第2話 異物
地球から遠く離れたアステロイドベルト。
そこに暮らす俺たちにとって、宇宙は冒険の舞台ではなく、ただの職場だった。
そんなある日、六十年間ほとんど変化のなかった俺たちの生活に、地球から一人の監査官がやってきた。
彼女の名前は、アレナ・イエリク。
なぜ彼女は、わざわざここまでやって来たのか。
そして、彼女が調査するという「旧坑道」には、いったい何があるのか。
静かな日常が、少しずつ動き始める。
俺たちが居住スペースで出発の準備をしていると、副長のミサから通信が入った。
「ユイト、ペドロ。ミーティングルームに来てくれ。予定より早いが、監査官がもう来ている」
通信が切れた瞬間、ペドロは顔をしかめた。
「地球にいるやつは時間に正確だと思っていたんだがな。遅れるならともかく、早く来やがるとは」
本音なのか、ただの愚痴なのか。
まあ、俺も同じことを思った。
「リスクアセスメントだかなんだか知らんが、俺たちの仕事を増やしてどうすんだよ。ほんと、余計な奴だな」
「ほんと、嫌な予感がするよ」
その言葉が、少し引っかかった。
ペドロの言う「嫌な予感」は、ろくでもない形でよく当たる。
もっとも、今回も大した話じゃない。
俺はそう自分に言い聞かせた。
旧坑道の安全ルートは確保した。
俺たちだけなら、何とかなる。
監査官にはオペレーションルームまで同行を許可することになっている。そこで俺たちの作業を確認して、あとは帰るだけだ。
少なくとも、俺はそう思っていた。
ミーティングルームへ向かう途中、ちょうど船長のデイビッドが扉から出てきた。
反射的に、俺たちは姿勢を正す。
この世界では、上役の命令は生き残るために絶対だ。
危険区域で生き残るために、指揮命令系統は極端なまでに単純化されている。
ペドロも、それは分かっている。
どれだけ愚痴をこぼそうが、上位の命令には従う。
それが、この場所で働くための最低限のルールだった。
デイビッドは俺たちに気づくと、短くうなずいた。
「監査官には、オペレーションルームまでの同行を許可した。悪いが、連れて行ってくれ」
淡々とした言い方だった。
だが、その声の奥には、「余計な火種を押しつけてすまない」という気配が、ほんのわずかに滲んでいた。
「まあ、頭だけは切れるようだ」
デイビッドは扉の向こうへ視線を向けながら、そう付け加えた。
誰に向けた言葉なのかは分からなかった。
「よろしく頼む」
それだけ言い残すと、デイビッドは足早に通路の奥へ消えていった。
俺とペドロは顔を見合わせる。
「……行くか」
「ああ」
扉をノックし、ミーティングルームへ入る。
部屋は十人ほどが入れる広さだ。
奥には、副長のミサが立っていた。
俺とペドロは入口で姿勢を正す。
「ユイト・ミハラ、ペドロ・マルチネス、出頭しました」
「ご苦労さま」
ミサがわずかに顔を上げた。
その瞬間だった。
彼女の横にいた女が、ゆっくりと立ち上がった。
監査官――アレナだ。
無重力空間でわざわざ座るやつはまずいない。昔に出会った地球人もそうだったな。そのしぐさはこの宇宙では異物感をにじませる。ペドロの顔は“ほら見ろ、余計な奴だ”とでも言いたげな、いつものあの顔だ。俺は小さく息を吐いた。
アレナはこちらのそんな思いなど、まるで気にならないのか。
いや、そもそも興味すらないのかもしれない。
そんなこちらの気持ちなどお構いなく、姿勢を整えると、俺の顔、そして、ペドロをチラッと見て、
淡々と自己紹介を始めた。
「マテリアル社・月面第一本社監査部、監査官"アレナ・イエリク"です。本日は手順書R-5.5に基づき、現場監査を実施します。よろしくお願いします」
言葉は丁寧だが、自らの名前を強調し、どこか事務的で、温度のない口調だった。宣言というより、読み上げに近い。
よく見ると、相当な美人だ。整った顔立ちに、地球人にしては背が高い。姿勢もまっすぐで、無駄な動きがない。
だが、この船の中では――
そう全くの”異物”でしかない。
その場の空気に馴染む気配が、ひとつもなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、主人公ユイトたちと、地球からやってきた監査官アレナが初めて顔を合わせるところまでを書きました。
現場で働く者にとっては「余計な仕事」を持ち込んできた監査官。
一方で、彼女には彼女なりの目的があります。
旧坑道の調査をきっかけに、これまで変化のなかったアステリオンの日常が、少しずつ変わっていきます。
ここから物語がどう動くのか、引き続きお付き合いいただければ幸いです。




