第11話:境界線
15時からの会議のため、私はパソコンを手に第8会議室に向かっていた。課長が先に着いていて、ドアの前で待っている。
「お疲れ様です。まだ入れないですか?」
「前の会議が押してるみたいで……あ、出てきた」
隣の部署が使っていたらしい。数人が「すみません」「お待たせしました」と頭を下げながら会議室から出てきた。その最後尾に、瀧本君がいた。
「お待たせして申し訳ありません」
彼が長身を折って、深々とお辞儀する。頭を上げるとき、一瞬だけ目が合った。
課長が瀧本君の後ろ姿を見ながら「あの子、若いのに優秀なんだって」とささやく。
「そうなんですか」
「こないだ会議で一緒だったんだけど、受け答えがしっかりしてて驚いたよ。課でも有望視されてるみたいで、学部卒だけど、院卒より出世が速いんじゃないかな」
「――だってさ、瀧本君」
その日の夜、居酒屋のカウンターで隣に座る彼に、この会話を教えてみる。箸で焼き鳥を串から外していた瀧本君は、視線と指先を集中させたまま、首だけ横に傾げた。
「自分では、よくわからないです」
謙遜というより、本当にピンときていない、興味がないのが伝わってきた。こんな若者は、そりゃ上司からも一目置かれるだろう。
8月の誕生日の夜に偶然飲んでから、一緒に食事をするのはこれで3回目だった。課長が瀧本君について教えてくれたことよりも多くのことを、私はもう知っていた。たとえば、新潟県出身で信濃川沿いで育ったこと。弟がひとりいること。実家でシーズーを飼っていること。茨城県にある国立大学に進学したこと。帰省するときは東京駅からではなく、赤羽から埼京線に乗って大宮に出て、そこから上越新幹線に乗ること。
瀧本君は「どうぞ」と言いながら、綺麗に串から外したハツとぼんじりの皿を差し出した。
「こんなことしなくていいよ。普通に串から食べられる」
「入社したときに先輩に教わりました。若いうちは会社の飲み会でまず串外し係をやれって」
「そう。これは会社の飲み会なの?」
少し意地悪な質問をすると、瀧本君は私の目をじっと見たあと、「飲み会じゃないです。俺は、デートだと思いたいです。でもそう言ったら、三崎さんはもう飲んでくれないかもしれないから」と訴えた。
返事をする代わりにハイボールに口をつける。内心、すごいなと思っていた。私の意志を理解し尊重しながら、それでも好意を伝えてくることを恐れていない。受け取る私の気恥ずかしさを除けば、彼の答えは100点に近かった。
「今日、会議室の前で会えて、嬉しかったです。無視されたけど」
「無視はしてない」私は反論する。「一瞬、目だけ合ったでしょ」
「それを無視っていうんじゃないですか」
淡々とした口調は、責めているというよりぼやいているようで、私は思わず笑ってしまう。
銀杏の串と椎茸の串が運ばれてきた。秋も角を曲がり、夜の訪れがどんどん早くなる。明るい店内で湯気の立つ食べ物を前にしていれば、それを少しだけ忘れられる。
「三崎さんは、休みの日は何をしてるんですか」
相変わらずぱくぱくとよく食べながら、瀧本君が尋ねた。
「家事したり、映画見たりとか。友だちとごはんに行くこともあるけど、前より頻度は減ったかな」
「なんでですか」
「36歳って、だいたい結婚して小さい子どもがいる齢だからね。お互い気軽に誘いづらいし、仕方ないよ」
特にコロナ禍以降、ステイホームが浸透してから、その傾向は強くなった。独身だけの集まりもあるけど、やはり前よりは減っている。時代と自分の年代、両方が理由にあると思う。
「三崎さんは結婚とか考えないんですか」
「前も言ったでしょ。結婚願望ないし、そもそも誰とも付き合う気ない」
瀧本君は少し考えたあと、「三崎さんは自立してて、かっこいいですね」と自分を納得させるようにつぶやいた。
「逆じゃないかな」
「え?」
彼が目をこらす。
「むしろ自立できてないから」
どうしてこんなことを明かしているんだろうと、言いながら思った。
「自分自身の家族が未完成なのに、新しく家族をつくるなんて、ちょっと考えられない」
彼のほうではなく、カウンターの向こう側の虚空を私は見つめていた。
顔も知らない父親、早くに亡くなった母親、私を置いて去った姉。もはや、家族と呼ぶにはあまりにも儚くておぼろげな欠片たち。
15歳以降の20年間あまり、私の家族は兄だけだった。そしてまさに今、その兄さえも、遠いところへ行ってしまうかもしれない。
瀧本君が唐突にスマホを取り出し、何かのページを検索し始める。表示された画面を私に向けた。
「今度の土曜、ここ行こうと思ってるんです」
上野にある博物館の公式サイトには、『関東大震災100年企画展「震災からのあゆみ ー未来へつなげる科学技術ー」』というタイトルが掲げられている。
「これ、私も気になってたやつ」
展示されている防災・減災技術、ライフラインへの対策は、会社の仕事と切っても切り離せない。わが社が直接かかわる企画ではなかったが、勉強のためにも見ておきたいと思っていた。
「一緒に行きませんか」
「休みの日に、ふたりで?」
「仕事の一環です。デートじゃないです」
迷っていると、瀧本君が続けた。
「……さっきの家族の話は、突っ込んで聞いたらダメなやつですよね。俺も、そのくらいはわかるようになってきました」
今度は私が彼をじっと見た。瀧本君は笑って言った。
「俺は暇なんで、いつでも都合よく呼び出してくださいよ」
8歳も下の男の子に気を遣われている。申し訳ないと同時に、じわじわと沁み入るものがあった。
その言葉に、少し甘えてもいいのだろうか。
翌週の土曜、博物館を出た私たちは、上野公園を歩いていた。
「見ごたえありましたね。関東大震災のデータがあんなに残っているなんて」
「隅田川の橋がほとんど燃え落ちたって知らなかった。模型すごかったね」
「地震の計測器もやばかったですね。コンセント差し込み式であれだけ小型になっているとは……」
関東大震災からの復興の街づくりや、この100年間の地震・防災研究の進化についての展示は、やはり見に来てよかったと思える内容だった。館内では距離を保って静かにしていたので、反動で話したいことが次々に出てくる。
あたり一帯は「上野の森」と呼ばれるだけあって、緑豊かな景色が広がっている。10月の午後は、人出の賑わいと、穏やかな空気に満ちていた。
上野駅が見えてくる。瀧本君がちらと私の横顔を見る気配がした。このまま帰るのか?と問われているのだろう。
「もう少し、感想をまとめたいよね」
駅のスターバックスを指さし、私はなんてことないように言った。
「コーヒーでも買って、歩きながら話そうか」
彼が大きく頷く。
瀧本君は黒の長袖Tシャツにカーゴパンツ、ハイテクスニーカーというラフな格好で、平日のスーツ姿とはまた違う若さに満ちていた。日中こうして並んで歩いていると、改めて背の高さを感じる。私も身長が低い方ではないが、20cm近く大きいだろう。そんな彼はこちらの声を聞き逃さないように、背をかがめながら、ペースを合わせて歩いてくれる。
不忍池の淵をぐるりと巡り、ベンチに座って、コーヒーを飲んで、また歩く。
「瀧本君は、3.11のときってどこにいたの?」
「中学の卒業式の日だったんですよ。教室に残って仲間とだらだらしてたら、グラッと来て」
「うそ、私もう働いてたよ。社会人1年目だった」
思わずぎょっとする。8歳下ということはわかっていたけど、急にリアリティある数字に感じられた。
「でも今は、同じ職場だからいいじゃないですか」
「まあ、そうだけど」
中学3年生の男の子を想像してみようとするが、本当に子どもだ。
「当時会ってなくてよかったよーー」
言いかけて、私は立ち止まった。8歳の年齢差。23歳と15歳。なぜ、その感覚を忘れていたのか。
私と兄も8学年離れている。姉がいなくなったのもまた、私が高校に上がる15歳の春だった。兄は社会人1年目を終えようとする23歳だった。
私はおかっぱ頭で、黒いセーラー服を着ていた。小銭を握りしめて電車を乗り継ぎ、兄が働く日本橋のオフィスビルに行って、姉の失踪を告げた。女子中学生とスーツの若者という奇異な組み合わせを、行き交う大人たちが見ていた。そして3月の末、兄に手を引かれて私は小さな町を出た。
「三崎さん、大丈夫ですか?」
瀧本君の声にハッとする。
「疲れました?」
「大丈夫。ぼうっとしてただけ」
「荷物持ちます」
有無を言わさず、瀧本君が私のバッグを手に取った。何事もなかったように、私たちは散歩を再開する。
「あそこの鯛焼き屋、寄ってもいいですか」
「うん、おいしそうだね」
歩きながら、私は兄の母の言葉を思い出していた。
『立派な大人の女性になられたと思っていますよ』
それは、彼女が、外から見ているから言えることだ。
私が子どもだったことを誰よりも知っているのは私だ。そして、兄だ。
何年経とうが、少女は妹以外になりようがない。
たっぷりと寄り道をして、本来なら30~40分で着くところを1時間半かけて歩いた結果、私の最寄り駅に着くころにはすっかり日が暮れていた。
「じゃあ、お疲れ様」
彼が持つバッグに手を伸ばそうとすると、瀧本君は一歩下がった。
「家の前まで送らせてください」
「いいよここで」
「でも、もう暗いし」
彼は横断歩道の反対側を見て言う。
「あの道を上がって行くんですよね?」
「やめて」
思わず強い声が出た。
瀧本君が驚いた表情をして、「すみません」とこぼした。
「もうちょっと、一緒にいたくて。それだけです」
遠慮めいた手つきで、彼がバッグを私に返した。私はまばたきをして、表情を平らにする。しりぞけようとした本当の理由を、けっして悟られないように。
「今日はありがとう。今度は、君の住むエリアに行くよ。赤羽で、早い時間から飲もうか」
彼はいい子だ。正直なところ、好ましいとも思っている。でも、ここから先には絶対に踏み込ませたくなかった。
見えない境界線の向こうは、私の一番やわらかい場所だから。
「それって」
半信半疑といった瀧本君が訊き終わる前に、私は答えた。
「デート、かもしれないね」




