17:真夜中の侵入者(4)
かつて、両親によって強制的に参加させられたとある夜会でのこと。
眩い煌めきと、むせ返るような香水の匂いに酔ったフェルナンドは、すっかり体調を崩し、会場の隅で惨めにうずくまっていた。
『あちらの方、ブランコ伯爵家の次男よ。ほら、引きこもりの』
『まあ、あのブランコ家の恥晒しね』
『結婚も社交もせず、屋敷に閉じこもって絵ばかり描いているんですって』
『それは、結婚なんてできるはずありませんわね。誰があんな陰気な男と添い遂げたいと思いますの?』
眼前を通り過ぎる人々は、うずくまるフェルナンドを見ても心配する素振りすら見せず、嘲笑を浮かべては、去っていく。
好き勝手に有る事無い事囁く彼女たちに言い返す度胸もないフェルナンドは、ただ悔しさに唇を噛み締めることしかできなかった。
そんな中、一人の女性が彼に声をかけた。
白磁の肌に、透き通るような翡翠の瞳。キラキラと輝く蜂蜜色の髪を持つ美しい女性。社交界の女神と名高い名門ヴァレンティア公爵家のご令嬢、アウローラだ。
兄のロベルトと共に現れた彼女は、他の令嬢のようにフェルナンドを厭うことなく膝をつき、上質なシルクのハンカチをそっと差し出してくれた。
そしてすぐさま会場の給仕を呼び寄せて指示を出し、彼を静かな控え室へと案内させたのだ。
交わした言葉などほんのわずかだった。だが、あの会場でただ一人、アウローラだけがフェルナンドを案じ、温かな手を差し伸べてくれた。
あの日から、フェルナンドの心はアウローラのものとなった。その沸き上がる情動は、最早「恋」などという低俗な言葉では片付けられない程に大きくなっている。
彼の彼女に対する感情は、信仰の一種と言っても過言ではないだろう。
だからこそ、フェルナンドは許せなかった。
彼の尊い女神様が、政略結婚の道具として、成り上がりの下等な平民に売り払われるなどという暴挙が。
* * *
「女という生き物はいつも浅ましく、臭い。無駄に着飾り、甲高い声で下品に笑う。大嫌いだ。けれど、アウローラ嬢、あなただけは違っていた。あなただけはいつだって凛とした清涼な香りを纏い、穏やかな微笑みを浮かべて佇んでいる。飾らずとも自然と溢れ出る美しさ。まさに天使……いや、地上に降り立った奇跡の女神だ!」
ベッドに横たわり、規則正しい穏やかな寝息を立てるアウローラを見下ろし、フェルナンドはうっとりとした表情を浮かべる。
眠る姿すら美しい彼女を見て興奮しているのか、鼻息も荒い。
「さあ……お迎えにあがりましたよ、僕の女神様」
歓喜に打ち震えるフェルナンドは、アウローラの耳元でそっと囁いた。
すると、アウローラはゆっくりと目を開けた。そしてフェルナンドの顔を視界に捕らえた瞬間、小さく息を呑んだ。
「あれ?おかしいな。起こしてしまいましたか?」
フェルナンドは首を傾げながらも、愛おしそうにアウローラの頬へ手を伸ばす。じっとりと汗ばんだ手のひらの嫌な湿り気に、アウローラは身体を強張らせた。
「大丈夫です。恐れることはありません。僕はあなたをあの野蛮な男から救い出すために来たのです」
フェルナンドは悲劇のヒロインを救い出すヒーロー気取りで、優しく微笑んで見せた。
だが、アウローラからしてみれば、ただの薄気味悪い不法侵入者でしかない。
荒い吐息と、無造作に伸びた長い前髪の隙間から覗く、瞳孔の開ききったアッシュブラウンの瞳。その常軌を逸した異様さに恐怖した彼女は、堪えきれずに叫んだ。
「口臭ぇんだよ、このド変態がぁっ!!」
腹の底からの怒号と同時に、アウローラは鋭い蹴りをフェルナンドの股間に叩き込んだ。
そして、「ぐはっ!?」と情けない声を上げてのたうち回る彼を置き去りにし、ベッドから飛び下りる。
「チッ。死ねよ、クズが」
股間を押さえて悶絶するフェルナンドを、まるでゴミを見るような目で睨みつけるアウローラ。
フェルナンドはそんな彼女の姿に困惑した。
(おかしい。僕の女神が、こんな品性のかけらもない言葉遣いをするはずがない)
フェルナンドはおそるおそる、月光に照らされた彼女の顔を仰ぎ見た。
そして、激しく動揺した。
そこに立っていたのは、彼が愛してやまないアウローラ・ヴァレンティアではなかったからだ。
蜂蜜色の長い髪こそ彼女と同じだが、身長も、骨格も、何より瞳の色が違う。
「き、貴様は誰だ!?」
フェルナンドが問いただすと、紫がかった瞳をした謎の女は、心底鬱陶しそうな眼差しを向けた。
「やだなぁ、アウローラですよ?ほら、お前が大好きなアウローラ。愛しの女神様ですよー?」
「ふざけるな!アウローラ嬢は、僕の女神はそんな汚い言葉遣いはしない!」
「はあ?ふざけてんのはどっちだよ、この犯罪者が」
「は、犯罪!?」
「犯罪に決まってんだろ。ストーカーに不法侵入に痴漢。死をもって詫びろ、この変態野郎」
女は鬼のような般若の形相でフェルナンドを睨みつける。その殺気に気圧されたフェルナンドは、這うようにしてベッドから逃げ出そうとした。
だが、女は瞬時に先回りをし、部屋の扉を背で塞いだ。そして、這い出ようとする彼の胸板を躊躇なく蹴り飛ばして仰向けに倒した。
「な、何をす……!?」
「黙れ!」
どこに隠し持っていたのか、女は短剣を抜き放ち、フェルナンドの耳元の床へ容赦なく突き立てた。
重い一撃と鋭い刃の冷たさに、フェルナンドはひゅっと喉を鳴らした。
「お前みたいな脳沸いてる変態がいるから、僕らみたいな人間がずっと苦労させられてんだよ……!」
「ひいぃぃっ!や、やめろ!だ、誰か!誰か助けてくれー!」
怒りを爆発させた女は、今度はフェルナンドの眉間を狙って二本目のナイフを振りかざした。
だが、その瞬間、背後の扉が開いた。
フェルナンドは救いを求めるような視線を向けた。
けれど、そこに立っていたのは今夜は不在のはずのこの屋敷の主、ヴィンセント・アルドリッジだった。
「な、何故お前が……」
またしても困惑するフェルナンド。
ヴィンセントはそんなフェルナンドに一瞥もくれずに、女の首根っこを引っ張るようにして彼から引き剥がした。
そして、心底あきれ返ったように深いため息をこぼす。
「やり過ぎだ、リオル」
「すみません。つい、不快感が勝って」
リオルはヴィンセントに軽く謝罪すると、頭部に手をかけ、見事な蜂蜜色の金髪を一気に剥ぎ取った。
カツラの下から現れたのは、肩まで伸びた綺麗な黒髪。
少年にも少女にも見えるリオルの中性的な顔立ちに、フェルナンドは混乱の極みで首を傾げることしかできない。
「お、女?男?」
「男だよ、クソが」
「リオル、口が悪い」
「はいはい、すみませーん」
口の悪さを指摘されたリオルは、煩わしそうに顔を歪めながらも、フェルナンドに向き直る。
「では改めて……はじめまして変態さん。僕はリオル。アルドリッジ家の家令です」
「か、家令……?」
「あ、挨拶を交わす気も仲良くする気も毛頭ございませんのでご安心を。すでに帝都を守る中央騎士団には連絡を済ませてあります。間もなくあなたの身柄はあちらへ引き渡されますので」
「え?え……?」
「朝には、あなたのお父上であるブランコ伯爵に連絡が行くかと思います。以降の協議は代理人を交えて、ということになるかと」
「ア、アウローラ嬢は……?僕のアウローラ嬢はどこだ!?」
「教えるわけねーだろ、バカかよ」
「リオル、一応相手貴族だから」
「はいはい」
ヴィンセントに窘められたリオルは、不満げに鼻を鳴らしながらも一歩引き下がる。
代わって前へ出たヴィンセントは、床に転がるフェルナンドを見下ろし、上着の埃を払うように整えながらそっと手を差し伸べた。
「大変失礼いたしました、フェルナンド殿。当家の者が、あまりに不作法な口を利きまして」
「不作法どころの話ではない!分を弁えぬ下僕が、この僕に対してなんと無礼な……!」
「ええ、本当に申し訳ありません。……しかしどうか寛大な御心でお許しいただけませんか?彼はあなた様のように他者の尊厳を弁えぬ者に対して、並々ならぬトラウマを抱えているのです」
「なっ……!?そ、それはどういう意味だ!?僕を侮辱しているのか!?」
「まさか!滅相もございません。ただご容赦をお願いしているのです。……なにせ彼は、ご覧の通りの容姿でしょう?軍部に身を置いていた頃は、あなた様のように欲望に目を眩ませた不埒な男たちから、散々な非道を受けましてね」
ヴィンセントは氷のように冷ややかな笑みを浮かべ、淡々と語る。
男ばかりの軍部において、女と見紛うほどの美貌を持ったリオルは、絶好の標的になりかけたのだと。
もちろん、持ち前の強靭な意思と高い武術の腕でことごとく返り討ちにしてきたリオルだったが、欲望を挫かれた男たちの嫌がらせは陰湿を極め、ヴィンセントが気づいた時には、もはや軍に留まれる状況ではなくなっていた。
見かねたヴィンセントはそんな彼を保護し、引き取ったという経緯がある。
「ですから……俺は今、心から安堵しているのですよ。間に合って本当に良かった、と」
「な、何が言いたい……!?」
「おや?わかりませんか?彼が理性を完全に失い、あなた様を害してしまう前に止められて良かった……という意味ですよ、フェルナンド殿」
ヴィンセントの殺気を宿した声が、静かに部屋を満たしていく。
かつての忌々しい記憶を呼び覚まされたリオルもまた、腕を組んだまま、絶対零度の視線をフェルナンドに向けていた。
本物の殺気に当てられた経験のないフェルナンドは恐怖に身をすくませる。
「さて、フェルナンド殿。一つお聞きしたいのですが」
ヴィンセントは、引き起こすようにして掴んでいたフェルナンドの手に、じわじわと容赦なく力を加えた。
「いっ……!?」
「何故このような夜更けに、先ぶれもなく我が家へいらしたのでしょう?何故許可なく、我が妻の寝室へ足を踏み入れたのでしょう?妻の寝室で、一体何をなさるおつもりだったのでしょう?」
「は、離せ……!痛い、骨が折れる……!」
「あいにく俺はしがない軍人でしてね。貴族の皆様方の高尚なルールもマナーもよく知らないのですよ。ですから……ぜひご教示いただきたいものですね?」
そう言って詰め寄るヴィンセントの瞳には、一切の情けも容赦も存在しない。
フェルナンドはなんとか気持ちを持ち直し、キッと彼を睨み返す。
「ぼ、僕は!お前のような悪魔から、僕の女神を救おうとしただけだ!」
「……ほう?」
「アウローラ嬢は僕に助けを求めていた!だから僕は彼女を迎えにきたんだ!さっさと彼女を渡せ!」
「……」
「大体、なぜお前のような男が彼女と結婚できるのだ!お前のその血で汚れた手で、彼女のような尊い女性に触れるなど許されるわけがない!身の程を弁えろ!」
妄想と現実の区別もつかないフェルナンドはヴィンセントを罵倒する。
そこへ静かな足音とともに姿を現したのは、侍女のジーナに付き添われた本物のアウローラだった。
「わたくしがいつ、あなたに助けを求めたとおっしゃるのですか?」
「なっ!?アウローラ!?」
「アウローラ嬢!!」
思いがけぬ本物の登場にフェルナンドは歓喜で目を輝かせ、反対にヴィンセントは危険を案じて不機嫌そうに眉をひそめた。
「アウローラ、なぜここへ来たのですか!?部屋で大人しく待っていてくださいと言ったはずです!」
「申し訳ございません、旦那様。……ですが、この方にだけは直接、はっきりとお伝えしたいことがありまして」
「……分かりました。仕方がありませんね。では、少し下がっていてください」
ヴィンセントは短く返事をすると、無駄のない動きでアウローラに駆け寄ろうとするフェルナンドの軸足を払って体勢を崩させ、そのまま床へと一気に叩きつけた。そして、うつ伏せに倒れ込んだ彼の背中に膝を乗せて体重をかけ、逃げ出せないよう両腕を背中で交差させて力強く締め上げた。
「ぐ、がはっ……!?」
苦しげな呻き声を上げるフェルナンド。
彼の動きを完全に封じ込めたヴィンセントは、顎で合図を送った。
「どうぞ、アウローラ」
「感謝いたします、旦那様」
アウローラはそっと歩み寄り、床に這いつくばるフェルナンドの前に立った。
期待したように見上げてくる彼に対し、アウローラは慈悲のかけらもない眼差しを向ける。
まるで虫ケラでも見るような視線に射抜かれ、フェルナンドは困惑したように瞳を揺らした。
「フェルナンド様。もしも過去のわたくしの些細な行動が、あなた様に余計な幻想を抱かせてしまったのだとしたら……その点につきましては深くお詫び申し上げますわ。ですが、どうか勘違いをなさらないでくださいませ」
「ア、アウローラ嬢?」
「わたくしは決して、恐ろしい悪党に囚われた悲劇のお姫様などではございません。……むしろ愛する人と結ばれ、ハッピーエンドを迎えたあとの、世界で一番幸せなお姫様ですのよ?」
「なに、を……?」
「そしてわたくしの王子様は、わたくしが神の御前で生涯を添い遂げると誓った夫、ヴィンセント・アルドリッジただ一人なのです」
毅然と言い放ったアウローラは、そのまま優雅に腰を落として体をかがめた。
そして、フェルナンドを押さえ込んでいるヴィンセントの顔を覗き込むと、その頬へ躊躇なく口づけを落とした。
「……っ!?」
あまりにも予想外の行動に、ヴィンセントは口をあんぐりと開けたまま、目を見開いて固まっている。
そしてそれはフェルナンドも同じのようで、彼もまた、唖然としていた。
アウローラは夫の頬からゆっくりと唇を離すと、フェルナンドへ視線を戻し、嘲笑うようにクスッと微笑んでみせた。
「……お分かりになりまして?哀れで愚かなフェルナンド様。あなた様の入り込む隙など、最初からどこにもございませんのよ」




