第12話:不在の夜
11月のその土曜日、関東地方に雨の予報が出ていた。
私はリビングのソファに座っていた。テレビの中の気象予報士が、夜から大雨になると伝えている。
旅支度をして、リュックを持った兄が、ばたばたと入ってくる気配がした。
「うわあ。雨、すごそうだね」
「北陸のほうは大丈夫みたい。関東だけ大雨」
「じゃあ、傘は持っていかなくてもいいか」
彼はこの週末、転職の面談のために再び金沢に赴く。前回の金沢旅行で、意中の会社のCEOに会って感化されたらしく、思い出したように何度か「仙人みたいな雰囲気の人でね……」と感想を漏らしていた。それは片思いではなかったようで、安西さんという後輩の人経由で改めてオファーがあったらしい。
兄は「まだ何も決まってないよ、会って話すだけ」と説明したが、交通費持ちで呼び出すということは、先方は本気なのだろう。しかも土日だ。私の勤める会社では休日に人事が稼働するなんてありえないけど、ベンチャー企業は違うのかもしれない。
兄も水色のシャツにジャケット、グレーのスラックスと、前回の旅行よりきちんとした格好をしていた。
「行く前にお水、あげないと」
彼は荷物を置くと、キッチンでグラスに水を注ぎ、壁際の胡蝶蘭へと向かった。私の誕生日にやってきた鉢植えは、だいぶ花を減らしたものの、まだ健気に咲いている。
兄が水をやりながら、「ちょっと多かったかな」などと花に向かって喋っている後ろ姿を眺めた。
「お兄さん。襟のうしろのとこ、裏返ってる」
「え、本当?」
兄の左手が不器用に首回りを探るが、あさっての方向だった。私は立ち上がって、傍に寄る。襟を正してやり、生地を伸ばすように両手で肩に触った。ジャケット越しなのに、体温に触れる感覚があった。
「はい、大丈夫」
「ありがとう。じゃあ、行ってくるね」
部屋を出て行こうとした兄が、思い出したように訊く。
「紫野ちゃんは、今日どうするの?」
不意打ちの質問に内心ひやりとした。
「午後から、ちょっと約束があって」
好意を寄せてくれている異性の後輩と、向こうのテリトリーで一緒に飲む。そんなことはおくびにも出さずに答えた。
「そうか。雨に気をつけてね」
曇天の東京を離れて、晴れている土地に向かう男が言った。
赤羽岩淵駅の出口まで迎えに来てくれた瀧本君は、やや緊張した面持ちだった。
「お疲れ様です……じゃないか。こんにちは、ようこそ」
「こんにちは。今日はよろしく」
彼は私が提げていたナイロン素材のトートバッグを自然な動作で受け取り、代わりに持ってくれる。
赤羽は噂通り、昼から開いている飲み屋が連なっていた。雨の予報が出ているにもかかわらず、お店の中や外の路地で、たくさんの人が飲んでいる。私たちは、瀧本君が「魚がおいしいらしいです」と調べておいてくれたカジュアルなお店に入った。後ろの席の人と背中が当たりそうな距離感に、小さなテーブルに所狭しと並べられるマグロのカマの塩焼き、栃尾揚げ、焼き野菜。冷えていた体が温まり、弛緩していく。
「おいしいね」
「うまいです」
がやがやとした店内では、おのずと顔が近づき、声も大きくなった。お酒を飲みながら、なんでもないことを話していると、余計なことを考えなくて済む。
話題が家事に及んだ。雨のせいで洗濯物が乾きにくいと、瀧本君が愚痴をこぼす。
「三崎さんは、今、洗濯ってどうしてるんですか」
「ドラム式洗濯機を使ってるよ。朝、出かける前に回して、夜に回収してる」
そう答えても、瀧本君はすっきりしない顔をしている。
「聞きたいのは、洗剤とか柔軟剤の話?」
「そうじゃなくて。お兄さん、の洗濯物も一緒に洗っているんですか?」
見つめ返すと、彼は「すみません。異性の兄妹で同居するって、どういう感じなのか想像できなくて。俺、弟しかいないし」と言った。
私は熱燗に口をつける。ふわりとアルコールの蒸気が鼻に入る。おそらく日常で手に入るなかで、麻酔に近い効果があるもの。
「100円ショップに、特大サイズの洗濯ネットが売ってるの。それを2枚買っていて、お互いの衣類はそれに入れる。洗濯乾燥が終わったら各自で仕分ける。それだけだよ」
「なるほど。合理的ですね」
「大人同士だからね。互いに干渉しないし、さっぱりしてるよ」
トイレだって1階と2階を使い分けているし、互いの部屋には立ち入らない。食事も別々のほうが多い。基本的な家事は私が担うことが多いけど、別に苦ではないし、昔からやってきた。そもそも格安の家賃で住まわせてもらっているのだ。そのくらい、なんでもない。
そうやって、生活がなるべく絡まらないようにしてきた。大人ふたりが居を一緒にしているだけ。当然、兄の転職話にも干渉したりしない。
この生活がいつ終わってもいいように。そのとき、何も感じないように。
なのに20年の時が経ち、家はいつしか古びている。そっと歩いているつもりなのに、床が軋んだ音を立ててしまう。
最初の店を出た次は、立ち飲み専門のおでん屋へ行った。初めてのお店、初めての飲み方。制約があるほうが、お酒もごはんもおいしく感じられるのは不思議だ。
「そろそろ降りそうですね」
2軒目を出て歩きながら、瀧本君が空を見上げた。
大雨の天気予報に刻一刻と近づいていた。分厚い雲が空を覆い、夕日も見えない。今にも泣きだしそうな、グレーの世界。
「川のほうに行きたい」
私は駅と反対方向を指さした。
スマートフォンの地図で、そこに隅田川が流れていることを知っていた。
「綺麗な川じゃないですよ、緑地もあんまりないし。それに、もうすぐ雨が」
「うん。だから見たい」
「台風のときに田んぼを見に行く老人ですか」
瀧本君は笑ったが、私は真面目だった。
「天気が悪い日の大きな川って、色も音も独特じゃない。人間が太刀打ちできない怖さがあるっていうか……。だから、今日行きたい」
「わかりました。駅から離れるけど、いいんですね」
瀧本君が念押しする。私は頷いた。
彼の言ったとおり、このあたりの川沿いは、明媚な景色とは言い難かった。工場や倉庫が立ち並び、アスファルトの護岸が続く。この天気だからひとけもない。それでも、私が見たかった風景だった。
ほとんど言葉も交わさず、ただ川を見ながら歩いた。行けば行くほど、心の中に水が入ってくるようだった。
大きな橋にたどり着いた。真ん中で立ち止まり、欄干に手を置いた。淀んだ重たい川を、改めて眺める。
「ありがとうね、付き合ってくれて。満足した」
「変わってますね、こんな景色が見たいなんて」
「懐かしくて」
私は告白した。
「15歳まで荒川沿いに住んでたの。海抜より低い土地でね、台風のときなんか、家にいても川が増水する気配があって、怖いと同時に、なんともいえない高揚感があった」
嵐が来ると、貧相な木造アパートはガタガタと震え、今にも吹き飛ばされそうだった。湿気がすごかった。雨漏りだって何度も経験した。
高台の安定した土地に住んでいる人たちには、きっと想像もできない。
瀧本君の耳元に打ち明ける。
「本来の私は、こっち側の人間なんだ」
そのとき、バンと大きな風が吹いた。次の瞬間、雨粒が頬に落ちたかと思うと、すさまじい勢いで雨が降り始める。
お互いあわてて傘を差すが手遅れで、髪の毛も服もずぶ濡れになってしまった。
「ごめん、私が我儘言ったせいだね。早く戻ろう」
駅のほうへ続く道を行こうとした私の腕を、瀧本君の冷えた手がつかんだ。
「俺も、我儘言っていいですか」
ビニール傘から水がしたたって止まらない。ぼやけた視界の先から、彼の声がする。
「俺の家、ここからすぐです。うちで雨宿りしてください」
雨音は激しいのに、一言一句がはっきりと聞こえた。
「そんなびしょ濡れで、帰したくない」
瀧本君がひとり暮らしをしている部屋は、3階建ての小さなマンションの一室だった。一口コンロのキッチン、デスク、ベッド。部屋干しされた衣類、床に段ボールのまま置かれたペットボトルの定期便。それらをぼんやりと眺めながら、手渡されたスポーツタオルで体を拭く。ハイネックのニットもワイドパンツも、そして靴下まで、しとどに濡れていた。
暖房のスイッチを入れた瀧本君が、リモコンを片手に、なぜかうろたえた顔でこちらを見ている。
「……どうしたの」
「この家に三崎さんがいるのが現実だと思えなくて」
なにそれ、と私は言った。
「寒いね。お湯、沸かしてもいい?」
「俺やります」
台所に立つ瀧本君がくしゃみをした。大きな体に似合わない、小動物のようなくしゃみだった。
私は横に立ち、「ごめんね。すぐ帰るから」とタオルを渡そうとした。
それを受け取る代わりに、彼が私を抱きしめる。濡れた服と服が密着して、冷たいのに生暖かかった。
「帰らないで。雨が上がるまで、いてください」
電気ケトルの中で、水が音を立てて沸騰していく。
抱きしめられながら、今誰もいないまま、同じように雨に打たれているだろう白い家のことを思った。今夜、きっと雨はやまない。
保護者がいないから外泊するなんて高校生以下だ。
床にタオルが落ちる。瀧本君の顔が近づいた。私は目を閉じて唇を開き、口づけを受け入れた。




