第15話 宇宙の海
地球から遠く離れたアステロイドベルト。
そこに暮らす俺たちにとって、宇宙は冒険の舞台ではなく、ただの職場だった。
そんなある日、六十年間ほとんど変化のなかった俺たちの生活に、地球から一人の監査官がやってきた。
彼女の名前は、アレナ・イエリク。
なぜ彼女は、わざわざここまでやって来たのか。
そして、彼女が調査するという「旧坑道」には、いったい何があるのか。
静かな日常が、少しずつ動き始める。
拡張視界システムのチェックが進む。
レベル3――各作業者やドローンの複数カメラ、センサー情報を相互リンクし、
それらを統合して視界に反映させるモード。
坑道探査で俺たちが最も多用する拡張視界だ。
次いでレベル2。
相互リンクは行わず、宇宙服に搭載されたセンサーのみで視界を補正する。
レベル1は、明暗の補正だけを行う“自然描写”モード。
影は明るく、直射光は暗く――あくまで自然に見える範囲での補正だ。
そしてレベル0。
何も補正しない。
入射光を減光処理するだけの、生の視界。
そのレベル0のチェックに入った瞬間、
小惑星の太陽光が当たらない部分――つまり影の領域が、視界から完全に消えた。
ここでは、太陽が当たらない場所は本当に“何も見えない”。
俺はアレナの様子をちらりと伺う。
バイザー越しに表情は見えない。
だが――その無表情の奥に、
十年前、あの時に見たアレナの横顔が、ふっと重なる。
……
「モルガン先生。」
論文のタイピングをしている俺の横で、アレナの声が聞こえた。
そうだ――宇宙に慣れていなくて、移動するたびにピョコピョコ跳ねるように進む姿を見て、俺たちは地球の“カンガルー”とかいう動物の映像を思い出し、アレナのことを“ルー”と呼んでいた。
アレナ、と呼ぶことはほとんどなかったはずだ。
記憶の底に沈んでいくほどに、遠い呼び名だ。
「先生のモルガン・マリスって名前は、何か意味があるのですか?」
アレナはいつも、自分の好奇心の塊をそのまま誰かにぶつけていた。
先生はふっと手を止め、にっこりと微笑む。
「モルガンはウェールズ語で“海”。
マリスはラテン語で“海”の意味が含まれているの。」
「へえ、そういうことなの。海、海ね。」
アレナは小さくうなずきながら、どこか嬉しそうにその言葉を転がした。
「私のあだ名はカンガルーからとって“ルー”でしょ。
ユイト、あなたの名前はどういう意味なの?」
いきなり話がこっちに飛んできて、思わず手が止まる。
「俺? いや……よくわかんないんだけど。」
「なんだ、知らないんだ。実は私も自分の名前の意味なんて知らないんだけどね。」
ケラケラと笑うアレナ。
俺はまたモニターに視線を落とす。
「でも、先生は“海”なのに、小惑星の調査をしているんだ。」
アレナがそう言うと、モルガン先生は少し残念そうに笑った。
「ルー、本当は海洋学者になりたかったんだけど……ここには本物の海がないからね。」
……海洋学者?
聞き慣れない言葉に、思わず顔を上げる。
先生とアレナの横顔が並んでいた。
ああ、海の研究者か。
地球ならではだな、と俺は再びモニターに目を落とす。
「じゃあ、先生も地球に引っ越せばいいのに。」
アレナの無邪気な言葉に、先生は苦笑しながら首を振った。
「あなたもわかっているとは思うけど、そう簡単なものじゃないのよ。」
そう――この時代、地球と宇宙を行き来できる人間は年間千人にも満たない。
“ルー”のように軽々と移動できる人間など、ほとんどいない。
「だからね、ルー。海の代わりに、外宇宙の“海”に潜ることにしたのよ。」
……
バイザーの表示がレベル3に復帰した。
小惑星が、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。




