第17話 ハーケン
地球から遠く離れたアステロイドベルト。
そこに暮らす俺たちにとって、宇宙は冒険の舞台ではなく、ただの職場だった。
そんなある日、六十年間ほとんど変化のなかった俺たちの生活に、地球から一人の監査官がやってきた。
彼女の名前は、アレナ・イエリク。
なぜ彼女は、わざわざここまでやって来たのか。
そして、彼女が調査するという「旧坑道」には、いったい何があるのか。
静かな日常が、少しずつ動き始める。
ルート1――その名の通り、最初期に開発された坑道だ。
今は使われておらず、長い年月のあいだ放置されている。
そのため、かつてルート1へ人員や資材を運ぶために設置されていた移送設備は、
再利用のためにほぼすべて撤去されてしまっている。
結果として、ルート1の侵入ベイへ向かうには、
ボルトアンカーで固定されたガイドロープにカラビナをかけ、
一歩ずつ、ゆっくりと身体を引き寄せながら進むしかない。
小惑星では当たり前だが、重力はほとんど存在しない。
そのため、ほんのわずかな力でも、簡単に小惑星から離れてしまう。
いや、“離れようとしてしまう”。
気づけば、何の抵抗もなく宇宙へと流れ出していく。
だからこそ、このガイドロープはまさしく命綱だ。
小惑星への侵入ルートは原則として、俺たちが乗ってきた宇宙船の方向には向けられていない。
侵入ベイのドックを開閉するたびに漏れ出す細かな粉塵が、船へ向かって漂っていくのを防ぐためだ。
この小惑星帯は、地球圏とは比べものにならないほど清澄な空間だが、
粉塵が船に向かえば、ゆっくりと、しかし確実に船体へ到達する。
そして外壁をわずかに摩耗させるほどの影響を与える。
それを避けるための設計――つまり、
俺たちは今、船からは見えない方向へ進んでいこうとしている。
作業自体は難しくない。
だが、このハーケンの設置は数十年前。
ここ二十年近くは使用された記録すら残っていない。
太陽風の強烈な輻射にさらされ、風化した岩石に打ち込まれたハーケンは、
もはや使い物にならないものも多い。
俺たちは、そうした“死んだハーケン”に取り付けられたガイドロープを避けながら、
ゆっくりと前へ進んでいく。
AIRS の評価では、使用不能なガイドロープが存在する確率は数パーセント。
しかも、その位置は予測不能だ。
今回の調査で最も不確実性が高い要素でもある。
ペドロが後方で確保し、俺が先頭に立つ。
アレナはもちろん、AIによるフルオートパイロットだ。
先頭の俺がアレナとペドロを順に確保し、
三人で尺取虫のように、じりじりと進んでいかなければならない。
たった二百メートルほどの距離だ。
だが、その二百メートルに、
神経がじわじわと削られていくのがわかる。
母船が視界から消え、
あと二十メートル進めば侵入ベイに到着できる――そのときだった。
先頭の俺が次のガイドロープにカラビナをかけ、
身体を引き寄せようと力を入れた瞬間。
大丈夫だと思っていたハーケンが、抜けた。
岩肌から、あっけないほど静かに。
次の瞬間、俺の身体はゆっくりと回転しながら、
小惑星から離脱を始めていた。




