12:初めての花祭り(3)
別に、手なんて繋げなくてもいい。そんな話をしたのは、つい2時間ほど前のことだ。
「……それでぇ、その時にね、お義姉様がお兄様をキツく怒ったのです。そしたらお兄様、なんて言い訳したと思います?」
「さあ……?」
「お兄様ったらね……ふふふっ。やっぱり秘密」
「そう、ですか……」
何が面白いのか、アウローラはずっと楽しそうに笑っている。
ヴィンセントは自分の肩に寄りかかるようにして座る彼女を見下ろし、溜め息をこぼした。
(……酒なんて勧めるんじゃなかった)
お祭りなのだから、普段は節制しているアウローラも、今日くらいは少し羽目をはずしてもいいのではないかと思ったのが間違いだった。
ヴァレンティア公爵領の名産はワインだし、口当たりの軽い酒ならば余裕で飲めると思っていたのだが……。
「まさかこれほど酒に弱いとは……」
「え?何かおっしゃいまして?」
「いいえ、何でも。それよりもアウローラ、もうお酒はやめましょう?」
ヴィンセントは酒の入ったグラスを渡すよう促した。
しかし、アウローラはふるふると首を横に振り、幼子のようにぷくっと頬を膨らませる。
「い・や!」
「い・や!……じゃありません。ほら、こちらによこしなさい」
「いやです!もっと飲みたいです!」
「これ以上は本当に良くないから」
「いーやっ!」
「ア、アウローラ……。じゃあ、とりあえず、声を抑えようか。な?」
ヴィンセントは唇の前に人差し指を立て、「しっ」と目配せをした。
すると、アウローラも真似をするように人差し指を立て、「シーッ」と悪戯っぽく微笑んだ。
その瞬間、ヴィンセントは息を呑んだ。
ああ、これは良くない。本当に良くない。
その美しさと、いつもよりも気が緩んだあどけない笑顔。火照った頬と潤んだ瞳。
アウローラ自身は酔っているせいで全く気がついていないが、街中の男たちの視線は、中央広場のステージで華やかに舞う踊り子たちよりも彼女に釘付けになっている。
今は、花祭りの慣習と隣に控える顔が怖い大男のおかげで誰も寄ってこないだけだ。
ヴィンセントは額に手をあて、気持ちを落ち着かせるようにふーっと長く息を吐いた。
そして、今度は強引にアウローラの細い手からグラスを取り上げた。
アウローラは不服そうに口を尖らせる。
「アウローラ、移動しましょう。宿を取っています」
「え、そうなのですか?」
「ええ。花祭りの時は道が酷く混み合いますから、万が一を考えて予約していたんです」
「まあ!準備が良いのですね!」
「ですから、さあ。もう行きましょう。これ以上ここにいるのは危険だ」
「きけん?」
「わからないのならいい。ほら、立って」
「はぁい」
ヴィンセントに促され、アウローラはゆらりと立ち上がった。
そして、フラフラとおぼつかない足取りで彼の後をついて歩き始める。
人混みの中で今にも誰かとぶつかりそうになる彼女を見て、ヴィンセントはまた一つ、大きなため息をこぼした。
「………………アウローラ、手を」
「て?」
「流石に今のあなたを一人で歩かせるのは不安です。だから、今だけは我慢して俺に手を引かれて下さい」
「て……、手……」
アウローラはしばらく自分の手を見つめ、そしてまたクスクスと、今度は嬉しそうに笑った。
「何がおかしいのですか?」
「いいえ、何でも。ふふふっ。では、……はい!お願いしますっ!」
アウローラはヴィンセントの大きくてゴツゴツとした手に自分の手を重ね、ぎゅっと強く握りしめた。
酒のせいか、彼女の手の温度は、ヴィンセントのそれよりもずっと高かった。
「……手、熱くないですか?」
「旦那様の手は、冷たくて気持ちいいです」
「……………………そう、ですか」
無防備に笑うアウローラ。ヴィンセントは自分を強く律するように眉間に皺を寄せ、これ以上彼女を直視しないよう、ぷいとそっぽを向いた。
「さあ、行きますよ!しっかり歩いてくださいね!」
「……はーい」
アウローラは前を歩くヴィンセントの背中を、ジッと見上げた。
いつも見上げているはずの大きな背中なのに、今日の彼は少し雰囲気が違う気がする。
首元や耳が、ほんのりと赤いせいだろうか。
(あれ……?旦那様ってお酒を飲んでいたかしら?)
アウローラは酔いの中でぼんやりと考えを巡らせた。
だが、やはりアルコールが回っているせいで上手く思い出せない。
結局、彼女は「まあ、いっか」とその疑問を深く掘り下げるのをやめた。
少し歩いて、二人は大通りに面した一軒の宿屋に辿り着いた。
そこは庶民にしては少し敷居の高い程度の小綺麗な宿であり、間違っても筆頭公爵家のご令嬢が泊まるような場所ではなかった。
部屋に入ったヴィンセントは、荷物を棚の上に置くと、楽しげに窓の外を眺めるアウローラへ声をかけた。
「申し訳ありません、このような場所で。急なことでしたので、近くの格式の高い宿はどこも空きがなくて」
唐突に決まった花祭りでの『夫婦円満アピール大作戦』だったため、貴族が利用するような高級宿はどこも満室だったのだ。
ヴィンセントは慣れない環境に我慢を強いることを申し訳なく思い、軽く頭を下げた。
すると、アウローラはくるりと振り返り、ムッとした顔をして首をかしげた。
「こんな場所、という表現はこちらのお宿に対して失礼ではありませんの?」
「え……?」
「わたくしたちが勝手に来てお世話になるのに、そのような言い方はあまり感心いたしませんわ」
誰に頼まれたわけでもないのに、宿を貶めるような物言いは不誠実だと彼女は眉をひそめる。
ヴィンセントはハッとして、そして何故か頬を緩めた。
「……フッ。そうですね。申し訳ありません。不適切な表現でしたね」
「……どうして笑っていらっしゃるの?」
「すみません、あまりにもアウローラがアウローラらしかったもので」
「どういう意味ですの?もしかして馬鹿にしていらっしゃいます?」
「いいえ、褒めているのですよ」
「……?ならいいのかしら?」
酒のせいでまだ頭が回らないアウローラは、首をかしげながらも窓際の椅子に腰掛けた。
ヴィンセントはそんな彼女へ、水を入れたグラスを手渡す。
「さあ、とりあえずコレを飲んで下さい」
「はぁーい」
アウローラはグラスを受け取ると、一気にそれを飲み干した。
いつも美しい所作を徹底している彼女からは想像できないほどの、大雑把な仕草だ。
あまりのギャップに、ヴィンセントは堪えきれずに噴き出した。
「ははっ!見事な飲みっぷりで!」
「あ、またバカにしましたわね!?」
「いいえ、褒めているのですよ」
「絶対、嘘ですわ!」
アウローラはまたしても、ぷくっと頬を膨らませた。
二人はそのまま、睨み合うようにジッと視線を合わせる。
やがて、しばらく経ってから、どちらからともなくプッと吹き出した。
「うふふっ。何をしてるのでしょうね、わたくしたち」
「ええ、本当に……はははっ」
ツボに入ってしまったのか、二人はそれからしばらくの間、子どものようにクスクスと笑い合った。
そうして穏やかな時間が流れた頃、不意に窓の外から陽気な音楽が聞こえ始めた。
二人が外を覗くと、大通りの広間では、花灯籠の光の下で人々が軽快な音に合わせて踊り出していた。
「旦那様!わたくしたちも踊りましょう!」
「え……!?」
アウローラはヴィンセントの手をぐいっと引き、狭い客室の中でステップを踏み始めた。
それは貴族の夜会で踊るような厳格な作法など一切ない、自由なダンス。ただ手を取り合い、無造作にクルクルと回るだけのものだ。
けれど、ワンピースの裾を翻して笑うアウローラは、夜会で見たどの淑女よりも生き生きとしていて楽しそうだった。
ヴィンセントは「仕方がない」と、彼女が満足するまで付き合うことにした。
だが、やはり酒は恐ろしい。
酔いが抜けきっていないアウローラは、急に足元をふらつかせ、派手にバランスを崩した。
「きゃっ……!?」
「危ない……!」
ヴィンセントは慌てて彼女の腰を抱き寄せ、支えようとした。
しかし、勢いを殺しきることが出来ず、二人は重なるようにして傍らのベッドの上に倒れ込んだ。
ふかふかのシーツの上に落ちた衝撃。
ヴィンセントは気がつくと、アウローラを組み敷くような体勢になっていた。
絡み合う視線と、触れ合いそうなほどの近い吐息。
先ほどまで聞こえていた陽気な音楽が、急に遠のき、代わりに部屋の柱時計が刻む規則正しい音だけがやけに大きく響き渡る。
アウローラはぼんやりとした思考の中、熱を帯びた瞳で静かに口を開いた。
「あの……」
「………………す、すみませんっ!!」
ヴィンセントは跳ね起きるように勢いよくのけぞり、そしてそのまま体勢を崩してベッドの反対側へと転がり落ちた。
ドスン!と床に後頭部を激しく打ち付ける音がした。
「だ、大丈夫ですか!?」
「ええ……大丈夫、です……」
ヴィンセントは痛む後頭部を押さえながら、フラフラと立ち上がった。
「すみません。その、支えきれず……」
「いえ。こちらこそ、巻き込んでしまって」
「お怪我はありませんか?」
「大丈夫ですわ。旦那様が庇って下さったので」
「それなら良かったです」
「旦那様はお怪我など……は、しましたわね。本当にすみません」
「いえ、たんこぶができただけですので、どうかお気になさらず。……それより、もう夜も更けてきましたし、休みましょう。浴室はあちらです。俺は廊下にいますから、何かあれば声をかけて下さい」
「え……?」
「え?」
「廊下って、どうして?」
「どうしてって……、あなたと同じ部屋に泊まるわけにいかないでしょう?」
空いている部屋が一部屋しかなかったため、安全面も考慮して自分は部屋の扉の前で不寝の番をするとヴィンセントは至極真面目な顔をして言う。
あまりにもそうすることが当然であるかのように話す彼に、アウローラは「それはダメです!」と小さく叫んだ。
「い、いけませんわ!こんな肌寒い中、廊下で一夜を明かすなんて」
「そうですか?要人警護ではよくあることですよ?」
「わたくしは要人ではありませんわ」
「そうですけど、そのようなものだと思えば……」
「ダメです!旦那様を廊下で寝かせるなんて、妻として失格ですわ!」
「ではどうしろと?」
「どうしろって、一緒に寝れば良いだけではないですか?」
「……………………え?」
当たり前のようにコテンと首をかしげるアウローラ。
密室で男と二人きり。先ほどは、事故とはいえ、ベッドの上に組み敷かれていたというのに、どうしてそんな無防備な提案が出来るのか。
酒のせいか、警戒心が皆無だ。アウローラは今の自分の愛らしさと、男の理性の脆さをまるでわかっていない。
ヴィンセントは深く頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。
(……やっぱり、酒など飲ませるべきではなかった!)
ブツブツと小声で何かを唱えて理性をつなぎ止めようとするヴィンセントの眉間には、先ほどまでの優しい笑みが嘘のように、過去一番の険しい皺が刻まれていた。




