2:おかしな仮面夫婦(1)
あの衝撃的な結婚式から三ヶ月。
皇太子主催の夜会に招待されたアウローラは、ヴィンセントに手を引かれ、入場口の扉の前に立った。
「アルドリッジ男爵夫妻のご入場です!」
口上と共に扉が開かれたその瞬間、夜会の喧騒が一瞬だけ止んだ。
好奇と憐憫、嘲笑の視線が二人に注がれる。
だが、ヴィンセントは何食わぬ顔をして堂々と会場内を進んだ。
二人が奥へと進むたび、自然と道ができる。皆が彼らを避けるように、一歩ずつ足を後ろに引いているからだ。
「皆様の反応は相変わらずですわね」
アウローラはポツリとそう漏らし、ヴィンセントを見上げた。
だが、彼の方が頭ひとつ分背が高いせいで、表情はよく見えない。
「アウローラ」
「はい、なんでしょうか。旦那様」
「手を、離してくれないでしょうか。……歩きづらい」
「あ……申し訳ありません」
アウローラは慌てて、ヴィンセントの腕を掴んでいた手を離した。
ヴィンセントは相変わらずそっぽを向いたまま、アウローラが掴んでいた場所をさする。
その仕草はまるで、彼女が触れていた場所を拭っているようにも見え、周囲は少しだけざわついた。
「まあ、なんて失礼な」
「ありえない。紳士として最低だ」
「アウローラ嬢が不憫でならない」
「私なら耐えられませんわ」
軽蔑の視線と共に、そんな声が聞こえてくる。
扇で口元を隠そうが、小声で話そうが、誰が話しているかは丸わかりだ。
アウローラは小さくため息をこぼした。
その時だった。
広間に甲高い笛の音と、透き通った銀鈴の音がホール全体に響き渡った。
無遠慮なささやき声は一瞬でかき消され、重々しい静寂が広間を支配する、
招待客の視線が、アウローラたちから一斉に逸れた。
「静粛に」
吹抜けの二階、会場全体を見下ろせる大階段の頂上に位置するテラスへ、金色の儀礼杖を手にした儀典長が歩み出た。
杖が大理石の床を「コツン」と打つ音が、高い天井に反響する。
「ニコラス・オルテシア皇太子殿下のご入場です!」
口上とともに重厚な両開きの大扉がゆっくりと開かれ、背後から漏れる眩い燭台の光の中から、皇太子ニコラス・オルテシアが姿を現した。
貴族たちは、風にそよぐ麦穂のように一斉に頭を下げていく。
アウローラも、彼らと同じようにドレスの裾を広げて優雅に膝を折った。その隣で、ヴィンセントがぎこちない仕草ながらも、胸に手を当てて腰を折る。
(……まだ慣れていないのね)
佐官への昇格のためだけに与えられた爵位。一応、その際に一通りの礼儀作法は身につけさせられたらしいが、所詮は付け焼き刃だ。
アウローラは半歩彼の方に寄り、そっと耳打ちした。
「旦那様、腰はもう少しだけ深く折ってください」
「こ、このくらいですか?」
「ええ、完璧ですわ」
自分の指摘に素直に答えるヴィンセントの姿に、アウローラは思わず笑みをこぼした。なんだか可愛いと思ってしまったのだ。
だが、ヴィンセントはその笑みが気に食わなかったのか、グッと眉を寄せて唇を噛み締めた。
女性が苦手な彼にとっては、世間が『女神の微笑』と持て囃すその微笑みも、ただただ不快なものなのだろう。
この扱いは、結婚して三ヶ月経った今も慣れない。
「皆、頭を上げてくれ。今宵は我が国の未来を祝う宴だ。礼儀に縛られず、大いに楽しんでほしい」
テラスから伸びる大階段の半ばまで降り立ったニコラスは、貴族たちの頭上から朗らかな声を響かせた。
その一言で皆が一斉に頭を上げる。そして同時に、波が引くように緊張が解け、ホールには再び華やかな音楽と談笑が戻り始めた。
音楽がテンポの良い輪舞曲へと変わると、着飾った貴族たちはパートナーを誘い合って中央のダンスフロアへと繰り出していく。
アウローラはそっと隣の夫を見上げた。
(ダンスは……、踊るべきよね……)
夫婦の仲がどれほど険悪であろうと、夜会では少なくとも一曲は共に踊る。それが社交界の暗黙の了解だ。中でも最初の一曲は、夫婦や婚約者など、正式なパートナーと踊るのが習わしである。
だから、アウローラは意を決して、ヴィンセントをダンスに誘おうと口を開いた。
けれど、
「やあ、アウローラ。息災にしていたかい?」
差し出しかけた言葉を遮るように、頭上から親しげな声が降ってきた。
ハッとして振り返ると、そこには皇太子ニコラスが立っていた。
「ニコラス殿下……!」
アウローラはすぐさま優雅にドレスの裾を広げ、カーテシーを捧げた。
「お久しぶりでございます。本日のお招き、心より感謝申し上げますわ」
「そう堅苦しくしないでくれ。君と話す時くらい、僕はただのニコラス兄様に戻りたいよ」
ニコラスは嬉しそうに目を細めると、まるで妹の成長を慈しむような温かい眼差しをアウローラに向けた。
そして、その視線をゆっくりと隣のヴィンセントへと動かす。
「アルドリッジ少佐も久しぶりだな。先日の南西海域における海賊討伐作戦は実に見事だったと聞いている。我が国の海の安全は貴官に守られていると言っても過言ではないな!アウローラを娶ってから、いっそう武功に磨きがかかったのではないか?」
「……恐縮にございます、殿下。全ては殿下の御威光と、配下の者たちの働きによるものに過ぎません」
ヴィンセントは胸に手を当て、先ほどアウローラが教えた通りの完璧な角度で深く頭を下げた。
「はは、相変わらず真面目なやつだ。……どうだ?アウローラ、この堅物が夫で苦労していないかい?何か困ったことがあれば、いつでも僕に言ってくれ」
「まあ、殿下ったら。旦那様はとても誠実で、わたくしをとても大切にしてくださっていますわ」
アウローラはいつものように、寸分の隙もない美しい笑みを浮かべて応じた。
その瞬間、隣に立つヴィンセントの肩が、ぴくりと強張った。
横目を向けると、彼はまたしても苦虫を噛み潰したような顔で、ぎりっと奥歯を噛み締めている。
ニコラスは二人の関係が噂通りであることを察したのか、幼い頃と同じようにポンとアウローラの頭へ手を乗せた。そして、慈しむように優しく微笑む。
「アウローラ。本当に、いつでも頼ってくれ」
「……ニコラス兄様?」
「私はいつでも君を見守っているからな」
「はい、ありがとうございます?」
「では、また後で」
「はい、また」
何か心配をかけるような返答をしただろうか。
アウローラは頭上に残る温もりにそっと手を添えながら、首を傾げた。
こちらはもう二十二だというのに、ニコラスの中ではいつまでも幼い妹らしい。
「……………殿下とは仲が良いのですか?」
去っていくニコラスの背中を見つめたまま、ヴィンセントはアウローラの方を見ようともせず呟いた。その声は心なしか、先ほどよりも低い。
アウローラは首を傾げつつも、素直に答えた。
「ええ、まあ。兄と殿下が幼馴染で、わたくしも幼い頃から良くしていただいています」
「……そう、ですか」
「あの、それが何か?」
「いえ、別に。なんとなく気になったものですから」
「そうですか……」
「……」
「…………」
もしや彼なりの世間話のつもりだったのだろうか。だとしたら、もう少し上手く話題を広げられるような返しをすれば良かった。アウローラは密かに後悔の念を募らせる。
だからこそ、
「旦那様、良ければ踊りませんか?」
アウローラは勇気を出してヴィンセントを誘った。
けれど、
「いえ、俺は結構です。上官に挨拶に行かねばなりませんから。あなたはゆっくり過ごしていてください」
返って来たのは取り付く島もない返答だった。
結局、ヴィンセントはアウローラの顔を一度も見ることなく、彼女の傍を離れた。
「置いて行かれてしまったわ……」
上官への挨拶なら、妻である自分も伴って向かうのが夜会の作法だ。アウローラは去って行く夫の背中を見つめながら、肩をすくめた。
案の定、二人のやり取りを遠巻きに見ていた貴族たちの間からは、嘲りのささやきが波のように広がっていく。
「まあ、アウローラ様を残して行かれたわ」
「妻からのダンスの誘いを断るなんて、最低だ」
「あのアウローラ・ヴァレンティアが、平民の夫からこんな扱いを受けるだなんて」
「許せない」
「惨めですこと」
「私なら、恥ずかしくて消えてしまいたくなりますわ」
「僕ならこんなことしないのに」
「さすが、結婚式であんな宣言をなさるだけありますわね」
「ええ、実に衝撃的なお式でしたわ。あんな場面を見たのははじめてでした」
あからさまな視線と共に、容赦のない言葉がアウローラに向けられる。
アウローラはふぅ、と軽く息を吐くと、隙のない淑女の微笑みを携えて一歩前に出た。
そして、噂話に花を咲かせる集団の一つへ優雅に割って入る。
「ご機嫌よう、フレデリカ様」
アウローラを嘲笑していた者たちの一人、フレデリカ・グランツ侯爵令嬢はびくりと肩を強張らせた。
取り巻きの令嬢たちは自分に火の粉がかからぬよう、扇で口元を隠したまま一歩下がる。
「……ご機嫌よう、アウローラ様」
引きつった笑顔で挨拶を返すフレデリカ。
アウローラはそんな彼女に、普段と変わらぬ完璧な笑みを向けた。
「先日はわたくしの結婚式にまで足をお運びいただき、誠にありがとうございました。フレデリカ様のような方にも温かく祝福していただけて、わたくし、本当に胸がいっぱいになりましたの」
「……なっ!?」
まさかこの場で、自らあの結婚式の話を出すなんて考えてもみなかったフレデリカは、目を丸くした。
余裕のある姿を見せつけ、陰口を叩いていた自分たちに恥をかかせる魂胆かもしれない。
フレデリカはアウローラをキッと睨みつけた。
その瞬間、場の雰囲気は一気に険悪になる。周囲を取り巻く令嬢たちからは、ゴクリと唾を呑む音が聞こえそうだった。
「ま、まあ!お可哀想に!強がっておられるのですね。きっとそうでもなさっていませんと、惨めで立ちすくんでしまわれるのでしょう?」
フレデリカは胸元で扇をパタリと閉じると、これ見よがしに眉尻を下げて痛ましいものを見るような目をアウローラに向けた。
演技がかったその声色には、隠しきれない嘲笑と愉悦がべったりと滲み出ている。
「ですが、お気になさらないでくださいましね?アウローラ様。私はわかっておりますから。あのような無礼な平民風情にこんな扱いをされるだなんて、……。どれほどお辛いことか。ねえ、みなさま?」
振り返ったフレデリカに同意を求められ、取り巻きの令嬢たちも「ええ、本当に」「可哀想に」と頷き合う。
フレデリカは満足そうに口角を上げると、アウローラの手元へと視線を戻した。
「アウローラ様。泣きたい時は、いつでも頼ってくださいませ。……もっとも、あんな平民上がりの男に嫁がれた貴女を、救ってさしあげられる者などこの社交界にはもうおりませんでしょうけれど」
フレデリカは勝ち誇ったように眉を上げる。
だが、アウローラは眉ひとつ動かさなかった。むしろ、反抗期の子どもを見るような、どこか慈愛に満ちた瞳で彼女を見つめ返した。
「まあ!フレデリカ様はお優しいのですね!わざわざわたくしの辛さを想像し、涙を流すご準備まで整えてくださるなんて。貴女のお優しい想像力には、感服いたしますわ!」
「……は?」
「ですがどうぞ、お言葉にはご注意なさって?」
アウローラはそっと扇を開き、口元を覆った。
先ほどまでの穏やかな目元が一変し、氷のような冷徹な光を帯びる。その眼差しに射抜かれたフレデリカは、思わず息を呑んだ。
「ど、どういう意味でしょうか」
「ああ見えてわたくしの夫は、皇帝陛下より、卓越した指揮と忠誠を認められて爵位を賜ったお方ですから」
「……?」
「あら?皆まで言わねばお分かりになりませんか?フレデリカ様のお言葉は、夫を選び、その忠功を称えられた陛下のご見識をも愚弄することになりかねない……と、そう申し上げておりますのよ?」
「なっ……!」
ヴィンセントを愚弄することは即ち、皇帝の眼力と国家の権威を否定することに他ならない。そのことにようやく気がついたフレデリカの顔からは、すっと血の気が引いた。
「社交界の浅薄な噂話に興じ、国の盾たる者を蔑むことが、グランツ家の教育とおっしゃるのなら……少々残念でなりませんわね」
クスリと小さく笑うアウローラの言葉は、フレデリカだけでなく、周囲で調子づいていた令嬢たちの胸をも容赦なく貫いた。
「それに……わたくしが哀れで惨めだなんて、とんでもない誤解ですわ」
ふっと威圧感を収めたアウローラは、扇を閉じると、胸の前で愛おしそうに抱え直した。
先ほどまでの冷徹さは、いつの間にか跡形もなく消え去っている。
「わたくし、生まれてから今日までの人生の中で、今が一番幸せなのです!」
嘘偽りのないまっすぐで晴れやかな笑みを浮かべ、アウローラは堂々と言い切った。
その予想外の発言に、フレデリカも、周囲の取り巻きたちもポカンと口を開けた。
「…………はい?」
「し、幸せ……?」
「そんな……あり得ないわ」
「……な、何をおっしゃっているの?」
あのアウローラ・ヴァレンティアが、社交界の女神とまで称された女が、平民上がりの男爵風情との結婚を強いられ、夜会で放置されるような扱いを受けておきながら『幸せ』?
あり得ない。絶対に、あり得ない。
これは、みっともない強がりに決まっている。
頭ではそう否定したいのに、何故だろうか。
目の前で輝く完璧な笑みが、それが偽らざる本心であると語っているような気がしてならない。
「ふふっ。余計なご心配をかけさせてしまいましたわね。それではフレデリカ様、皆様、どうぞ良い宵を」
アウローラは呆然と立ち尽くす令嬢たちに、完璧で美しいカーテシーを捧げると、軽やかな足取りでその場を後にした。




