第10話 消した言葉
二軒目のおでん屋からは安西さんの飲み仲間も合流して、さらにわちゃわちゃと酒を酌み交わした。夜風を感じながら片町のホテルまで歩いて帰り、なんとか歯磨きだけしてベッドに倒れ込む。マットレスが体に合っていたのか途中目覚めることなく、8時過ぎまで熟睡した。
窓からの日差しが明るい。まだお酒が少し残っているが、気持ちのいい朝だった。
午前中は金沢21世紀美術館に行くことにして、それ以降は気分で街歩きし、夕方の適当な新幹線で帰ろうと決める。
美術館でレアンドロ・エルリッヒの《スイミング・プール》の底から地上を見上げていると、安西さんからのLINEを着信した。
『昨日はお疲れ様でした! めっちゃ楽しかったですね! 今日なんですが予定決まってます?』
僕はプールから出て館内のベンチに座ると、適当にぶらついて帰るつもりであることを返信した。
『仲間内でゆるくバーベキューやるんですけど、よかったら来ませんか? 金沢駅から車で10分くらいの河川敷です』
『楽しそうだけど、僕が行っていいやつなの?』
『大丈夫です。飛び入り大歓迎って、うちのCEOが』
スマートフォンを取り落としそうになった。そのCEOとは彼女の勤める会社、つまり僕のもとに転職スカウトメールが来ているバイオベンチャーの代表ということではないか。
『安西さんの会社の集まり? さすがに気が引けるよ』
『会社メンバーが中心ですけど、外部の人も来ますし、家族連れもいます。先輩にとっても、ミスマッチを防ぐためにも、事前に社風がわかったほうがよくないですか?』
なかなか大胆な方法だが、確かに一理ある。
『それに今日は、絶好の肉日和です』
その一文のあと、生肉の写真に「チラッ」という明朝体の文字が載った、ずいぶんシュールなスタンプが送られてきた。こんなの、いったいどこで見つけてくるんだろうか。
一度ホテルに戻り、預けていたリュックを引き取った。調べると待ち合わせ場所の「大豆田大橋」はホテルから徒歩30分ほどなので、ペットボトルの水を片手に歩いて行くことにする。橋を渡り、犀川の緑地沿いをひたすら歩く。昨日見た浅野川はしっとりした古都らしい風情だったが、犀川は川幅が広く雄大で、景色も開けている。東京でいうと多摩川に似ているかもしれない。ランニングや犬を散歩させる人たちとすれ違いながら歩いていると、街の一部に溶け込んだ感じがした。
「香田先輩、こっちですー!」
白Tシャツにドジャースのキャップを被った安西さんに手招きされる。緑地にはすでにレジャーシートやカセットコンロ、クーラーボックスが持ち込まれていて、10名くらいの大人に加え、幼稚園から小学生くらいの子どもたちもいた。
「大学のゼミの先輩の、香田隆之介さんです。金沢に旅行に来てるってことで、誘ってみました~」
「突然お邪魔してすみません。よろしくお願いいたします」
メンバーたちに向かって頭を下げると、「どうぞどうぞ」「楽しんでってください」と声をかけられた。20~30代が多いようで、会社の企画というよりは友達の集まりの延長線上という雰囲気だ。
「最初ビールでいいですか?」
安西さんからプレミアムモルツの缶を手渡される。ありがたく頂戴して乾杯した。
「ここまで迷わずに来られました?」と彼女が聞く。
「片町のホテルから歩いて来たよ」
そう答えると、20代くらいの女の子が「歩いて⁉」と驚いた反応をした。
「遠くなかったですか」
「えーと、30分くらいだったと思います」
「地元の人間でその距離を歩いて来る人、なかなかいないですよ。都会の人はよく歩くっていうけど本当なんですね」
別のメガネとヒゲの男性が「帰り、金沢駅ですか? 僕ノンアルなので、車で送りますよ」と申し出てくれる。
「いえ、そんな。タクシーで帰れます」
「このへん、流しのタクシーあんまいないですよ」彼は続けた。「僕も大学が関東だったんで。交通事情、全然違いますよね。僕は中央線で……」
東京の話題が出て、少しほっとする。彼は地元が富山県で、大学進学で上京し東京で就職したあと、この会社に転職して北陸に戻ってきたとのことだった。
「お肉焼けたんで、持って行ってくださ~い」
みんながワッと沸き立ち、コンロのほうへ向かっていく。秋晴れのなか、焼けた肉のいい匂いが漂った。
お客さんだからということで立派なアウトドアチェアに座らせてもらい、バーベキューで焼いた肉や野菜、持ち寄られたおにぎりや惣菜を楽しむ。
話を聞いていると、安西さんの会社のメンバーが半分ほどで、残りはそのパートナーだったり、外部のウェブデザイナーだったり、地元の友達だったりという面子らしかった。僕以外にも初参加の人がいたので、必要以上に注目されないのはありがたかった。
クーラーボックスにおかわりの飲み物を取りに行く。ビールとハイボールの缶を選ぶと、僕はコンロの前で火の番をしている男性に話しかけた。
「お酒、足りてますか? よかったら」
カーキ色のバケットハットを被った彼は、目礼してビールの缶を受け取った。
「わざわざすみません」
「ずっとお肉を焼いていただいて、むしろこっちがすみません」
「炎を見てるのが好きなんです。香田さんでしたっけ? 楽しめてます?」
「はい、おかげさまで」
年齢はたぶん僕と同じくらいだ。空いている隣のチェアを促されたので、並んで飲むことにする。
「金沢、いいところですね」
「いいところですよ。街の規模感がちょうどいいっていうかね。東京に住んでたこともあるんですけど、自分はこのくらいが性に合ってますね。子育てもしやすいし」
目線の先に、フラフープで遊んでいる女の子たちが見えた。彼のお子さんなのかもしれない。
「香田さんはご結婚は?」
「僕はまだ」
「そうですか」
自分ではもう結婚しないだろうと思っているのに、こういうやりとりのとき、条件反射で「まだ」と答えてしまう自分に気づく。
これはいつまで繰り返されるのだろうか。たとえば50代になったら、問われることすらなくなるのだろうか。そんなことをぼんやりと考える。
「ちなみに安西の大学の先輩だそうですけど。付き合ってる、わけではないですよね?」
僕が否定する前に、「矢吹さん、やめてくださいよ~」と大きな声が遮った。気づくと、目の前に安西さんが仁王立ちしていた。
「おふたりが話してると思って来てみたら、なに変なこと言ってるんですか。香田さんはマジでただの先輩です。私はロック様みたいなマッチョが好きなんですから」
安西さんは僕に向かって「ご紹介が遅れましたけど、この人、弊社のCEOです。矢吹さん」と告げた。
「えええ」
ハットを被って、淡々と火の番をする仙人のようなこの男性が、まさか。安西さんに確認する前に、「仁香ちゃーん、こっちで遊ぼ」と子どもの可愛らしい声がして、「はーい」と彼女は行ってしまった。
僕と矢吹CEOが再びふたりきりになる。
「驚きました。会社のホームページで拝見した写真と、雰囲気が違っていて……」
僕が言うと、矢吹さんは「おや?」という顔をした。
「弊社をご存じなんですか」
「安西さんに教えてもらって、その」それ以上取り繕えず、僕は白状した。「僕は香田製薬で知的財産関係の仕事をしています。実は少し前に転職サイトに登録したところ、御社のスカウトメールがきまして」
墓穴を掘ってしまったものの、なんとか誠意を伝えようとする。
「どんな方たちの会社なんだろうと気になって、今日はいい機会だと思って来てしまいました。すみません、スパイみたいなことを」
「なるほど、そうでしたか」
仙人は顔色を変えず、のんびりとした口調で言った。
「どうです? 実際に見て」
僕は正直に答える。
「皆さん、いい方ばかりだと思います。風通しもよさそうだし、僕のやりたい仕事内容とも合っていると感じます」ただ、と続けた。「人生が思わぬ方向に進むのが、怖い気もして」
矢吹さんが急に立ち上がった。落ち着いているがよく響く声で「川べりは行っちゃだめだぞ」と子どもたちに声をかける。彼女らは「ごめんなさーい!」と大きな声で返事をすると、軽やかに走って戻ってきた。
それを見届けたあと、矢吹さんは「ソーセージ、食べます? 地元の老舗のやつです」と紙皿に取ってよこした。一口噛むと、パリッとした皮の中からジューシーな肉汁が滲み出し、うまみが広がる。
「金沢は、奥さんの故郷なんですよ」
おもむろに矢吹さんは語り始めた。
「結婚するまで来たこともなかったし、まさか起業するとも思ってなかった。でも、気づいたら縁や運がつながって、今ここにいます。僕は、ときどき思うんです。人生には抗えない流れみたいなものが確かにあると」
彼の視線の先には、雄大な犀川が広がっていた。
「そこで、流されると捉えるのか、身を委ねると捉えるのか。それは本人次第じゃないですかね」
帰りの「かがやき」には、発車間際に乗り込んだ。座席についてすぐ車体が動き始める。
2列シートの隣の席は東京まで空いているようだったので、駅で買ったお土産の紙袋を置かせてもらった。中にはお茶と和菓子、日本酒、それに加賀麩を使ったフリーズドライのお吸い物が入っている。
ペットボトルのお茶を飲んでひと息ついたあと、僕はLINEを開いた。
『19時半くらいに東京駅に着く新幹線に乗りました。金沢、楽しかったよ。お土産もちゃんと買えました』
ここまで打ったあと、車窓の外に視線をやった。新幹線はあっという間に市街地を離れ、夕陽に染まる田園風景が過ぎ去っていく。その速さに引きずられるように、この旅行での出来事が次々と思い出された。
最後に、矢吹さんの言葉が蘇った。
僕は親指を動かし、1文字ずつ消していく。
『19時半くらいに東京駅に着く新幹線に乗りました』
送信して、画面をオフにする。僕は腕を組み、座席に体を預けて目を閉じた。
帰って紫野に会うのが、少しだけ怖かった。妹のまなざしは、僕自身もはっきり認知できない心の底を、射貫いてしまうんじゃないかという気がした。




