10:初めての花祭り(1)
花祭りとは、帝都の春の訪れを祝う、市民にとって最も親しまれている祭りの一つで、その起源は帝国がまだ小さな城塞都市だった頃まで遡る。
長く厳しい冬が明けたある年、帝都は大火に見舞われた。多くの家が焼け、食料も失われ、人々は明日を生きることさえ難しい状況に追い込まれた。
けれど、春は変わらず訪れた。
焼け跡の残る城壁の外に、小さな野の花が一斉に咲いたのだ。
一人の少女がその名前も知らない花を摘み、焼け落ちた家々の跡に飾った。
それは何もかも失い、失意のどん底に沈んでいた灰色の街に、彩りが戻った瞬間だった。
やがて、一人、また一人と焼けた家に花を飾るようになった。
そうして、帝都の人々はその小さな花を復興の希望とし、立ち上がったらしい。
「それ以来、帝都では春になると花を飾り、花を贈り、花を身につけるようになったのですよね」
それがいつしか『花祭り』と呼ばれるようになり、今ではこの時期になると帝都中が花で彩られるようになった。
馬車の窓から外を眺めながら、アウローラは頬を緩める。その声はいつもよりもずっと弾んでいた。
「夜には大通りに大量の花灯籠が吊るされると聞きましたが、今日は夜までゆっくりできるのかしら?」
「お望みならお付き合いいたしますが……」
まるで初めて花祭りに来たかのように、瞳をキラキラと輝かせるアウローラを見て、ヴィンセントはふと疑問を抱いた。
花祭りの起源となった災禍では、貴賤問わず人々が手を取り合って復興を目指した。その記憶から、祭りの間だけは、道ゆく人の身分について触れない事が暗黙のルールとなっている。
そのため、若い貴族令嬢が侍女一人だけ連れて、平民風の服装でお忍び参加することも少なくないのだが……。
「……もしかして、花祭りは初めてですか?」
ヴィンセントが尋ねると、アウローラは窓の外を眺めたまま、どこか寂しそうに目を細めた。
「わたくしが街に出ると、どうしても大掛かりな護衛が必要になってしまうので……」
アウローラの美貌は少し変装した程度で隠せるものではない。
群衆の中でもひときわ目を惹く彼女は、ただ歩いているだけでもよからぬ視線を引き寄せてしまう危険があった。
「腕の立つ護衛を大勢雇うことはできますが、その者たちを完全に信用できるわけではありません?そうなると、今度は護衛の監視役として、兄や侍女にも付き添ってもらうことになります。……でも、それでは使用人のみんながお祭りを楽しめなくなってしまいますでしょう?」
花祭りは元々、市民の祭りだ。自分のためだけに、日頃から支えてくれている人たちの楽しみを奪いたくはないとアウローラは語る。
「だから、わたくしはいつも屋敷の窓から遠くの灯りを見ているだけでしたの」
「アウローラ……」
「ま、まあ、それはそれで風情があり、美しいものだったので、寂しいなんて思ったこともないのですけれどね!」
ヴィンセントの気遣うような視線に気づき、アウローラは慌てて明るい笑顔を作ってみせる。
だが、ヴィンセントはその取り繕った笑顔が余計に切なく感じられた。
自身の気持ちよりも、使用人たちのささやかな休日を重んじる彼女の優しさと、その裏にある長年の孤独が透けて見えたからだ。
「……だったら、今日は目一杯楽しまないといけませんね」
ヴィンセントはそう言うと、持って来ていたバスケットの中から花冠を取り出した。
そして、それをアウローラの頭に載せる。
驚いたアウローラは、頭の上の繊細な輪にそっと手を伸ばした。
「旦那様、これは?」
「今朝、庭の花を編んで作りました。花祭りは生花を身につけるのが暗黙のルールですから」
ヴィンセントはそう言って、自分の胸元を指差した。
彼の上着の胸ポケットには、春の訪れを告げる鈴蘭の一枝が挿されていた。
「なるほど……、それで今朝の稽古は中止だったのですね」
アウローラは唐突に朝稽古がなくなった理由を悟り、思わずクスッと笑みをこぼした。
この無骨な男が、早朝からいそいそと花冠を編んでいる光景を想像し、その不似合いさが愛らしいと思ってしまったのだ。
「わざわざ作ってくださって、ありがとうございます。嬉しいですわ」
「喜んでもらえて良かったです。ジーナのスパルタ指導に耐えた甲斐があります」
「ふふっ。ご苦労なさったのですね」
「ええ。俺は手先が器用な方ではないので」
「苦労しながらも作ってくださったなんて、本当にありがたいです。でも……」
嬉しいのに、どうしても素直に喜べない。アウローラの表情がふと、暗くなった。
花祭りは王宮の夜会とは違う。どんな人間とすれ違うかもわからない混雑の中では、人が多ければ多いほど危険度も増す。
だからこそ、街に出るのならローブを羽織り、フードを被り、できるだけ顔を隠しておきたい。
ただの気休めだとわかっていても、それが己の身を守り、周囲に迷惑をかけないための彼女なりの防衛策なのだ。
「折角編んでくださったのに、申し訳ないのですが……、わたくしは……」
アウローラは持ち込んでいたローブに触れ、申し訳なさそうに目を伏せた。
ヴィンセントはそんな彼女の言葉を遮るように、優しく問いかける。
「アウローラ、今日の目的をお忘れですか?」
「え……?」
「今日は目立たねばならないのです。何せ夫婦円満をアピールし、市民に良い噂を流してもらわねばならないのですから」
だから顔を隠す必要などない。むしろ見せつけなくては。
ヴィンセントは暗にそう告げ、まっすぐ彼女を見つめた。
「平民風の装いも、その花冠も、とてもよく似合っています。きっと街中の人があなたに目を奪われるでしょう。ですが、何も心配はいりません。なぜなら……今日のあなたの護衛は、この俺なのですから」
目の前にいるのはヴィンセント・アルドリッジ。この国で最強と謳われる男だ。
そう言って不敵に胸を張る彼の身体は、上着越しにも強靭な体躯であることがわかる。そして何より、その金の瞳には、何があろうと必ず守り抜くという揺るぎない決意が宿っていた。
アウローラはその力強い眼差しに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「ふふっ……そうでしたわね。今日はしっかりとアピールしなければならないのでした」
アウローラはそっとローブから手を離すと、少し照れくさそうにはにかんだ。
「では、わたくしの安全はあなた様にお任せいたしますわ。どうぞよろしくお願いいたします、旦那様」
「お任せください、お姫様。この身に代えてもお守りします」
ヴィンセントは冗談めかしながらも頼もしく応じた。
その時、馬車がゆっくりと速度を落とし始めた。
御者の声とともに車輪の音が弱まり、やがて花祭りの会場近くの広場で静かに停車した。
ヴィンセントは軽く息を整えると、扉を開けた。
開かれた扉からは一気に明るい空気が入り込んでくる。
「では、参りましょうか」
先に馬車を降りたヴィンセントは、アウローラへ手を差し出した。
その差し出し方は軍人らしい無骨さを残しながらも、慈しむような優しさに満ちている。
アウローラは彼の手に、そっと指を重ねて、色とりどりの花びらが舞い散る帝都の石畳へと降り立った。
その瞬間、
「わぁ……!」
アウローラは感嘆の息を漏らした。屋敷の窓から眺めているだけだったものが、今、目の前で圧倒的な光と色彩となって彼女を包み込んだのだ。
暖かい空気と、あちこちから漂う花の甘い香り。それから、人々の弾けた笑い声が街中に満ちている。
「素敵……!」
アウローラはもう一度頭の上の花冠に触れ、心からの笑みを浮かべた。
ヴィンセントはそんな彼女の横顔に、安堵したように笑った。
それはいつもの不器用な笑みではなく、ごく自然な微笑みだった。




