第8話 この夜の紫
このあたりで飲み屋が集まるエリアといえば、JR有楽町駅と新橋駅を繋ぐ高架下から新橋駅周辺だ。しかしそのぶん、会社の人との遭遇リスクも高くなる。ただでさえ背が高くて目立つ若者を連れて歩きながら、どの店に入るべきか、私は脳内で必死に最適解を考えていた。
新橋側へ行く大通りの手前で、細い路地に気づく。今日の昼間、村林が教えてくれた和食屋からちょうど人が出てくるところだった。「ここでいい?」と私が振り向くと、瀧本侑司は真顔のまま大きく頷いた。
カウンター席についてとりあえず生ビール2つを頼んだ。ビールとともに運ばれてきたお通しは、いくらが乗ったポテサラ、いちじくの白和え、枝豆の花椒ダレ漬けの3種盛りだった。村林の言う通り、確かにおしゃれな店だ。
「お疲れ様」
言いたいことがあるのに、グラスを合わせて乾杯するまで待ってしまうのは、サラリーマンの悲しい習性かもしれない。ビールを一口飲んで、私はようやく本題に踏み込んだ。
「まず断っておくけど、私は独身だよ。君の想像は誤解です」
瀧本君は、一拍置いて「え、そうなんですね。そうなんだ」となかば独り言のように言った。
「なんで、その……“夫”と買い物してるだなんて思ったの?」
「遠目だったけど、そういうふうに見えて。相手の人がトイレットペーパーとか持ってたし、これから仲良く家に帰るんだろうなって感じが出てたから」彼ははたと気づいた顔をした。「旦那さんじゃないなら、同棲してる彼氏さんですか?」
私は額に手をやった。この誤解、どこまでさかのぼってほどくべきなのか。
「違う、彼氏でもない」
黒目がちな目で見つめられる。ミレニアル世代なのか何なのかわからないけど、こちらの「これ以上聞くのは失礼でしょう」という感覚はきっと通用しないのだろう。
「会社の誰にも言ってほしくないんだけど、特別に教える」私は腹をくくった。「あの人は、私の兄」
「お兄さん、ですか」
彼は狐につままれたような表情をしていた。
「そう、きょうだいで一緒に暮らしているだけ。結婚とか同棲とかそういうんじゃないの」
適当に頼んでおいた刺身盛、タコの唐揚げ、塩レモントマトがやってきた。勧めると、おなかがすいていたのか勢いよく食べ始める。
「うまいです」
「それならよかった」
若い子がどんどん食べる姿を見ていると、私も空腹を感じた。少しほっとしたからかもしれない。お通しに箸をつけた。特に白和えがおいしくて、今度家でもつくってみようかなと考える。兄はいちじくが好きだから。
私は目を伏せた。
ああ、また兄のことを考えている。
「でもなんで、お兄さんと住んでることを話しちゃダメなんですか?」
瀧本君が、やっぱり納得がいかないという目で私を見つめていた。
「……結構しつこいね、君」
「すみません。課長にもよく言われます。わかんないとこそのままにしておけなくて」
「瀧本君、理系?」
「はい、分子工学専攻です」
仕事において、しつこいのは一般的にいいことだ。おそらく課長は褒める意味で言ったのだろう。そのニュアンスを彼が把握していなさそうなのが、なんだかおかしかった。
「兄と私、名字が違うの。ややこしいから会社には届け出ず、一人暮らしってことにしてる」
「なんで名字が違うんですか?」
「血がつながってないから」
瀧本君が、私を見つめたまま静止した。機械が情報処理しているときのような間だった。
「連れ子同士、的な?」
「ちょっと違うけど、まあそんな感じ」
私と兄の関係を、ここまでつまびらかにすることは滅多にない。なのに話してしまったのは、瀧本君があまりにもまっすぐに疑問を投げてくるから、というのはある。でもそれだけじゃない。
「大人になっても同居するって、仲いいんですね」
多分私は、誰かに話したかった。こんなに複雑で、唯一の、ありえないバランスで成立している世界が、あの家に存在しているんだということを。
「うん、大切な兄なの」
もしかしたら、いずれ失われてしまうとしても。
私は店員を呼び、クラフトジンソーダを注文した。ついでに主に瀧本君用に、だし巻き卵と蟹クリームコロッケを頼んだ。
瀧本君は追加の料理に加えて、〆の鯛茶漬けとデザートの抹茶アイスまで、見事に完食した。私はそのおこぼれをつまみながら、日本酒を2合飲んだ。
トイレに立ったついでに支払いを済ませる。戻ってきて「出よっか」と声をかけると、彼は会計札が置かれていたはずの場所を見て、それがなくなっているのに気づいたようだった。
「いくらでしたか。半分出します」
「いらないよ」
「自分が誘ったので」
「8歳も下の子に払ってもらうわけにいかない」
昼間、村林とやったようなことを、逆の立場で再現してしまっている。
「でも奢られっぱなしなのは……」瀧本君が、視線だけを動かした。考えているときの癖のようだ。「誕生日、教えてください。そのときお返しします」
「しばらく来ないよ。誕生日、今日だから」
軽い口調で伝えたつもりだったが、瀧本君はそれこそ故障したかのように固まった。やがて、口元を手で押さえる。
「それは、ちょっと」
36歳の女の誕生日に居合わせることになったのは、さすがに重すぎただろうか。このご時世、パワハラもしくはセクハラと捉えられるリスクだってある。正直に言うべきじゃなかった、そう思ったときだった。
「嬉しすぎます」
予想外の返事が飛んできた。
「だって三崎さん、独身で彼氏もいなくて、誕生日に俺と過ごしてくれたってことですよね」
それほど飲んでいない頬が赤く染まっていた。「マジか。やばいな。やば……」と、狼狽しながら喜んでいる。
こんなにストレートな好意を伝えられるのが気恥ずかしいと同時に、眩しくもあった。瀧本君は、背中をゴムみたいにぴんと伸ばした。
「来年と言わず、来月、また一緒に飲んでください。ダメですか?」
眩しいものを見つめている間は、暗闇を追いやれるかもしれない。
自分でも不思議なことに、「いいよ」と私は答えていた。
内幸町駅で瀧本君を見送り、あえて一本うしろの電車に乗った。バスの終電が終わっているので、最寄駅からは徒歩で帰る。他人と密に会話したことによる昂ぶりが、一歩行くごとに落ち着いていく。お酒は残っているけど頭はそれなりに澄んでいる状態で、玄関を開けた。
1階からテレビの音がする。兄と話すことをシミュレーションしながら部屋に入った私の目にまず止まったのは、ダイニングテーブルに置かれた、小さな胡蝶蘭の鉢だった。弾力のある茎の先端に、紫色の蝶みたいな花びらが連なっている。
次に兄を見つけた。彼はソファに上半身を横たえて、すやすやと眠っていた。
テレビのリモコンを取り、電源を切った。途端に静寂が訪れる。私はソファの横の床に体育座りした。ちょうど目の前に兄の寝顔が見える場所に。
いつかもこんなことがあった。
兄は眠っていた。人の好さそうなやわらかい頬、口角の上がった薄いくちびる。その造形自体は出会った頃と変わらないが、肌質や首元の皺には確実に年齢が表れていた。改めて見ると、白髪も結構ある。ついでに時々いびきもかいている。
触れそうで触れない距離で、そんな兄を見ていた。
「お兄さん、起きて。風邪引くよ」
トン、と一度だけ兄の肩を叩いて、私は立ち上がる。
「んん?」と眉根を寄せた兄が目を開き、のっそりと体を起こした。
「わー、ごめん、寝落ちしてた。今何時?」
「23時半」
「そっかそっか。お帰り」
「ただいま。起きて早々だけど、あれどうしたの?」
私は胡蝶蘭を指さした。
「君へのプレゼント。綺麗でしょ」
「綺麗だけど、普通選ぶ? 開店祝いじゃないんだから」
この鉢を抱えて運んでいるところを想像すると、ちょっと笑える。兄も笑いながら、ダイニングテーブルに回り込む。
「僕も最初は花束でも買おうかと思ってたんだけど、花屋で見て、これだ!と思って」
彼は胡蝶蘭の鉢にそっと手を添え、花を見て微笑んだ。
「紫色で、凛と可愛くて、紫野ちゃんって感じだよ」
私は一瞬、言葉を失ってしまう。
「お店の人に聞いたら、胡蝶蘭って、長くもつんだって。ちゃんと世話したら来年も花が咲くみたいだよ。そういうの、いいなあと思って」
兄が「あ、買ってきた責任で、僕が水やりするからね」と付け加えた。
視線が胡蝶蘭に引き寄せられる。淡い紫の花びらたちは、静かにそこに咲いていて、同時に飛び立つ寸前のようにも見える。
この家に確かに存在している私の世界。
ねえお兄さん。私はギリギリまであなたの妹でいるよ。
「誕生日おめでとう」
年に一度の日が過ぎ去ろうとする最後のタイミングに、祝福の言葉が降った。
この夜の紫色を、私はずっと忘れないだろう。




