19:嫉妬と羨望(2)
「ふふ……はは……、あはははっ!」
静まり返ったサロンに、ケイトの乾いた笑い声が響き渡った。
ソファの背もたれに体を預け、天井を見上げるケイトの唇には、ゾッとするほど歪な笑みが浮かんでいる。
「ああ、本当に残念ですわ、お嬢様」
「……ケイト?」
「女神のように美しく慈悲深いお嬢様も、所詮は人の子。私を試すために、嘘までついて陰湿な罠を張るなんて……なんて卑怯なのでしょう!」
全ての罪が確定しているというのに、ケイトは何故か勝ち誇ったような瞳でアウローラを睨みつけた。
無垢で清純だったはずの主人が、自分と同じ所まで堕ちてきたことを、心の底から歓喜しているようだ。
「この事実を社交界の方々が知ったら、どう思うかしら!?どんな目にあっても微笑みを絶やさず、いつも慈悲深いお心で私たちのような下民に施しを与えてきたアウローラ・ヴァレンティアが、実は裏で人をハメるような女だったなんて知られたら……一体どうなってしまうのかしらねぇ!?」
狂ったように喚き散らすケイト。
きっと彼女は自分の言っていることが破綻していると気づいていない。
自分に害意のある者をあぶり出すために罠を張るなど、身を守るための当然の防衛策に過ぎない。当然、社交界の貴婦人たちがこの話を聞いたところで、どうこう言うこともないだろう。
だがケイトはそんな当たり前のことすらも、わからないらしい。まるで鬼の首でも取ったかのようにアウローラを責め立てる。
アウローラはその理不尽な言葉の数々に反論することもなく、ただ静かにケイトを見つめていた。
どこか憐れむような表情を浮かべて。
「……何よ、その目は」
アウローラの眼差しに気づいたケイトの顔からは歪んだ笑みが消え去り、激しい怒りの感情が剥き出しになる。
「そんな目で私を見るんじゃないわよ!哀れむんじゃないわよ!!」
「やめろ!」
叫びながら立ち上がろうとしたケイトを、ヴィンセントがすかさず制した。威圧感に押され、ケイトの動きがピタリと止まる。
ヴィンセントは感情の失せた瞳でケイトを見下ろし、静かに告げた。
「アウローラは最後まで、君を信じていたよ」
「……は?」
思いもよらない言葉に、ケイトは呆けたような声を漏らした。
*
——あの日。
新聞社から帰宅したヴィンセントは、屋敷の中にフェルナンドの内通者がいること、そして状況から考えてそれがケイトである可能性が高いことを、アウローラへ打ち明けた。
『現状では確固たる証拠がありません。ですから俺が出張だと嘘をついて、フェルナンドが動くのを待ちましょう。もし彼がなんらかの行動を起こせば、現行犯で確保したいと考えています』
ヴィンセントの提案を聞いたアウローラは、目を閉じ、少しの間思考を巡らせていた。
やがてそっと目を開けると、ゆっくりと口を開いた。
『ケイトを試すことは構いません。ですが……わたくしは彼女を信じます』
震える声ではあったが、アウローラは迷いのない眼差しで、まっすぐにヴィンセントを見据えてそう言い切った。
正直なところ、ヴィンセントにはアウローラの考えが理解できなかった。
確固たる証拠がないというだけで、状況から考えればケイトが黒であることは疑いようがない。それなのになぜ、自分を裏切っているかもしれない相手を、そこまでして信じようとするのか。
戸惑いを隠せないヴィンセントに、アウローラは悲しげに微笑んだ。
『愚かだと思いますか?』
『いえ、そんなことは……』
『わたくしは信じることをやめてしまうのが、怖いのです』
『信じることやめるのが、怖い……?』
『ええ、そうです。わたくしはこれまで、散々人に裏切られてきました。男性からも、女性からも。……本当はもう、誰かを信じて傷つくのは懲り懲りですし、いっそ最初から誰も信じない方が、ずっと楽になれるのだと何度も思いました』
アウローラはそう言って、ギュッと胸元で小さく拳を握りしめる。
『ですが……一度でも信じることをやめてしまったら、わたくしの見る世界はきっと、二度と色の戻らない灰色の世界になってしまいますから』
そう語るアウローラの表情が、ヴィンセントの目には微笑んでいるのに泣いているように見えた。
*
「……信じる、ですって……?」
ヴィンセントの口から語られた事実に、ケイトは引きつった顔で再びアウローラを睨みつける。
「ふざけないで……!そういうところが嫌いなのよ!!いつだってそう!被害者面をして、どんな目にあってもおめでたく他人を信じて!私はねぇ、あんたのそういう清廉潔白で、おめでたいところが反吐が出るほど大嫌いだったのよ!!」
吐き捨てられる悪意の暴言。
だがアウローラは目を背けることも逃げることもせず、ケイトの言葉を受け止めるように、ただ静かに彼女を見つめ続けていた。
そんなアウローラの態度がさらにケイトを刺激する。
「何よ、余裕ぶって!ねえ、いいことを教えてあげる。……本当はみんな薄らとあんたを嫌っていたのよ?ローザも、ミアも、シュゼットもマリアも。屋敷の侍女はみーんな、あんたのとこが嫌いだったの!」
「……そう」
「あんたが貴族学園を中退して戻ってきたときだって、みんながなんて言っていたか知ってる?みんな『ざまあみろ』って嗤っていたのよ!男に絶望して帰ってきたあんたを見て……ようやく、人間としての欠陥ができたと!」
かつてアウローラが傷つき、男に怯えて帰宅した日のことを思い出し、ケイトは勝ち誇ったように嘲笑う。
「そりゃあそうよね。だって、恋人ができても誰も上手くいかないんだもの!あんたのせいでね!」
アウローラと間接的にでもお近づきになりたいがために言い寄ってくる男。
アウローラと比べて恋人を蔑む男。
みんな口を開けば『アウローラ様、アウローラ様』とそればかり。
挙げ句の果てには、『いつもアウローラ様のそばにいるのに、お前はいつまで経っても綺麗にならないな』なんて言ってくる。
侍女たちはみんな、男たちからそんな残酷な言葉を投げつけられ、最後は惨めに別れてきたのだとケイトは言う。
「許せなかった……!私の恋人のことなんてよく知りもしないくせに、無神経に『素敵な彼ね』なんて言って……!自分がどれだけ私たちを傷つけているかも知らずに微笑むあんたが、許せなかった!!」
ケイトは興奮したように肩で息をする。
自分の言い分が理不尽で身勝手なものであることには、薄々気づいているのだろう。その顔は怒りと悔しさでどこか泣きそうだった。
だが、もう止められない。一度決壊した感情は、すべてを吐き出すまで止まらない。
「この間だって、おそろいの髪型にしたいって。何なの?ほんと、馬鹿にしてる。どうせ私を引き立て役にしたかっただけでしょ?ねえ、そうなんでしょ!?」
「……そんなつもりはなかったわ」
「嘘よ!あんたはいつも私を見下してた!」
「見下した事なんて、一度もないわ」
「見下してなかったら、もっとワガママを言うはずよ!花祭りだってそう!行きたきゃ『行きたい』って素直に言えばいいじゃない!興味ないフリをして、私たちには『楽しんできて』ってお小遣いまで渡して……馬鹿にしないでよ!」
「馬鹿にしていたつもりはなかったわ。けれど、嫌だったのならごめんなさい。悪かったわ」
「……やめてよ、なんで謝ってるのよ!そういうところが嫌なのよ!あんたといると、どこまでも惨めになるの!!」
罵倒するくせに、謝られるとそれを嫌がるケイト。もうめちゃくちゃだ。
ヴィンセントは聞くに堪えない言葉の数々に、眉を顰めた。
「そうか、お前は嫉妬していたのか」
容姿にも家柄にも恵まれ、性格だって謙虚で優しい。誰からも愛される女神アウローラ。
対する自分は、普通すぎる家柄に、人並みに悪い性格と決して可愛くはない平凡な顔。これと言った特技ない。
常にアウローラの傍にいるケイトは、自分がどれほど醜い人間なのかを嫌というほど思い知らされてきたのだろう。
そして、周囲の言葉でいつしか、主人に対する歪んだ感情を持ってしまったのだ。
「……は?嫉妬?そんなわけないじゃない。私はね、ただこの女に、この女に…………汚れて欲しかっただけよ」
ケイトの勢いが不意に弱まる。そして何故か、彼女の瞳からボロボロと涙があふれ出した。
「あの男に汚されて、私のところまで堕ちてきてくれたら……。そうしたら、私たちは対等になれた……。ちゃんと、本当の友達になれたのに……」
ケイトのあまりに惨めで、あまりに身勝手な告白に、サロンには重苦しい静寂が落ちた。
誰も口を開かないのではない。開けないのだ。
その理不尽すぎる言い分に、ヴィンセントをはじめとするその場の全員が、激しい怒りで声を失い固まっていた。
だが、
「……ふざけんなよ」
しばらくして張り詰めた静寂を、リオルの地鳴りのような低い声が切り裂いた。
全身を怒りで震わせた彼は、ゆらりとケイトに歩み寄る。
そして、躊躇なく彼女の髪を掴み上げ、強制的にアウローラの方へと顔を向かせた。
アウローラは声をあげることもできず、ただ静かに涙を流しながら、ケイトを見つめていた。
「冗談は顔だけにしておけよ、性根まで腐り切ったこのドブネズミが」
リオルは吐き捨てるように低く呟くと、さらに強く彼女の髪を握りしめた。
「い、痛い!」
「対等?友達?違うだろ?見下したかったんだろ?お前はただ、社交界の女神を自分より下に落として、傷ついた彼女を慰めることで優越感に浸りたかっただけだろ?自分の醜さを、惨めさを紛らわすためにな!」
「な、何よ……あんたに私の何が解るっていうのよ!」
「解らねーよ。くだらない自尊心を満たすためだけに、優越感に浸るためだけに、主人を変態に売る奴の気持ちなんか、わかりたくもない!」
「……痛い!痛いってば!」
「お前、考えたことがあるか?好きでもない男に、体を好き放題弄ばれる屈辱がどれほどのものか。それがどれほど残酷なことかを!!」
今回のことが自身の過去に刻まれた辛い記憶と重なってしまったせいで沸々と湧き上がる怒りを、リオルは容赦なくぶつけた。
男の欲望に尊厳を踏みにじられかけたことのある彼だからこそ、フェルナンドにアウローラを売り渡したケイトのことが許せないのだ。
凄まじい気迫に圧され、ケイトは青ざめた顔でヒッと息を呑んだ。
「そこまでだ、リオル」
ヒートアップしたリオルを制したのは、ヴィンセントだった。
ヴィンセントがジーナに目配せすると、彼女はそっとリオルに近づき、ケイトの髪を掴む彼の手を離させた。
リオルは悔しそうに奥歯を鳴らしながらも引き下がる。
それを見届けたヴィンセントは、ひどく冷めた瞳で、怯えるケイトを見下ろした。
「なぜそのような勘違いをしたのか、俺にはまるで理解できないが、今後のためにも一つ教えておいてやろう……お前とアウローラは、最初から対等などではない。ただの主人と使用人だ」
身も蓋もない現実を突きつけられ、ケイトは恥ずかしさから一気に顔を赤くした。
そう。そもそもアウローラとケイトは気心の知れた仲ではあれど、決して対等ではないのだ。所詮は雇う側と雇われる側。身分ある貴族と平民。
「アウローラが気安く接してくれるから勘違いしたのだな。だから立場も弁えず、対等になれると思い込んだ。哀れな女だ」
ヴィンセントは蔑むように吐き捨て、マルタとエルザに視線を向けた。
「今夜は地下の倉庫に放り込んでおけ。明日の朝にはヴァレンティア家から迎えがくる」
「ヴァレンティア家に戻すのですか?」
「私は騎士団に引き渡すべきと考えます」
「気持ちはわかるが落ち着け、マルタ。この女は元々我が家の使用人ではない。故に、騎士団に引き渡すかどうかも含め、一度ヴァレンティア家と話し合う必要があるんだ」
「なるほど」
「まあ、俺としては処遇はあちらに任せようかと思っているがな」
ヴィンセントの言葉を聞いた瞬間、ケイトの引きつった顔にわずかな安堵が浮かんだ。おそらくは、『ヴァレンティア家に戻れるのなら、どうにか助かるかもしれない』と甘い期待を抱いているのだろう。
馬鹿な女だ。かつてヴァレンティア家を裏切った者がどうなったか、知らないはずもないだろうに。なぜ自分だけは無事でいられると思えるのか。
ヴィンセントはフッと鼻で嘲笑った。
「エルザ、悪いが今夜は交代でコイツを見張っていてくれ。朝までに勝手に死なれては困る」
「かしこまりました」
エルザとマルタは軽く頭を下げると、ケイトの両腕を掴んで無理やり立たせた。
もはや抵抗する気力もなく、ズルズルと扉へ向かって引きずられていくケイト。
サロンの出口へ差し掛かったその時。背を向けたまま俯いていたアウローラが口を開いた。
「……さようなら、ケイト」
アウローラは振り返ることもなく、別れを告げた。
ケイトからは彼女の表情が見えない。
ただ背中で紡がれたその声は、不思議と凛として響いた。
「あなたと過ごした時間まで、嘘ではなかったと……信じていますわ」
その言葉に、ケイトの足がピタリと止まる。
最後まで自分を憎み返すこともせず、過ごした思い出を綺麗に抱えたまま別れを告げるアウローラ。
ああ、やはりそうか。
アウローラ・ヴァレンティアは決して汚されない。
どこまでも気高く尊い彼女の姿は、どんな罵詈雑言よりも残酷に、ケイトの歪んだ自尊心を深く抉った。
ケイトは屈辱に歯を噛み締め、何一つ言い返すこともできぬまま、扉の向こうへと引きずられていった。




