第6話 “普通の兄妹”
あの夜、紫野に覚えた違和感について、僕は確認すべきだったんだろう。姉の失踪の真相という秘密を抱えながら、僕に悟らせないように行動していた、15歳の頃の空気感を思い起こさせたのだから。
だけど僕はスルーしてしまった。たくさん飲んで酔っていたから。翌朝はいつも通りの紫野だったから。それらは後付けの言い訳に過ぎない。一言でいえば、僕は鈍っていた。億劫でもあった。人はこれも老いと呼ぶのかもしれない。
さらに間の悪いことに、その後、僕の関心はまったく別のところへ移ってしまった。
「すごい、また来てる」
地下鉄の中だというのに、つい呟いてしまった。右手に握ったスマートフォンの画面には、
『【限定案件】ぜひ一度お目にかかれませんか?』
『貴方様のご経歴が目に留まりました』
『【面談確約】ポジション提案ベース(有スキル者限定)』
などの前のめりな文言が躍っている。
安西さんの言葉を真に受けたとまでは言わないが、背中を押されたのは確かだ。世の中でこれだけ宣伝されている転職サービスって、どんなものなんだろうという興味もあった。試しに大手サイトにプロフィールを入力してみたところ、直後から想像を上回る量のスカウトメールが届くようになり、メールの受信箱を埋め尽くしている。
業界や会社もさまざまだった。同業である製薬をはじめ、化粧品、消費財といったメーカー系がやはり多いが、商社やコンサル会社、まさかのテレビ局まで、著名な企業から初めて聞く中小企業、あらゆる案件が舞い込んでいた。
身内のほとんどが香田製薬傘下に勤めている環境に生まれた僕は、自分も同じように働くのだと信じて疑ってこなかった。父は本社で専務まで勤めたあと、現在は子会社の会長をしている。上の兄の綸太郎は本社入社後、関連企業に出向している。
例外は二番目の兄・資次郎だ。幼い頃から芸術志向が強く、「俺にはやりたいことがある」と大学を中退して外部の大学に入り直した。そこでメディアアートを学び広告代理店に入社したことで、一族の異端児扱いされている。僕の結婚騒動が持ち上がったとき母は「聞き分けのよかったあなたが、まさか資次郎以上の問題児になるなんて」と嘆いたものだ。
ただしここでいう聞き分けがいいというのは、コネ入社したという意味でもある。僕は氷河期の末期の世代だ。就活に悪戦苦闘する大学の同級生たちを尻目に、ただ経営者一族の末席であるという理由だけで上場企業の内定を得たことに、少なからず後ろめたさはあった。そうやって入社した手前、定年まで勤め上げるのが義務で、転職なんてあり得ないとも思っていた。
なので今、多種多様な転職の誘いがきても、まさか自分がと思う。営業してくるエージェントや人事担当者のメールを読むだけで、返信はしない。
ただ、その会社の採用ページで社員インタビューを読んだり、転職サイトの口コミを見たりするのが、このところの楽しみになっていた。あったかもしれない社会人人生、ありうるかもしれない未来のキャリアを、画面越しに追体験する。それは僕にとって、VR映像で楽しむ宇宙遊泳のようなものだった。
最寄り駅の改札を出てバス停の列に並ぼうとしたとき、ドラッグストアから出てくる人影を見つけた。
「紫野ちゃん!」
妹は小さく会釈して応えた。「偶然だね」と僕は駆け寄り、彼女が抱えていたトイレットペーパーとティッシュペーパーを取り上げる。
「買い出ししてくれたの? 言ってくれれば、僕が買ったのに」
「いつもAmazonに頼んでるんだけど、たまたま両方とも切れちゃって。定期便のスケジュールを見直さないと」
「任せっきりにしててごめんね。僕も分担するから」僕は駅前を見回した。「ほかに買うものある?」
紫野は少し思案してから「手が空いたし、パン屋さんにも行こうかな」と僕を見上げた。
「いいよ、おじさんがなんでも買ってあげる」
「パパ活みたいじゃん」と紫野が笑う。
「だとしたら、ずいぶんせせこましいパパ活だね」
僕たちはここぞとばかりに、バタール、クロワッサン、くるみとレーズンのカンパーニュ、ベーコンエピ、甘夏のデニッシュなどを買い込んだ。
改めてふたりでバスに乗り、揺られて帰る。紫野の持つエコバッグから、バターの芳醇な香りが漂っている。なんでもない平日の仕事帰りなのに、特別な日のように感じる。
香田と三崎の名前が並んだ表札の横を通り抜けると、玄関ポーチに自動で照明がつき、帰宅した僕らを迎え入れた。
「白ワイン、冷蔵庫に1本あったよね。せっかくだから飲んじゃう?」
浮かれ気分で提案すると、紫野が「私、今日中に片づけたい仕事があって」とお茶を濁した。
「お兄さん先に食べちゃってて。メインのお肉はすぐ焼くから」
そういって僕の分の鶏肉をさっさとグリルすると、紫野は部屋に引っ込んでしまった。仕事なら仕方がない。僕は紫野が小分け冷凍してくれているごはんを取り出し、電子レンジで解凍する。体調管理を考えて、このところ夕飯時の白米は少なめの量にしている。さらに副菜類とみそ汁を器に取り分け、テーブルに並べて「いただきます」と合掌した。
鶏肉はもちろんだが、きんぴらこぼうも、ミニトマトと大葉のマリネも、冷や奴も、ミョウガの入ったみそ汁も、しみじみとおいしい。「自分用も兼ねてつくりおきしてるだけ」と紫野は謙遜するが、こんな充実した食卓にありつける僕は本当に恵まれている。
それに掃除洗濯や日用品のストック管理も、なし崩し的に紫野が多くやってくれている。家事分担を見直すのは前提として、パンをおごる程度ではなく、きちんと感謝の気持ちを伝えなければ。そんなことを考えながら、僕はまたスマホのメールボックスに没入していった。
結局、紫野が現れたのは、僕がほとんど食べ終わったタイミングだった。
「ごはん、たりました?」
「うん、全部おいしかったよ、ありがとう。あとで紫野ちゃんのと合わせて、僕がお皿洗うから」
「それならよかった」
なんとなく離れがたく、僕もダイニングテーブルにとどまる。
紫野が食事しながら尋ねた。
「最近、よく何を見てるの?」
紫野の視線の先には僕のスマホがあった。
「あー、なんていうのかな」いちばん無難に聞こえる言い方を考えたが、見つからなかった。「転職エージェントからのスカウトメールを眺めてるっていうか」
紫野がまじまじと僕を見つめた。
「転職するの?」
「いや、全然そのつもりはないんだけど」
視線に後ろめたさを感じ、しどろもどろになりながら弁明する。
「先月行ったゼミの集まりで知り合った後輩に、登録だけでもしたらいいって勧められたんだよね。キャリアの見直しになるからって。その後輩は国際結婚してアメリカで暮らしたあと、離婚して転職活動して金沢に住んでるっていう、めちゃくちゃパワフルな女の子だから、あんまり参考にならないって思ったんだけどさ。でも勢いで登録したら、確かに思ったよりたくさんスカウトメールが来ちゃって。僕なんかのところにテレビ局からも来るんだよ? あり得ないよね」
妹は何も言わずにこちらを見ている。ますます気まずくなって、僕はつい苦笑いした。
「優秀な紫野ちゃんには関係ない話だろうけど」
都立高校から現役で国立大学に入学、大手インフラ企業に就職し、バリバリやっている彼女の経歴を褒めたつもりだった。
「そんなふうに言われたら、何も言えないですよ」
紫野の表情がかすかに翳る。
「もともと、口出しする権利はないですけど」
「ごめん、そういうつもりじゃないんだ」
慌てて取り繕ったが、聡明な紫野には無意味だったろう。
「いいんじゃないですか。お兄さんはきっと、自分が思っているより優秀ですよ」
「え、そうかな」
拍子抜けして聞き返す。
「うん。気を遣うことなく、好きにやってみたらいいんじゃない」
紫野は食べ終わった食器をまとめて、流しに置いた。
「先にシャワー浴びるね」
「あ、紫野ちゃん」と僕は立ち上がる。
「来週水曜、誕生日だよね。どこか、おいしいお店に行かない? お祝いさせてほしいんだ」
彼女は動きを止め、「それは、だめ」と言った。
一瞬の沈黙、そして真顔で呟く。
「普通の兄妹は、そんなことしないよ」
確かに過去の同居でも、紫野が大学に進学して以降は誕生日をわざわざ祝うことはなかった。妙齢の女の子にとってうっとうしいかなと思っていたからだ。齢を取って、僕はそんな機微すら忘れてしまったのかもしれない。
「そうか。変なこと言ったかな」
戸惑っていると、紫野は「なーんてね」と相好を崩した。
「もともと予定があるの。気持ちは嬉しいから、別の日にしよう。週末とか」
僕は内心ほっとする。
「そうだよね、誕生日当日は予定入ってるよね。うん、週末にぜひ」
お店のリクエスト考えてみるね、と紫野は笑って去った。
スマートフォンに新しいメールが着信する。またスカウトメールだ。
『北陸発バイオベンチャー!知的財産マネージャー業務』
見覚えのある社名だった。
どんな誘いも見るだけと思っていたのに。紫野の言葉の後押しもあり、僕は安西さんにLINEを送っていた。




