第16話 落下
地球から遠く離れたアステロイドベルト。
そこに暮らす俺たちにとって、宇宙は冒険の舞台ではなく、ただの職場だった。
そんなある日、六十年間ほとんど変化のなかった俺たちの生活に、地球から一人の監査官がやってきた。
彼女の名前は、アレナ・イエリク。
なぜ彼女は、わざわざここまでやって来たのか。
そして、彼女が調査するという「旧坑道」には、いったい何があるのか。
静かな日常が、少しずつ動き始める。
LMS の最終減速チェックが AIRS から入る。
クリフが何かのんきなことを言ってきているが……
あいつはここに来たことがない。来る気もないのだろう。
だから今、俺たちの身に起きていることなんて、ちっとも理解できない。
このバイザー越しに広がる光景を――。
視界いっぱいに、寂寞とした剥き出しの地殻が迫ってくる。
ヘッドアップディスプレイには、相対速度と相対距離の数値が淡々と更新されていく。
音もなく、ただ巨大な質量だけが近づいてくる。
来るはずのない風圧を、錯覚として肌が感じる。
まさしく“落下”だ。
シミュレーションで何度体験しても、この恐怖だけは再現できない。
作り物だと心が理解していれば、
どれほど精密な VR であっても、人間は本物の恐怖を感じない。
たとえ味や香り、触覚まで再現できる VR であっても――これは別だ。
アレナのバイタルが不安定になっている。
俺自身、手のひらに汗が滲んでいるのがわかる。
そして、その汗が――“生きている証”だということも、はっきり感じる。
そのとき、ペドロがアレナに向けて、低く言った。
「怖かったら……目をつぶっていればいい。」
また、俺の脳裏に過去の記憶がよみがえってくる。
……
「ユイト、怖かったら目をつぶったらいいんだぞ。」
キースの声がヘッドセット越しに届く。
小惑星はもうすぐだ。
キース・リチャーズ。
俺の大学の先輩で、この会社でも先輩にあたる。
「キース、怖いんはお前なんじゃないか?」
ペドロの陽気な声が割り込んできた。
「ハハハ、怖いよ。本当に怖い。俺は慎重なことだけが取り柄だからな。
ペドロ、いつも思ってるんだが、お前はよく平気だな。」
「俺は、何があっても死なないからな。お前みたいに賢くはないからさ。
それだけが取り柄さ。……モルガン、大丈夫か?」
「ふふふ、私は大丈夫。あそこに何があるかと思うとワクワクしちゃうからね。
でも、ちょっと怖いかも。」
「モルガンも乗らないで。AIRS に全部ログとして記録されているわよ。」
ミサ隊長がたしなめるように言う。
ペドロが鼻歌まじりに返す。
「こんなログなんて、誰も見直す奴いねーよ。事故でも起こらないかぎりはな。」
……
AIRS による最終減速が、静かに――約十秒かけて始まる。
いよいよ小惑星、着陸地点、通称“ポートハワイ”に到着する。
地球にあるという“ハワイ”は、青い空と海、そして植物がある世界らしい。
俺はそのハワイというものをまったく知らない。
だが、少なくとも――
この寂寞としたモノクロームの世界ではないことだけは、確かだろう。




