15:真夜中の侵入者(2)
朝からジーナによる丁寧なマッサージで全身の凝りを解きほぐされたうえ、頭のてっぺんから足の先までを完璧に磨き上げられたアウローラは、自室のテラスで初夏の風を浴びながら冷えた果実水に口を付けた。
「朝からなんて贅沢なのかしら。今日はお出かけの予定もないというのに」
「お嬢様、お座りください。御髪を乾かしますわ」
「ありがとう、ケイト」
ケイトはテラスに椅子を運び、アウローラをそこに座らせた。
そして彼女の美しく繊細な蜂蜜色の髪をすくい上げると、タオルでそっと水気を拭い、ブラシで丁寧に梳かし始める。
「……お嬢様の御髪は、いつ見ても本当にお綺麗ですね。私の残念な猫っ毛とは大違いですわ」
「そんなことないわ。わたくしはケイトの柔らかい髪、とても好きよ?可愛らしくて、撫で回したくなってしまうもの」
「ふふっ。そのように言ってくださるのは、世界でお嬢様くらいですわ」
そう言いながら、ケイトはどこか羨ましそうな眼差しで、アウローラの髪へ薔薇の香油を塗り込んでいく。
柔らかいそよ風と、屋敷を包む穏やかな静寂。
髪から漂う甘く可憐な香りが心地よくて、アウローラはゆっくりと瞼を閉じた。
やがて心地よい微睡みの淵へと落ちかけていたその時、不意に頭上からケイトの硬い声が落ちてきた。
ハッとして目を開けたアウローラは、振り返ってケイトを見上げる。
「危なかったわ。もう少しで眠ってしまうところだった」
「申し訳ありません、お起こしてしまいましたか?」
「いいえ、寝入ってしまう前に声をかけてくれて助かったわ。……ところで申し訳ないのだけれど、さっき何か言った?」
「えっと……その、昨夜は本当に、大丈夫だったのだろうかと……」
「大丈夫って、何のこと?」
「何がって、ほら……」
「待って、ケイト。もしかしてあなた、あのくだらないゴシップを真に受けてしまったの?」
「それは……」
アウローラの問いに、ケイトは答えを濁した。しかし、固く結ばれた口元と険しい表情は、肯定しているも同然だった。
アウローラは胸中の苛立ちを逃すように、小さく息を吐き出す。
「……ねえ。それはつまり、ケイトは『わたくしが昨夜、旦那様に力づくで手籠めにされたと思っている』ということになるのだけれど?」
「なっ……!滅相もございません!そんなつもりでは……!」
慌てて否定するケイト。
アウローラはそんな彼女を諭すように、穏やかに、けれど芯のある声で言葉を継いだ。
「ケイト。どうしたの?ただのゴシップ記事を鵜呑みにするなんて、あなたらしくないわ?」
ケイトはこれまで、アウローラにまつわる不躾な噂話を一度たりとも真に受けたことはなかった。それどころか、いつも顔を真っ赤にして怒っていたくらいだ。
なのに、なぜ今回ばかりは記事の内容を真に受けてしまったのか。
アウローラが優しく問いかけると、ケイトは手にしていた櫛をギュッと握りしめ、申し訳なさそうに視線を落とした。
「申し訳ございません……。決してお嬢様のお言葉を疑っているわけでは……」
「では、旦那様のことが心配なのね?」
「…………はい」
「それはつまり、ケイトにとってはまだ、彼が信用に足る殿方に見えていないと……、そういうことかしら」
「……はい。そうです」
ケイトは恐縮しながらも、しっかりと頷いた。
アウローラは「そっか」と短く呟くと、静かに立ち上がった。そして困惑するケイトの肩を優しく押して彼女を椅子へ座らせ、自分はその背後に立った。
「あ、あの……お嬢様!?」
「ケイト、髪を解いてもいいかしら?」
「え、ええ……どうぞ」
「ありがとう」
了承を得たアウローラは、手慣れた仕草でケイトの髪留めを外した。
そして彼女の手から櫛を受け取ると、愛らしい猫っ毛をゆっくりと梳かし、器用に編み込みを作り始めていく。
「お嬢様……?一体何を……」
「ねえ、ケイト。もしかしてあなたは、結婚式での旦那様の発言を覚えているから、彼を信用できないと考えているの?」
「……はい」
「ふふっ、そうよね。普通の令嬢なら、結婚式であんな態度をとられたら傷つくものね。……でもね、ケイト。わたくしは旦那様があの言葉を口にしてくださって、心底救われた気持ちになったのよ」
よく知りもしない男の元へと嫁ぐ政略結婚。
誰もが、愛のない冷え切った結婚生活が始まるのだ、と悲観する場面だ。
だが、アウローラの場合は違う。たとえ自分が夫となる男のことを何も知らなくとも、相手は彼女の存在や噂、その容姿を知っている。
そして婚姻の契約が結ばれた瞬間から、その男は妻となったアウローラの身体も尊厳も、好き勝手に扱うことができる権利を得るのだ。
夫が妻に何を強いて、どう扱おうと、世間ではそれを『夫婦の営み』の一言で片付けてしまう。
それどころか、周囲は羨ましそうにこう宣うのだ。
――政略結婚なのに、あんなに旦那様に愛されるなんて幸せね、と
アウローラが見た目だけを愛でる男に弄ばれていようとも関係ない。たとえ一方的な物であっても、愛情を向けられている事を喜ぶべきだと世間の考えだ。
「わたくしはこれでも、自分が男性からどのような目を向けられているのかを理解しているつもりよ。だからこそ……結婚したら、よく知らない男に『愛』という免罪符で弄ばれる運命にあることも分かっていたわ。でもね、そんなわたくしに、旦那様ははっきりと『愛さない』と言い切ってくださった」
「お嬢様……」
「そのことが、わたくしにとってどれほどの救いになったか、みんな知らない。けれどケイト、あなたにはそのことを覚えておいてほしいわ」
アウローラの繊細な指先が、ケイトの髪を優しく編み上げていく。
ケイトは頭部から伝わる主の手のぬくもりを感じながら、静かに目を閉じた。
「……私なら、そんな風に『愛さない』なんて言われたら、悲しくて泣いてしまうと思います」
「そうね、普通ならそうかもね」
「私は愛されたいです……」
「あら、わたくしはあなたの事を愛しているわよ?それだけでは足りなくて?」
「……はは。ありがとうございます」
まだ彼氏と別れた時の傷が癒えていないのだろうか。
ケイトは自嘲気味に口元を綻ばせると、諦めの混じった吐息を漏らした。
「お嬢様は本当に……いつもお綺麗ですね……」
「ふふっ。どうしたの?急に」
「いえ、何となく言いたかっただけです」
「そう?……それよりほら、完成よ。見て」
アウローラは髪を結い終えると、部屋のドレッサーから手鏡を取ってきてそれをケイトの前にかざした。
鏡に映った自分の姿――素朴なお仕着せとは不似合いの、可憐なお嬢様のような髪型を見て、ケイトは苦笑を漏らした。
「何ですか?この可愛らしい髪型は」
「今日はおそろいにしたいなと思って。ケイト、わたくしの髪もこれと同じように編んでくれる?」
「……はい。仰せのままに」
ケイトは鏡越しにアウローラの愛おしそうな眼差しを受け、何となく目をそらした。
そして、互いに場所を入れ替えると、今度はケイトがアウローラの背後に立ち、ゆっくりとブラシを走らせた。
* * *
その日の夕方。ヴィンセントはようやく新聞社から帰宅した。
交渉に手こずったのだろうか。戻ってきた彼の表情はいつも以上に険しく、近寄りがたいオーラを放っている。
「結論から申し上げますと、明日の朝刊には訂正と謝罪の記事が掲載されます」
夕食時、リオルとジーナ以外の使用人を退出させたヴィンセントは、向かいに座るアウローラにそう告げた。
アウローラは美しい所作で白身魚のソテーを切り分けながら、「良かったですわ」と安堵の笑みを返す。
「それより、随分とお疲れのようですけれど、新聞社側は訂正記事の掲載を渋りましたの?」
「いえ、話し合い自体は驚くほどスムーズに進みました。あちらもマナー違反である事は重々承知していたようです。あの様子では、こちらが乗り込んで来ることもある程度は予測していたのではないでしょうか?」
「まあ、そうだったのですか。しかし、だったらどうしてあんな記事の掲載をしたのかしら?」
「……『最近は販売部数が伸び悩んでいたから』だそうですよ」
「そ、そうですか……」
そんな目先の話題性のために、花祭りのルールを無視して記事を書いたのか。後々の信用を考えれば損失にしかならないだろうに。
あまりにも身勝手な動機に、アウローラは呆れて失笑するしかなかった。
「それよりもアウローラ、実は少し相談がございまして……」
ヴィンセントは神妙な面持ちで席を立つと、アウローラの隣の席に腰を下ろした。
アウローラは首をかしげつつも、彼の方に体を向けた。




