第7話 帰れない誕生日
私が勤めるオフィスは東京都千代田区内幸町にある。銀座と日比谷公園に挟まれた立地で、すぐ裏手に帝国ホテルが鎮座する。JFEスチール、富国生命、双日といった大企業の本社も立ち並び、日本有数のオフィス街のひとつといっていいだろう。
普段は整然としたエリアだが、東日本大震災のあとはずいぶん長いあいだ大規模な原発反対デモが繰り広げられ、機動隊が配置され物々しい雰囲気だった。当時私は横浜支社にいたので現場を目撃したわけではないが、テレビのニュースをつければ否が応でも目に入ってきたし、社内グループウェアでも十二分に共有されていた。それこそ、離れて暮らす兄から「大丈夫!?」としょっちゅうメールがきていたものだ。
最近ではデモの頻度もだいぶ減ったものの、原発に関する動きがあるたびに、会社の外から抗議の声が聞こえてくる。中で働く人たちは、すっかり聞き慣れたという感じで、特に言及したりはしない。でも完全に無視しているわけでもない。そんなに無神経でいられる人はきっと逆に残っていない。
私たちは聞いている。彼らの言い分も理解できる。同時に仕事をしている。電力を安定供給し続けるという仕事を。
明日、福島第一原子力発電所にたまるALPS処理水の海洋放出が開始される。また怒りの声が地鳴りのように響いてくるだろう。
水曜日、12時、昼休み。会社を出て新橋方面に歩いていると、背後から「三崎さん!」と呼ぶ声がした。
振り返る。目と目が離れたタレ目、浅黒い肌、パクパクとよく動く口。新卒入社当時、「綺麗なナマズ」と評した同期の男がそこにいた。
「村林君」
「久しぶりじゃん! 今年から本店に戻ってきたんでしょ? 人事ニュースで見たよ。やっと会えた」
かつて一緒に新人研修のペアを組まされた村林悠太は、人懐っこくルーズな印象はそのままに、半袖シャツにノーネクタイ、ベージュのパンツ、足元も革靴風のスニーカーという、よりカジュアルな風貌になっていた。
「今からメシ? 一緒に行こうよ」
「ひとりでさくっと食べようと思ってたんだけど」
「いいじゃん、せっかくなんだから! 俺、最近おしゃれな和食屋見つけたんだよ!」
私の遠回しな断りをまったく気にせず、ぐいぐい来るのが彼らしい。昔なら辟易していただろうが、こうやって関わろうとしてくれる相手を無下にすべきでないことは、15年近い社会人生活の中で私も理解していた。
「わかった、いいよ」
「いえーい。その店、海鮮丼が名物なんだけどさ、焼き魚もイケてて……」
村林と会うのは確かに久しぶりだった。同期はグループ全体で1000人以上いる。我が社は関東1都6県に加えて山梨県および静岡県の富士川以東への電気供給をカバーするうえ、発電所を含めるとさらなる規模になる。同期といっても配属先はバラバラで、本店に戻ってくるタイミングもまちまちなので、新人研修以来二度と顔を合わさない人間だって少なくない。
彼に提案された和食店は大行列だったので、私たちは結局、近くの適当な中華料理屋でランチを食べることにした。
「ごめん、あんなに並んでるとは思わなくてさ~」
村林が半チャンラーメンセットを前に詫びる。
「本当においしいってことでしょ。今度改めてひとりで行くよ」
私は熱々のおしぼりで手を拭いた。白ごはん、鶏肉とカシューナッツ炒め、ザーサイ、卵スープ、ミニ杏仁豆腐の定食が目の前に運ばれてきた。
「じゃなくて、そこはまた一緒に行こう、でしょ」
「どうかな。ランチは基本ひとりがいいの」
「さすが三崎さん、同期一クールな女。変わってないね」
村林が行儀悪く、箸の先を私の顔のほうに向けた。私は無視してレンゲでスープを飲む。鶏だしの濃い味がする。
社内には安価な社員食堂もあるが、私は外の店で食べるのが好きだった。ひとつは、このあたりはお店のレベルが高いから。もうひとつは、社食ではどうしても知り合いに会ってしまうから。
村林があれこれと同期の噂話をするのを聞きながら、箸を進める。ひとしきり話題が尽きたころ私は尋ねた。
「ねえ、転職って考えたことある?」
ラーメンの鉢を抱えてスープを飲んでいた村林が、大げさにむせた。
「なに、三崎さん、転職すんの!?」
「ちょっと、声が大きい」
店内に会社の人がいるかもしれない。周りを窺いながらたしなめると、村林はおしぼりで分厚い唇をぬぐった。
「私じゃなくて、知り合いの話。40代中盤で初めての転職活動って、どんなもんなのかなと思って」
「うちの会社の人?」
違うけどJTCで文系大卒、知財系と伝えると、村林は腕を組んでう~んと唸る。
「人によるだろうけど……初めてってのがどう左右するかな。単に出世できないから転職します、じゃ通用しない年齢だよね。まあポジション次第だけど、年収に固執しなければ、ベンチャーとかIT系でオファーはそれなりにあると思う」
私が自分でたどりついたのと、だいたい同じ感想だった。私は心の中でそうだよな、と頷く。
「前に言ってた、製薬会社のMRの先輩、元気?」
「そんな大昔の話、よく覚えてるね。香田製薬の先輩ね。連絡とってないけどたぶん元気だよ」村林は目を細めた。「思い出した、三崎さんのお兄さんが香田製薬なんだっけ」
それには返事をせず、私は訊いた。
「村林君は転職しようと思ったことなかったの」
「そりゃあるさ。何べんもあるさ」
ラーメンを完食した彼は、チャーハンをかき込み始めた。交互に食べるのではなく、ひとつずつ食べるスタイルらしい。
「特に3.11のあとは、働いてるだけで悪人みたいな扱いだったじゃん。親戚のおばさんなんて、入社当初は『大企業ですごい、近所の人に私まで自慢しちゃった』とか言ってたのに、翌年には手のひら返しで『あなたのせいで私まで後ろ指さされるわ』ってさ」
自分のグラスに水を注ぐついでに、村林のグラスにも入れてやる。
「でも。俺あのとき、銚子の営業所にいたでしょ。震度5でめっちゃ揺れて、死ぬかと思ったし、防波堤のおかげで死者や怪我人はいなかったけど、漁港はすごい津波被害で大変だった。そういうの現地で見てたから、なんか、辞めて適当なコンサルとかに転職するっていうのは……」
村林は、注いだばかりの水をぐいと一口で飲み干した。
食べ終わって会計しようとすると、村林がサッと伝票を取った。
「今日は俺のおごり」
「なんで、割り勘でいいよ」
「いいからいいから」
有無を言わさず電子マネーで支払われてしまい、そのまま流されるように店外に出た。アスファルトからの反射熱がむわっと立ち上がる。
「あっちぃなー。日本の夏ってこんなに暑かったっけ」
「お金、受け取って」
彼は私が千円札を渡そうとするのを制し、「今日、三崎さん誕生日でしょ。お祝いってことで」と照れたように笑った。
「え、なんで知ってるの」
「だって俺、昔ほんとに好きだったもん、三崎さんのこと」
村林の顔を見返すと、「キモいかな、キモいか、キモいよな」と、勝手に「キモい」の三段活用をした。
「いや、今はもちろん違うよ。誕生日もたまたまってか、スマホのスケジュール帳に昔登録したのが残ってて、そしたらまさかの本人にばったり会えちゃった。てか俺、去年結婚したし」
「結婚指輪してないじゃん」
「昨日飲み会で、朝起きたら指がむくんでハマんなかったんだ」
会社に向かって歩きながら会話を続ける。
「三崎さんは高嶺の花だったし、俺なんかアウトオブ眼中だったのは自覚してるさ。でも新人研修でふたりでマックでコーヒー飲んだの、ずっといい思い出だよ」
その研修では、期せずしてかつて姉と暮らしていた町に足を踏み入れることになった。自分の過去と向き合わざるをえず、平気なふりを装っていたけど本当は窒息しそうだった。その夜、兄に会ったことでようやく息ができた、そんな1日だった。
私にとっては複雑な出来事を、別の角度で受け止めて大事にする人がいるというのは、なんだか不思議な気分だった。
「高嶺の花とか、言いすぎでしょ」
「またまた。社内でも聞くよ、三崎さんに憧れてる若い子の話」
会社に着いた。村林は「ようやく言えてすっきりした」と清々しい顔をして、別のフロアでエレベーターを降りて行った。
午後はオンライン会議が2件、上司との打ち合わせが1件。合間にメールをさばき、来週の会議に向けた資料を準備する。36歳の誕生日はこうして過ぎた。
パソコンの時刻表示を見ると、19:35を指している。兄に「誕生日当日は予定がある」と言った手前、今日はまだ家に帰れない。映画でも見に行ければよかったが、ちょうどいい上映時間の作品がなく、結局まだオフィスに居座っている。フロアにはちらほらと人が残っているが、残業に厳しい会社なので、20時にはほとんどの人がいなくなるだろう。
私は小さくため息をつき、パソコンの電源を落とした。ショルダーバッグに荷物を詰め、立ち上がる。
23時くらいに帰宅したい。どこかで誕生日を祝ってきたと兄に思わせるには、多少アルコールも入れたほうがいいだろう。立ち食い寿司にでも寄ろうか。でもそれでは時間がだいぶ余る。
行ったことはないけれど、こんなときのためにパチンコはあるのかもしれないと、ふと思う。何も考えずに無心で過ごせる場所。大人が爆音とともに時間を垂れ流す場所。
エレベーターホールには先客がいた。隣の部署の若い男の子だ。名前は知らないが、背が高いので印象に残っている。
「お疲れ様です」と会釈だけして前を向くと、間髪入れずに「俺、2018年入社の瀧本侑司といいます」と声がした。
「内定者懇親会で、三崎さんの話聞きました。すごい感銘受けました」
「そうだったんだ」顔を見上げながら記憶を探るが、特別なスピーチをした覚えはない。「光栄だけど、そんないい話したかな」
「配属についての話です。誰かが『希望の部署に行けなかったときの立ち直り方』について質問したんです。ほかの先輩方は『あるある、自分も落ち込んだ』とか『異動希望はいつか叶うから』みたいな回答だったんですけど……」
エレベーターに乗り込む。瀧本君が「閉」のボタンを押した。
「三崎さんは確かこう言ったんです。『私は、仕事ってそもそも選べるものじゃないと思っている。自分の人生を全部選べるというのは子どもの万能感だ』」
表情が顔に出にくいタイプなのか、彼は真顔のまま続ける。長めの前髪の隙間からこちらを見つめた。
「『でも、だから、配属ごときで傷つかなくていい。働き始めたら、自分の未熟さや不条理に落ち込むことは山ほどある。それが仕事というもの。私も今でもそうです。だから安心して』って」
彼の視線の強さを誤魔化すように、私は苦笑した。
「忘れてた。自分もまだ若手だったのに、えらそうで恥ずかしいな」
「そんなことないです。俺はこんなかっこいい先輩と一緒に働きたいって思いました」
1階に着き、ドアが開いた。「それじゃあ」と言いかける前に、彼は畳みかけた。
「あの、今日このあと、予定ありますか。ほかにも三崎さんに聞きたいことがあるんです」
戸惑った。8歳も下のよく知らない男の後輩といきなり飲みに行くのは、コンプライアンス的にも気が進まない。
「聞きたいことって? 仕事の相談なら、今度改めて……」
「俺、南北線の王子神谷に住んでるんです」
なぜいきなり住所の話題に飛ぶのか。
「三田線から乗り換えるときに、途中下車することがよくあるんです。ジムに寄ったりとか」
彼は私の最寄り駅の名前を挙げて、言った。
「三崎さんが買い物してるのを見かけました。パン屋で一緒にいた人、旦那さんですか」
血の気が引いた。
言いふらすような子には見えないけれど、こんな誤解が社内で広まったら本当に困る。
「わかった。その件について説明するから、どこかお店に入ろう」
瀧本君は初めて表情を変化させた。
「やった」
彼の口元には、背伸びしていたのを手放したような、嬉しそうな笑みが浮かんでいた。




