第9話 かがやき
《その後、例のポジションって決まりましたか?》
勇気を出して送ったLINEはすぐ既読になり、返事が届く。
《まだみたいです。こっちも誰でもいいわけじゃなくて、適任者がいればって感じのスタンスなので、人事もゆったり構えてるみたいです》
先月届いたスカウトメールは、ゼミの後輩であり僕に転職サイト登録を勧めた安西仁香さんが、まさに勤めている企業からだった。金沢を拠点にする再生医療系のバイオベンチャーで、高機能スキンケア商品の開発にも力を入れている。世界展開を見据えて知財体制を強化したいらしく、製薬会社の知的財産部に長く勤めている僕のキャリアは、先方の求めるポジションに思いがけず合致していた。
そのポジションがまだ空席であるという返信を見て、僕は安堵のため息をつく。見透かしたかのように次のLINEが届いた。
《先輩、この質問2回目ですよ。気になるなら応募すればいいじゃないですか。エージェントすっ飛ばして、リファラルで私から上に話をあげますよ》
僕はためらいがちに返事を打つ。
《ありがたいんだけど、そこまでの決意は固まっていないというか》
《そんなこと言ってたら一生転職できませんよ》
《いや、そもそも転職するわけでは……》
我ながら歯切れが悪いが、2か月前までは転職のての字も考えていなかったのだ。それが今や、具体的な選択肢が目の前に突き付けられ、手を伸ばせば届くかもしれない距離にある。実のところ、このオファーは読めば読むほど魅力的だった。自分がやってきたことが活かせる具体的なイメージが湧くし、権限も増える。加えて条件も悪くない。
仕事では上半期の振り返りシートを提出する時期なのだが、「もし転職するなら、来年度の展望なんて書く必要がないのでは?」とキーボードを打つ手が止まり、あわてて煩悩を振り払ったりした。
《文字打つの面倒くさいんで、電話します》
メッセージが届いたかと思うと、画面が切り替わり、音声通話がかかってきた。発信元はもちろん安西さんだ。
「ぶっちゃけどうなんですか? それなりにいいと思うから気になってるんですよね」
第一声がこれとは、相変わらず前のめりな子だ。僕は家に誰もいないのをいいことに、スピーカーモードにする。
「うん、成長性のあるいい企業だなと思うし、僕のキャリアとも合致しているし、安西さんが働いてるってことに縁も感じる。ただ、まだ会社を辞める覚悟もないのに受けていいのかどうか……」
「重く考えすぎですよ。カジュアル面談から始められますし、選考が進んでも違うなと思えば断っていい。もちろん会社側からお断りされることもあります。マッチングアプリみたいなものだと思えばわかりやすくないですか? 最初からうまくいくほうが珍しいですよ」
彼女の言いたいことはよくわかる。ただ僕は、恋愛でも転職でも時代遅れな男だ。
「マチアプしたことないんだよ」
「なるほど、あんまり良い例えじゃなかったですね。……先輩はご家業のこともありますから、よほどのことじゃないと転職する気にならないのはわかります。東京から出たことないんですっけ」
安西さんに見えるわけはないのに、思わず僕は頷いた。
「うん、ずっと東京」
「確かにいきなり金沢移住はハードル高いか」安西さんは少し考えたあと、ひらめいたように言った。「一回遊びに来てみたらいいんじゃないですか? なんなら今週末、秋分の日。私、案内できます」
思わぬ急な提案に「いや、そんな」と逡巡するが、彼女は「東京から金沢、新幹線で2時間半。USJに行くのと同じようなもんです」とこともなげに言う。
「街との相性は大事ですからね。ごはんおいしいし気候もいいし、秋の金沢はおすすめですよ。よければ彼女やお友だちとご一緒でも」
あれよあれよという間に、金沢行きが決まってしまった。
安西さんは現在IT担当らしいが、営業のほうが絶対に向いている。
電話を切ったあと、僕はソファから立ち上がり、壁際へ向かった。サイドボードの上に紫色の胡蝶蘭が置かれている。先月、妹の誕生日に買った胡蝶蘭は、まだまだ綺麗に咲いている。
根元の植え込み材に触れると、しっかり乾燥していた。水やりの合図だ。台所に行き、グラスの半分まで水を入れる。胡蝶蘭のそばまで戻ると、かがんでゆっくりと水を注いだ。
胡蝶蘭というとビジネスのお祝いで贈られてくる大輪のもののイメージがあったが、これは花も鉢も控えめなサイズだ。毎日観察していると、つぼみがいつの間にか花開いたりして、驚かされると同時に愛おしくなる。常に視界に植物がある暮らしが、こんなにいいものだとは思わなかった。
幸せな気持ちで見つめていると、玄関の鍵が開く音がした。紫野が帰ってきたのだ。
「お帰り。楽しかった?」
「うん」
この頃妹は、外食の頻度が増えた。東京での新しい部署や生活に慣れて、自由が利くようになってきたのだろう。楽しくやっているならそれに越したことはない。
「切り昆布の煮物、全部食べちゃったけど、よかったかな」
「大丈夫。食べきってくれて助かる」
彼女が週末に仕込むつくりおきは、今や僕のほうがたくさん食べているかもしれない。申し訳ないと思いつつ、残すのももったいないのでおいしくいただいている。
台所で麦茶を飲む妹に、僕は声をかけた。
「急なんだけど、今週末、金沢に行くことになった」
紫野は片方の眉だけかすかに動かした。
「転職の件?」
「今回は遊び。まず街を見てから考えたらって言われて。あ、前に話した後輩から」
「つまり、街が良ければ、お兄さん的にはアリな感じなんだ」
一瞬で核心を突かれ、僕はうっとなる。
「いやいや。予定もないし、最近旅行してなかったから、1泊2日でちょうどいいかなと思って。ごはんもおいしいって聞くし――」
そのとき、僕はふと思いついて尋ねた。
「よかったら、一緒に行く?」
紫野は動きを止め、「はい?」と怪訝な顔をした。
「なんで、私が」
「お刺身や日本酒がおいしいらしいし、街並みも歴史があって、好きそうかなって」
「好きだけど。後輩の人からしたら、義理の妹と一緒に来るって、意味わかんないでしょ」
「向こうは歓迎してくれると思うよ。だって『彼女やお友だちとご一緒でも』って……」
説明するつもりが、自分でも違和感に気づいた。紫野がプッと噴き出した。
「お誘いありがとう。行かないけど、お土産楽しみにしてるから。加賀棒茶がいいな」
「わかった。よさそうな和菓子も買うよ」
返事をしながら、僕は気づいた。僕は紫野と一緒に旅行に行ったことがない。実家の家族や、友人、恋人。彼らとはいくらでも行ってきたけど、大人になってからもっとも近しく過ごしているはずの紫野とだけ、それがない。
なぜなら僕らは、義理の兄と妹だから。暮らしは共にできても、旅行に行く余地がない。おそらく、今後も行くことはない。
この家以外の景色を紫野と見ることはない。そのことを、僕は今更初めて自覚した。
東京駅を9時台に出る「かがやき」に乗る。コーヒーを飲んで車窓を眺め、文庫本を読み、少しうつらうつらしていたら、昼前に金沢駅に着いた。
ガラス張りの駅舎を出ると、鼓門という、能の鼓を模した巨大な門がそびえ立っていた。堂々とした佇まいにテンションが上がり、旅行に来た実感が押し寄せる。
「案内して回る」という安西さんの申し出はあえて断って、夕食だけ付き合ってもらうことにした。近江町市場、兼六園、尾山神社、茶屋街……。たとえ定番の観光ルートであっても、まずはまっさらな状態でこの街を見て回りたいと思ったのだ。
思えば出張以外で、ひとりで旅行するのは初めてかもしれない。
スマホで地図を確かめて、僕は一歩踏み出した。
「魚介が本当においしい」
夜19時半、浅野川沿いに細い路地が立ち並ぶ主計町茶屋街の小料理屋で、僕は嚙みしめていた。
「というか、野菜もお肉も全部おいしい……」
敗北したようにうなだれる僕の頭上に、安西さんの得意そうな声が降り注ぐ。
「甘エビ、すごいでしょう? 日本酒も頼みましょう。今月上旬からひやおろしが出てますよ」
安西さんが予約してくれたのは、創作おばんざいを出す和食店だった。寿司盛り合わせ、レンコンと加賀野菜天ぷら、のどぐろの塩焼き、治部煮。どれも素材の味が活かされていて、本当においしい。古民家を改装した店の雰囲気もいい。
「どうでした? 今日見てみて」
「現代っぽさと古い街並みの両方があるのがよかった。歩いて回れる距離感もいいし……あと本当にごはんがおいしいです」
東京育ちの僕にとって、寿司といったら江戸前だ。傲慢を承知で言うならば、魚といえばかつては築地、今は豊洲においしいものが集まるのが当然だと思っていた。実際そういう面はあるだろう。だが北陸で地産の料理を食べてみると、これだけ新鮮でおいしいものが身近にあるのかと衝撃を受けた。
「でっしょー。関東の人は知らないですよね」
君も神奈川出身でしょと思いつつも反論しないでおく。
「二軒目はおでんに行きましょう。これまた金沢名物ですから。私のおすすめは……」
安西さんの背後には大きな窓があり、夜の浅野川が見えた。電灯のぼんやりとした光が反射し、暗闇の中で静かに揺れていた。




