない皇帝陛下だ。
当然、帝国中の視線が二人に注がれていた。
そんな中でヴィンセントが言い放った言葉は、激しい波紋を呼んだ。
三ヶ月経った今も、世間の責め苦はすべて彼一人へと向けられている。
――帝国史上、最も愚かで最低な夫
タブロイド紙には連日、誇張と悪意に満ちた批判記事が掲載されている。
だが、あの劇薬のような宣言に隠された真の意図を知るロベルトにとって、ヴィンセントにそこまでの悪名を背負わせてしまったことは、とても心苦しいことだった。
「今朝の記事も酷い物だった」
「ははっ。そうですね」
「やはり、せめて身内にだけでも君の真意や、この婚姻の意図を話しておくべきでないか?知っているのは私と父以外だと皇帝陛下くらいだろう?ニコラス殿下でさえ、知らない」
「いいえ、その必要はありません。元々、落ちるほどの評判なんて持ち合わせていませんから」
「しかし……」
食い下がろうとするロベルトを、ヴィンセントは静かな眼差しで制した。
「真実を知る人は少ない方がいい。もし、どこかから婚姻の真の意図がアウローラに伝わってしまえば、優しい彼女は間違いなく自分を責め、気に病むでしょう。……それは、俺の本意ではありません」
「ヴィンス……」
「それに、こうなったのは俺の不手際です。俺がもう少し器用に立ち回れていれば、彼女を『哀れなヒロイン』に仕立て上げずに済んだものを……。むしろ、謝罪すべきは俺の方ですよ」
あの日、ヴィンセントが帝国史上最低の夫としての烙印を押されたのと同時に、アウローラもまた、帝国一不幸な花嫁という哀れみの視線を背負うことになった。
自分が不器用だったせいで彼女の名誉までも傷つけてしまったのだと、ヴィンセントは言う。
ロベルトは、背負わされた悪名に対して嫌な顔ひとつ見せず、どこまでも妹の心を察して気遣う彼の横顔を見つめ、ふっと小さく吐息を漏らした。
「ヴィンス……お前は、本当にいい男だな。……お前が本当に我が妹を愛してくれたなら、どれほど良かったか」
漏れ出たのは、彼女の兄としての切実な本音だった。
だが、ヴィンセントは困ったように眉を下げ、「ご冗談を」と首を振る。
「……おかしなことを仰いますね。『男として触れないこと』を絶対の条件に、彼女との婚姻を求めてこられたのはあなた方でしょう?」
「はは……そうだったな。全く、その通りだ」
ロベルトは自嘲するように笑い、手元のグラスへ視線を落とした。
すべての発端は、隣国の老王から突如として届いたアウローラへの求婚だった。
求婚してきた男はすでに五人もの妃を娶り、女性を玩具のように扱うと悪名高い五十歳の好色漢。
もちろん、ヴァレンティア公爵家としては断固として拒否したい申し出だった。
けれど、他国とのパワーバランスを考えると、無下に突っぱねることもできない。
相談を受けた皇帝からは、『だったら、皇太子ニコラスと婚約させるか』と破格の提案も持ちかけられたが、皇太子の婚姻という国家の最重要カードを、いち令嬢の危機を脱するためだけに浪費するわけにはいかず……。結局、ヴァレンティア公爵は他家への影響や国家の今後を考慮し、その申し出を断った。
そうして、絶体絶命の危機に瀕したヴァレンティア公爵家が選んだ苦肉の策。
それが、ヴィンセント・アルドリッジだった。
アウローラを老王に渡さないためには、彼女が既婚者になる必要がある。
だが、過去の男たちの浅はかな欲望のせいで心に深い傷を負ったアウローラにとって、見知らぬ男との突然の結婚は耐え難い苦痛となるだろう。
つまり、相手の男は最低限、『アウローラを邪な目で見ることなく、男としての欲望を向けず、彼女と適度な距離感を保てる男』でなければならない。
そこでヴァレンティア公爵が目を付けたのが、平民出身でありながら目覚ましい軍功を挙げ、若くして将校へ上り詰めたヴィンセントだった。
海軍所属でありながら、浮いた話が一つもない堅物な男。真面目で誠実で忠誠心が強く、腕っ節も強い。
そして何より、あのアウローラの美貌を前にしても決して目つきを変えることなく、それどころか無意識に距離を取る程度には女が苦手。
ヴィンセントはアウローラの結婚相手としては最良だった。
もう、彼しかいない。そう思ったヴァレンティア公爵はすぐに皇帝へ打診した。
無欲なヴィンセントへの褒賞を『社交界の女神との結婚』にしてはどうか、と。
皇帝はなるほどと深く頷き、即座に彼との面談の場を設けたのだった。
(……あの時は必死だったから深く考えもしなかったが、今思えばとんでもない条件を出したものだ)
ロベルトはジッとヴィンセントを見やった。
公爵家が身分差を利用し、有無を言わさぬ形で突きつけたあの無礼極まりない条件を、この男は素直に受け入れ、一つ返事で結婚を承諾した。
そればかりか、式当日。不安げに表情を曇らせるアウローラを見て、咄嗟に「愛さない」と宣言して見せた。周囲の招待客は気づいていなかったが、あの瞬間のアウローラは心の底から安堵した顔をしていたのだ。
きっと、『この人は自分を女として扱わない』と悟ったのだろう。
ヴィンセントはあの発言が周囲にどう受け取られ、どれほどの悪名を背負うことになるか分かっていたはずだ。それなのに、あえて泥をかぶり、アウローラの心の安寧を優先してくれた。
(不器用だが、優しい男だ……)
ヴァレンティア公爵家は、果たしてこの誠実な男に報いることができるのだろうか。
「……何か?」
ロベルトの視線に気づいたヴィンセントは、不審そうに首を傾げた。
「ああ、いや……失礼。次の赴任地はどこだったか、と思ってな」
ロベルトは手に持ったグラスを少し傾け、誤魔化すように問いを投げかけた。
「グランフォートです。東部の港町ですよ」
「そういえば、そうだったな。あそこへアウローラも連れて行ってくれるそうだが……生活環境や防犯面は大丈夫なのか?」
「問題ありません。グランフォートの使用人は全員女性で揃えるつもりです。一応、俺が不在の時の護衛として一人、軍とは無関係な男を屋敷に住まわせますが、彼は中性的な顔立ちで威圧感もありませんし、彼女の事情も把握しています。何より、俺を裏切るような真似は絶対にしない、最も信頼できる男です」
「そうか。そこまで配慮してくれているなら安心だ。……だがまあ、アウローラにも一応、幼少期から一通りの護身術は叩き込んである。いざとなればある程度は自分で対処できるだろう」
「……そのようですね。俺も、朝の鍛錬に付き合うと言われた時は心底驚きました」
一緒に暮らし始めてしばらく経った頃、アウローラはヴィンセントの朝稽古に顔を出すようになったのだ。
そしていつの間にか、『自分の身は自分で守れるようになりたいから』と、真剣な眼差しで指導を乞う彼女に押し切られる形で毎朝共に汗を流すようになった。
「くくっ。本当に、あんなに逞しいご令嬢を俺は他に知りませんよ」
今朝の光景を思い出し、ヴィンセントは思わず口元を緩める。
普段の彼からは想像もつかないほど柔らかい微笑みに、ロベルトは目を丸くした。
「驚いた。君もそんな顔をするんだな」
「え……!?」
「意外と仲良くやっているようで安心したよ」
意図せず漏れ出ていた笑みを突かれ、ヴィンセントは慌てて表情を引き締めた。
「そ、そうですね。良い師弟関係を結ばせていただいています。その、決して夫婦として仲が良いというわけでは……」
「ああ、大丈夫だ。わかっている」
「で、では、俺はそろそろ失礼しますね。あまり長居しては、アウローラを一人にしてしまいますので」
「ああ、引き止めて悪かったな」
「いえ」
背を向けて歩き出そうとするヴィンセントの背中に、ロベルトは声をかけた。
「ヴィンス。何から何まで、ありがとう」
「ロベルト様。やめてください。この結婚はお互いの合意の上に結ばれたものです。だから、貴方様が俺に恩義を感じる必要などないのです。……それに俺は、この結婚で十分すぎるほどの見返りをいただいているのですから」
「……見返り? それは、今回の昇格と与えられた爵位のことか?」
「それもあります」
「それ……も?」
他には何があるというのだろう。相応の支度金なら手配したが、それ以上のものを彼に渡した覚えはない。
困惑して首を傾げるロベルトに対し、ヴィンセントはそれ以上何も語らなかった。ただ一礼を残し、静かにその場を去っていく。
(昇格でも爵位でもない見返り……? 一体何のことだ……?)
背を向けた義弟の残像を追うロベルトは、しばらくの間、腕を組んで首をひねり続けるのだった。




