第13話 反転
旧型の暖房はなかなか温かくならなくて、雨が降りしきるマンションは、部屋全体が濡れているみたいだった。暗いなか、ベッドのシーツを波打たせるふたつの体だけが、発火するみたいに熱い。
瀧本君の肌は若々しさに満ちていて、それでいて手つきは何かの鑑定士のように丁重だった。
触れられて思わず吐息を漏らすと、「声、隠さないで」と耳元でささやかれる。それは甘いいざないというより、懇願に似ていた。
「綺麗です」
見えない川が増水していく気配がする。今にも流されるんじゃないかという恐怖と高揚。
「好きです、三崎さん」
「瀧本君」
「好きです」
流されたほうがいっそ楽だ。
明け方に目を覚ますと、まだ降っているとはいえ、雨脚はだいぶ弱くなっていた。
見慣れない天井をしばらく眺めてから、眠っている彼を起こさないようにベッドから出た。財布と携帯電話だけ持って、コンビニに行く。
昨晩はあのあと、それぞれにシャワーを浴び、私は彼のスウェットの上下を借りて着た。サイズが大きくて、袖も裾も折り返さないとぶかぶかだった。ケトルでお湯を沸かし直し、買い置きしてあったインスタントのカップうどんを食べた。テレビがないのでタブレットで配信ドラマを流し、適当なところで切り上げて寝た。
コンビニで朝食の材料や簡易な化粧品を買って戻ってくると、ベッドの上で体を起こしている瀧本君と目が合う。
「どこに行ってたんですか」
「ちょっと、コンビニに」
彼は安堵したように「焦った。帰っちゃったのかと」とため息をついた。
「服もバッグも置いてるし、まだ帰らないよ」
軽い口調で返したが、彼はベッドから降りて、私を強く抱きしめる。
「なんなら、夢だったのかと思った」
ためらいがちに、耳や首筋にキスが落ちた。しかし次第に左手が私の腰に、右手がトップスの裾から内側に侵入する。
私は両手で彼の胸板を押した。
「昨日ので、疲れてるから」
瀧本君は電流が走ったように姿勢を正し、「すみません、つい……」と謝った。
彼の背中をポンと叩く。
「朝早いから、まだ寝てていいよ。私も炊飯器をセットしたら、そっち行くから」
彼は大人しくそれに従った。冷蔵庫の野菜室に、コシヒカリが袋ごと保存されている。2合分を計ってザルに移した。白い粒がさらさらと流れる。私はそれを、入念すぎるほど時間をかけて洗った。
8時過ぎに改めて起きて、朝食をとる。白ごはんに、コンビニの焼き鮭、卵焼き、フリーズドライのみそ汁にわかめを追加したもの。
「三崎さん、料理も上手なんですね」
「やめてよ、ほとんど買ってきたものだよ。瀧本君だって、それなりに自炊してるでしょ」
卵と乾燥わかめは、もともとこの家にあったものだった。
「俺はとにかく米を炊いて、あとは適当にあるものを食ってるだけなんで」
「このごはん、おいしいもんね。新潟県産って袋に書いてあった」
瀧本君は少しはにかんで、「親が送ってくれるんです。米だけは地元のやつ以外ダメだって」と笑った。
胸が痛んだ。大事に育てられた青年のために、ご両親が送ってくれたおいしいお米。これを食べる資格は、私にあるだろうか。
食事が終わって、食器を洗って片づける。乾ききっていない洋服に着替え、借りていたスウェットを洗濯機に入れる。使わせてもらったどこかのホテルのアメニティの歯ブラシは、袋に戻して、自分のトートバッグの奥にそっと入れた。
ひとつずつ、私の痕跡を消していく。
すべての身支度を終えて、「そろそろ、帰るね」と告げた。ベッドに腰かけてスマホを触っていた瀧本君が反射的に顔を上げた。
「もう少し、ゆっくりしていっても」
「大丈夫だとは思うけど、雨で家の様子が気になるから」
「お兄さんがいるんじゃないんですか?」
瀧本君が至極自然な疑問を口にした。
「兄は……昨日から旅行に行ってるんだ」
帰宅する口実にしたつもりが、余計な情報を喋ってしまった。やっぱりこれ以上長居するべきではない。
「そうなんですね、わかりました」
名残惜しそうな顔をして、彼はベッドから立ち上がった。
「次はいつ来てくれますか」
昨晩からずっと決めていた言葉を、私は言った。
「ここにはもう来ない」
真顔でいられなくて、全然楽しくも面白くもないのに、口角が上がっていたと思う。
「もう会社以外では会わない」
一方で瀧本君は、眉間を撃たれたような表情で立っている。
「朝、無理やりしようとしたからですか」
「それは違う。断ったら、ちゃんとやめてくれたし」
「じゃあ、なんで――」
彼は言葉を切り、目線を泳がせた。しばらく漂わせて、再び正面に戻ってくる。
「三崎さんが誰とも付き合わない主義って、わかってます。でも、泊まってくれてすげえ嬉しかった。やっぱり俺は三崎さんが好きです。あなたと真剣に付き合いたい」
私はため息をついた。呆れたわけじゃなく、本当に困っていた。でもそれを悟られるのはもっと困る。だからあえて軽く言ったつもりだった。
「一回寝たくらいで付き合う付き合わないとか、子どもじゃないんだから……」
「子どもなのは、そっちでしょう!」
思わぬ剣幕に、体が凍った。瀧本君は怒りを隠さなかった。
「大人としてちゃんと向き合ってください。少なくとも俺は、そのつもりで言ってます」
私は何も答えられない。瀧本君も黙っていた。しばらくして、根負けしたのは彼だった。
「……こんなこと、言いたくなかったけど」
彼の目の奥に、鈍い光が灯る。怒りや苦痛をにじませながら、それ以上に、真実を掘り当てようとする瞳だった。
その先を聞きたくない。
でも言葉の斧は、もう振りかぶっている。
「好きな人がいるんじゃないですか」
それは重く低く私の心臓を貫いた。
体だけじゃなく、時間まで凍ったみたいだった。心臓から血が溢れ出るのに、端から凍って、身動きが取れない。
「違う」
やっとの思いで発した言葉は、霜がついたようにギザギザに凍っていただろう。
「嘘だ」
逆に瀧本君の言葉は、どんどん熱を帯びていく。
「セックスの最中から感じてました。いや、もっと前か。三崎さんの心には入れない部分があって、そこには誰か別の人がいるんだって」
彼は言葉を区切った。下を向いて顔に手を添える。喉から、はは、と乾いた空気が漏れた。
「確かに俺は、都合よく呼び出してくれって言いました」
でもそれは、と彼は続けた。語尾はほとんど震えていた。
「ヤリ捨てられて傷つかないって意味じゃないですよ……」
本当に何も言えなかった。何を言っても無意味で、無力で、虚無でしかない。誠意を示すためには、彼の目の前で、今すぐ八つ裂きで死ぬほうがいい。でもそれができない以上、私の罪悪感は何にもならない。
床に置かれていた鞄を掴み、玄関へ向かった。まだ濡れているローファーに足先を突っ込んだ。
ここが狭い1Kのマンションでよかった。それ以上ならきっと逃げきれなかった。
「本当にごめん」
「待ってください、三崎さん」
玄関ドアの鍵をひねる。
「全部忘れて」
彼の表情を見る前に、私は閉まるドアを背にした。
呼ぶ声がさらに聞こえた気がしたが、振り切るように速足で歩き続けた。角を曲がり、一方通行の道を過ぎ、ようやく地下鉄の駅がある大きな道路に出る。
豪雨のあとの日曜朝は人通りが絶えていて、車だけが音を立てて行き交っていた。それでもファミリーレストランやファストフード店が目に入ると、ほっとする。
牛丼屋から人が出てきて、傘を開いた。そのとき、ようやく気づいた。まだ雨は降っているのに、私は傘を差していない。ビニール傘をあの家に忘れた。雨に打たれていることにすら気づいていなかった。
今更、取りに戻れるわけがない。彼が捨ててくれることを祈るしかなかった。
地下鉄駅の階段を一歩降りるごとに、雫が前髪をつたい、肌をたどっていく。
取り返しのつかないことをしたのはわかっていた。求めてくれた人を利用して、傷つけて、突き落とした。私は最低最悪な人間だ。
でも、どう繕っても、これからも瀧本君と会えるわけがない。平気な顔をして触れ合えるわけがない。
なぜならわかってしまったから。
ホームには古い車体の地下鉄が停まっていた。車両は空いていた。私は座らず、ドア横のポールを握りしめる。そうしないと立っていられないと思った。扉が閉まり、電車が動き出す。
あのとき暗がりの中で、体の湿った部分を開かれながら、私は確かに考えていた。
兄だったら、どんなふうに触れるんだろうかと。
電車は外界から切り離された深い地下の線路を走る。蛍光灯がガラス越しに、私の顔を照らした。窓に映った私は、亡霊のように虚ろな目をしていた。




