18:嫉妬と羨望(1)
フェルナンドを騎士団に引き渡したヴィンセントたちは、暖炉に火を焚いたサロンでジーナの淹れた紅茶を飲みながら寛いでいた。
ここ数日、ずっと気を張っていたせいか、アウローラはどことなくぼんやりとしている。
そんな彼女を前に、ヴィンセントは先ほど彼女が口付けた己の頬を、念入りに拭き上げていた。
「そんなにお嫌でしたか?頬への口付けは」
「嫌ではありません。ですがこのままにしておくと多分、死にますので」
「それはわたくしの唇が毒だとでも仰りたいのですか?」
「そのようなものかと」
アウローラの口付けなど、ヴィンセントからしてみれば甘すぎる毒だ。甘んじて受け入れたならば最後、理性を飛ばしかねない。
しかしそれを口にするわけにもいかず、ヴィンセントはちらりと向かいに座るアウローラを盗み見た。
すると、アウローラは何故か満足そうにニコニコとこちらを見つめていた。
頬を拭かれても嫌な顔をするどころか、むしろ若干嬉しそうにしているあたり、さすがだ。期待を裏切らない。
ヴィンセントは複雑な気持ちになった。
「そ、それよりアウローラ。何故フェルナンド殿の前に出てきたのですか?あんな奴に顔を見せてやる必要などなかったのに」
「先ほども申しましたように、ひと言言ってやりたかったのですわ。それに……わたくしの心が、あの方が格下だと見下している旦那様にあると分かれば、もし軽い刑罰で済んだとしても、二度と近寄って来ないかと思いまして」
「なるほど、それであの口付けですか」
一瞬、ほんの一瞬だけ期待してしまった自分に対し、ヴィンセントは自嘲じみた笑みを浮かべた。
そばで会話を聞いていたリオルは、やれやれと肩をすくめる。
「まあでも、奥様の意見には僕も賛成ですよ。これであの男は今後、二度と奥様に近づきません」
「そんな簡単なものか?リオル」
「ええ。ああいうタイプは相手に身勝手な理想を押し付けていますから。自分の理想と違ったと分かった瞬間、一気に冷めるものです」
「なるほど」
「今回の場合で言うなら、『悪魔に囚われた可哀想なお姫様』だと思い込んでいた奥様が、実は『自ら野獣の胸に飛び込んだ女』だったわけです。きっとあの男は『こんな野蛮な男を選ぶなんて!』と幻滅したに違いありません」
「おい。野獣ってどういう意味だ、こら」
「まあ、もしかしたら裏切られたと思った彼が有る事無い事言いふらすかもしれませんが……奥様の場合は僕の時とは違って、世間も同情してくれるでしょう。何せあの男は深夜に不法侵入したのですから」
「無視すんな、こら」
野獣呼ばわりが気に食わないヴィンセントはリオルを睨みつけるが、リオルは完全無視だ。
アウローラはいまだに、この二人の関係性がよく分からない。
「リオル、あなたも苦労したのね」
「奥様ほどではありませんよ」
「でも、納得だわ。だからあなたはストーカーに対する理解度が高かったのね」
「ええ、まあ」
「あの時は忌憚のない意見をありがとう。助かったわ」
「……どういたしまして」
身の程を弁えず、結構きついことを言ったつもりだったのに感謝されたリオルは、どこか居心地が悪そうに視線を逸らした。
そして、逸らした先の扉の向こうから聞こえる女のわめき声に、眉を顰める。
「来ましたね」
「ああ……」
ヴィンセントは短く返事をし、アウローラは目を伏せ、ぎゅっと拳を握りしめた。
やがて勢いよく開いた扉の向こうから現れたのは、マルタとエルザに両脇を抱えられたケイトだった。
「ちょっと、コレは一体何?」
「ケイト……」
「お嬢様……!これはどういうことですか!?」
困惑して声を荒らげるケイトに、アウローラは悲しげな表情を浮かべる。
「ケイト、少し話があるの。そこにかけて」
アウローラが視線を送ると、マルタとエルザは指示通りケイトを一人掛けのソファへと座らせ、左右に控えた。ジーナも逃げ場をなくすように、ケイトの背後につく。
「あの、本当に何なのですか?こんな仰々しく……」
まるでコレから尋問を始めるかのような雰囲気にケイトは怪訝に眉を顰めた。
リオルはそんな彼女に冷ややかな視線を向けながら、静かに歩み寄る。
「ケイトさん。単刀直入に伺いますが、あなたは今夜、一体どこで何をしていたのですか?」
アウローラの寝室から悲鳴が上がったのは今から四十分ほど前のこと。
そこから騎士団が到着するまでの約二十分間、ケイトは一切の姿を見せなかった。
けれど騎士団が到着した際、いち早く玄関で彼らを招き入れたのはケイトだったのだ。
「こういう時、真っ先に主人の安全を確認するのが侍女の役目では?」
「そ、それは……深く眠っていてすぐに気づかなくて……」
「あなたの両隣の部屋にいたマルタとエルザは、悲鳴を聞いてすぐに駆け付けましたけどね。その後も騎士団への連絡や、屋敷の警戒に回ってくれました。あなたと違って」
「ね、眠りが深かったのよ!」
「そうですか。眠りが深いと……。ああ!もしや……夢遊病でも患っていらっしゃるのですか?」
リオルはわざとらしくそう言うと、ケイトの傍らに立つエルザへと視線を向けた。
エルザは小さく頷き、背筋を伸ばして口を開く。
「騎士団へ連絡するために外へ出た際、裏門のあたりでケイトらしき人影を見かけました」
「なっ!?見間違いよ!何なのさっきから!まるで私がフェルナンド・ブランコの共犯者のように……」
そこまで言って、ケイトはハッとしてアウローラを見た。
アウローラがすかさず目を逸らすと、ケイトはどこか自嘲するような笑みを浮かべる。
「……何ですかそれ。まさか本気で私を疑っておられるのですか?答えてください、お嬢様!」
「やめろ」
アウローラに詰め寄ろうとするケイトをヴィンセントが低い声で制する。
その瞬間、室内の空気が凍りついた。
ヴィンセントは小さくため息をこぼすと、静かにケイトの前に立った。
彼の大きな体が、見下ろすようにケイトに影を落とす。
ケイトは本能的に恐怖で体を震わせた。
「ケイト。フェルナンドの内通者がアウローラの近くにいると言い出したのは、君だったそうだな?」
「え、ええ。そうですわ。だってそうでなければおかしいでしょう?仮縫いもなしにお嬢様にピッタリのサイズのドレスを送るなんて、不可能ですもの」
「……そうだな。不可能だ。だが、おかしいと思わないか?」
「何がですか?」
「君は以前、フェルナンドからの贈り物のドレスを見てすぐに『お嬢様の体にピッタリだ』と言ったそうだな」
「いい言いましたが……それが何か?」
「どうして着せてもいないのに分かったんだ?サイズの良し悪しならともかく、袖を通してもいない段階で『寸分の狂いもなくピッタリだ』と確信できたのは何故だろう?まるで初めから、アウローラの採寸データの通りに作られているのを知っていたみたいじゃないか?」
「そ、それは言いがかりですわ!たまたまそう見えただけで……!」
「それだけじゃないぞ。実は先日、ゴシップ記事の件で新聞社に乗り込んだ時に面白い話を聞いたんだ」
あの日、新聞社へ抗議に赴いたヴィンセントは、損害賠償を請求しない代わりに情報の出処を話せと交渉したのだ。
「記事の掲載を持ちかけたのは、予想通りフェルナンド・ブランコだった」
「だから何なのですか。私には関係ありませんよね?」
「そうだな。掲載依頼そのものには関係ないだろう。だが……これはどうだ?」
ヴィンセントは懐から小さく折りたたまれた紙を取り出し、ひらひらと揺らした。
その瞬間、ケイトの口元が微かにピクリと動く。
「これはフェルナンドが新聞社に持ち込んだクロッキー画だ。俺とマルタはすぐに、これを描いたパパラッチを特定し、問いただしたのだが……。曰く、あの日街中で俺たち二人を描くよう依頼してきたのは、そばかすのある女だったそうだぞ。その女は描き終わったらフェルナンドという男がこの絵を買いにくると言っていたそうだ」
「そ、そばかすのある女なんて世の中にいくらでもいます!それだけで私を内通者だと決めつけるのは暴論です!」
「そうだ。これも決定的な証拠にはならない。だから、俺たちは罠を張ったんだ」
「罠……?」
「新聞社から帰宅したあの日、俺はアウローラに事情を説明し、4日間の出張だと君に嘘をつくことにした。もし君が内通者なら、俺の不在に乗じてフェルナンドが仕掛けてくると踏んでね。そのためにリオルにアウローラのフリをさせたり、わざと警備を緩くしたりしていたんだが……無駄にならなくて良かったよ。彼はまんまと屋敷に忍び込んでできてくれた」
「そ、そんなの私じゃなく、他の誰かが情報を漏らした可能性だって……!」
「では、これはどう説明する?」
ヴィンセントは背後のマルタに目配せをした。
マルタが一歩前へ出で、お仕着せのポケットから取り出した小さな薬瓶を掲げる。
「ケイトの寝台のマットレスの隙間から発見いたしました」
「は!?いつの間に!?」
叫んでから、ケイトは慌てて口を塞いだ。だが、その反応自体が自白と同じだった。
「事が起きたら真っ先にケイトの部屋を捜索するよう、事前に旦那様から指示を受けておりましたので」
「なっ……!勝手に人の部屋に入るなんて最低……!」
「おや?おかしいですね」
すかさずリオルが冷淡な笑みを浮かべて割り込む。
「そういえば先ほどは『自分の部屋で深く眠っていた』とおっしゃっていませんでしたか?」
「それは……!」
ケイトの顔からはみるみるうちに血の気が引いていく。焦りからか呼吸は荒くなり、額には冷や汗が滲んでいる。
ヴィンセントは逃げ道を塞ぐように、ケイトが座るソファの肘掛けに手を置いた。彼の鋭い視線は、まるで巨大な蛇が体に絡み付いて締め付けてくるようで、息ができない。
「この小瓶の中身は?」
「……す、睡眠薬です。最近、眠れなくて」
「ほう?つまりこれは、君が自分で飲むために用意していたと?」
「ええ、そうです」
「それはおかしいな。ここ最近、君が夜眠る前にアウローラへ出していたお茶からも、これと全く同じ成分が検出されたのだが?」
「なっ……!?」
「何故バレたのか、という顔だな。……長年、君が淹れたお茶を飲み続けてきたのは、他でもないアウローラなんだよ」
ヴィンセントが視線を移すと、ケイトも吸い寄せられるようにアウローラを見た。
アウローラは今にも泣き出しそうな瞳で俯き、唇をぎゅっと噛み締めている。
「君の淹れるお茶の味がいつもと違うことくらい、アウローラには一口で分かったんだ」
「は……はは……」
すべての退路を塞がれたケイトは、ようやく観念したようにガクリと肩を落とした。




