13:初めての花祭り(4)
30分におよぶ押し問答の末、妥協案としてアウローラはベッドを、ヴィンセントは壁際に寄せたソファを使うことで決着がついた。
ヴィンセントとしてはこれでもかなり譲歩したつもりだったが、アウローラはなぜか不満そうだ。
「……何でしょうか、その顔は」
「ソファでは、疲れがとれませんわ」
「海に出た時はこれより硬い場所で寝ています。問題ありません」
「ですが……」
「はあ……」
まだ食い下がろうとするアウローラに、ヴィンセントは隠そうともせず深いため息をこぼした。
そして、風呂の用意をしていたアウローラの傍らへ静かに歩み寄る。彼の高い背丈が生み出す影は、アウローラの全身をすっぽりと覆い隠した。
ふと暗くなった視界にアウローラが顔を上げると、眉根を寄せたヴィンセントが、ジトッとした眼差しで彼女を見下ろしていた。
「旦那様……?」
「……アウローラ。あなたには、俺がどんな存在に見えているのですか?」
「どんな、とは……?」
質問の意図が理解できないのか、アウローラは首を傾げた。酒が回っているせいで、どうにも勘が鈍い。
ヴィンセントは堪えきれずに小さく舌を鳴らすと、圧力をかけるようにもう一歩、前へ踏み出した。
「お忘れかもしれませんが……俺は男です」
少し硬い声でハッキリと告げられ、アウローラはハッと表情を変えた。そして、慌てて後ずさる。
「す、すみません!わたくし、なんてことを……」
「……思い出していただけたなら、結構です」
自分から必死に距離を取る彼女の姿を見て、ヴィンセントはほっと胸を撫で下ろした。
「酔いのせいで、男に対する警戒心まで薄れてしまうのなら、今後の飲酒は控えてください。他の男の前で同じことをすれば、どうなるか分かりませんよ」
相手が俺だから無事で済んでいるのだと、ヴィンセントは釘を刺す。
すると、アウローラは顔を真っ赤に染め、恥ずかしそうに俯いた。
「申し訳ありません……。旦那様はどこか雰囲気が似ていたもので、つい気が緩んでしまって……」
「似ている? ロベルト様……いや、公爵閣下のことでしょうか」
アウローラが気を許せる男性で、なおかつ雰囲気が自分に近い人物となると、思い当たるのはヴァレンティア公爵くらいだ。
ヴィンセントは縁談を持ちかけてきた時の彼の姿を思い出し、何とも言えない気持ちになった。
(確かに、あの圧迫感は似ているかもしれないが……)
ヴァレンティア公爵は体格こそ華奢だが、放つオーラには確かな威圧感がある。それは長年、皇帝の右腕として君臨してきた経験の賜物だろうが、間近でそのオーラを浴びると、後からどっと疲労が押し寄せる。
自分が彼女に与えている安心感があの威圧的な父親と同質のものかもしれないと思うと、畏れ多いと思いつつも、素直には喜びきれない。
ヴィンセントは苦笑を漏らした。
「あ、違いますわ。その……お母様に少し、似ていて……」
「………………お、お母様……ですか?」
もじもじと恥ずかしそうに指先をいじるアウローラ。理解が追いつかないヴィンセントの頭の中にはクエスチョンマークが浮かんでいる。
「お母様……?お父様ではなく……?」
「はい。お母様ですわ」
「えっと、その……一体どのあたりが……?」
ヴィンセントが脳内で描いていた『ヴァレンティア公爵夫人』の気品ある像が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちてゆく。
アウローラに似た華奢で儚げな美女を想像していたのだが、違ったというのか。ヴィンセントの頭の中にいる公爵夫人がみるみるうちに、自分と同等の体格を持つメスのゴリラへと上書きされていく。
「あー……では、お母様はその……たいそう体格に恵まれた女性だったのですね?」
「いいえ?母の体型は、いまのわたくしとよく似ておりましたけれど」
「あ、もしかして……前線で戦う元軍人の方とか?」
「生粋の箱入りお嬢様ですわ」
「じゃあなぜ!?どこがどう似ていると言うんですか!?」
思わず素で叫んでしまったヴィンセントに、アウローラは「ふふっ」と可憐に微笑んだ。
「わたくしに対してはっきりと物申してくださるところですわ」
「すみません、意味がよくわからないのですが……」
「そうですわねぇ……。例えば、いつもの朝稽古の時もそうですけれど、旦那様はわたくしの至らぬところをちゃんと指摘してくださいますでしょう?」
「それは教える身としては当たり前のことで……」
「わたくしにとって、それは当たり前のことではないのです」
アウローラはそう言うと、どこか遠くを見るように目を細めた。
「お父様もお兄様も、わたくしのことをとても大切にしてくださいます。ですが……心のどこかでは、常にわたくしを憐れんでおられたのでしょうね。だから……わたくしがどんな我が儘を言っても、一度も本気で叱ってくれたことがありませんでした」
マナーを欠いた振る舞いをしても、勉強を放り出しても。
父も兄も、祖父母も、侍女や家令、果ては家庭教師でさえも、誰もが腫れ物に触るかのように優しく、ただ微笑むだけだった。
恵まれた環境にいながら、贅沢な悩みだと思う。
けれどアウローラがそれが寂しかった。
「お母様だけだったのです。わたくしの境遇を悲観せず、見てくれだけの女にならないようにと、ダメなものはダメと厳しく正してくださったのは」
父は娘に対して厳しすぎる母をよく思っていなかったが、アウローラ自身はそんな厳しい母が好きだった。
自分を一人の人間として見てくれた、あの温かい厳しさが大好きだった。
あの日、母がいなくなるまではーー
忌まわしい記憶が一瞬にして脳裏を駆け巡り、アウローラの表情からすっと色が失われた。影の差した瞳を伏せ、微かに身体を縮こまらせる。
その明らかな変化に気づいたヴィンセントは、思わず彼女の顔を覗き込んだ。
「アウローラ?どうしました?」
「……すみません、何でもありませんわ」
アウローラはハッとしたように顔を上げると、慌てていつもの可憐な笑みを貼り付けた。
「えっと、なんの話をしていたのでしたっけ?」
「お母様と俺が似ていると……」
「ああ!そうでした、そうでした!……ま、まあ、お母様がいなくなってからは、ケイトがわたくしを注意してくれましたし、ミランダお義姉様が嫁いで来てくださってからは、お義姉様も注意してくださいますから、そういう点では旦那様はあの二人にも似ているかも知れません!」
「……アウローラは自分に厳しい人に安心感を覚えるのですね」
「そうかもしれませんね。……ふふっ。歪んでますよね」
「そんなことないです。厳しさを愛情だと受け取れるのは素晴らしいことです」
「愛情……。そう、ですね。そうだと……いいな……」
ヴィンセントの言葉に、アウローラは困ったように笑う。ヴィンセントはそんな彼女を見て、胸が締め付けられた。
ヴァレンティア公爵夫人の噂なら、ヴィンセントも薄らと耳にしたことがある。
確か、夫人の愛人がアウローラを襲おうとしたことがあり、「娘に男を奪われた」と激怒した夫人は家族を捨てて出て行ったという話だった。
ヴィンセント自身、あくまで真偽不明の醜聞として聞いただけなので、真相はわからない。
だが、アウローラの様子から、この話題は安易に触れていいものではないことだけは明白だった。
「アウローラ、そろそろ風呂に……」
ヴィンセントは話を逸らそうと、口を開いた。だが、被せるようにアウローラも話し出す。
「あ、えっと、ですので……その、先ほどお酒を飲みすぎたわたくしを誠実に窘めてくださった旦那様に、とお母様が重なって、つい嬉しくなってしまって……。混乱させてしまいましたよね。ごめんなさい?」
アウローラはヴィンセントの反応を伺うように、上目遣いで、恥ずかしそうに小さく肩をすくめた。
その愛らしい姿に、ヴィンセントの中の煩悩が瞬時に這い出してくる。
ヴィンセントはそれらを抑え込むように、大きく深呼吸をして心を落ち着かせた。
「旦那様?どうなさいました?」
「いや、脳に十分な酸素を送らねばと」
「それはどういう意味……」
「それよりも、ほら。早くお風呂へどうぞ。眠気で動けなくなる前にやるべきことをしましょう」
「そ、そうですね。では、お先に失礼します」
アウローラはバスタオルを抱きしめ、急かされるようにシャワールームに入った。
彼女の姿が部屋から消えた瞬間、ヴィンセントはその場に座り込み、火照る顔を両手で覆った。
不意打ちで愛らしい仕草を見せてくる妻に慣れる日は果たしてくるのだろうか。
理性を抑えきれなくなる前に去勢しようかと、彼は本気で考えた。




