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水際で待っている  作者: 佐井 識
第2章 隆之介
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第5話 新しい世界

 いくつもの挨拶を聞き、先輩や後輩と歓談し、最後に教授を囲んで記念撮影。祝賀会が終わってホテルの外に出たのは20時過ぎだった。

 ビュッフェは美味だったが、食べるより飲む喋るが中心だったので、微妙におなかがすいていた。笠井と藤岡を「二次会どう?」と誘ってみる。

「悪い、明日朝から客先でプレゼンなんだ。6時起きだから今日は帰るよ」と、藤岡。

 笠井は乗り気だったが、スマホを見て「あ、ダメだ」と渋い声を出した。

「下の子が熱出したらしい。嫁から帰ってこいLINEが来てる」

 証拠を見せるように、笠井がスマホの画面をこちらに向ける。

「心配だね。早く帰ってあげなよ」

「熱自体は大したことないっぽいけど。帰ったら、月曜俺と嫁のどっちが会社休むかの調整大会だわ」

 また近々!と手を上げて、笠井は渋谷駅のほうへ消えていった。

 僕もとりあえず歩き始める。パパッと腹を満たすとするとラーメンだろうか。2軒見かけたが、どちらの店もニンニクが効いたボリューム系ラーメンを売りにしていた。空腹は満たしたいものの、ややトゥーマッチだ。

 さらにつけ麺屋を見つけて立ち止まり、うーんと考える。信号を渡ったら渋谷駅なので、いよいよ選択肢はなくなる。でもなんか、つけ麺の気分でもないんだよなあ……。メニューを見ながら逡巡していたら、真横に来た人から突然「香田先輩?」と声をかけられた。

 先ほどのパーティーで見た顔がそこにいた。髪をひとつ結びにし、黒のノースリーブのセットアップを着て、パールのピアスをつけている。

「10期の安西さん、かな?」

「そうです。よかった、人違いじゃなくて」

 4学年下の安西仁香(にか)さんだった。現役時代は被っておらず、今日初めて挨拶した相手だった。

「おなか減りましたよね。私も、スモークサーモンと麻婆豆腐しか食べられませんでした」彼女は笑って言った。「松濤のほうに蕎麦が食べられるワインバーがあるんです。もしよかったらご一緒しませんか?」

 それが食べたかったんだ、と思った。僕たちは道玄坂側へ歩き始めた。


 渋谷の喧騒を離れたそこは、いいお店だった。お通しのキャロットラペも、生ハムとチーズの盛り合わせも、もちろんグラスワインもおいしい。つけ麺屋に入らなくてよかったとしみじみする。

「いいお店を知ってるね。このへん、よく来るの?」

「大学卒業してから、渋谷は全然。ここはたまたま、インスタで見て気になってたんです」

「渋谷もだいぶ変わったよね。駅が複雑になって出口にたどり着くのも一苦労だし、宮下公園もおしゃれになっちゃって」

「ほんと、平成は遠くなりにけり、ですね」

 エアコンの冷風が直撃したのか、安西さんが二の腕をさすった。

「席、変わる? それか店員さんに言って温度を下げてもらおうか」

 彼女は少し驚いたような表情をしたあと、「大丈夫です」と微笑んだ。

「先輩、結婚式直前に花嫁に逃げられたって噂、本当ですか」

 突然の問いかけに返事できずにいると、彼女は「すみません、単刀直入に失礼ですよね」と断りを入れつつ、さらに重ねてきた。

「大学の頃、ゼミの女の子たちの間で噂になったことがあったんです。4個上に香田製薬の御曹司がいて、結婚でトラブってるって。それ聞いて、勝手に変な人なのかな?って思ってたんです。でも今日会ってみたら、全然普通なんで拍子抜けしました。むしろ、なんならめっちゃいい人じゃないですか」

「……安西さん、ぶっちゃけキャラって言われることない?」

「言われます。でも先輩は、聞いても怒らなさそうかなって」

 彼女の予想は外れていなかった。ここまであけすけに言われると、逆に天晴という気がする。

「ちょっと勘違いしているみたいだけど、僕は別に御曹司ではないです。曾祖父が設立した会社だけどうちは分家だし、僕は三男だし。噂も誇張されている。正確には入籍直前で、結婚式自体は3か月後の予定だった。逃げられたのではなく失踪してその後がわからないのが実際のところだけど、どう受け取るかは人次第かな」

「ボンボンですよ、世間的には」安西さんはさらっと「大変だったんですね。でもあんまり大変そうに言わないところ、先輩の美徳ですね」と続けた。

「美徳、なのかな。20年も前の話だから、自分でも夢を見てたように感じているのかもしれない」

 ときどき思うことがある。今、20年後の婚約者が目の前に現れたとして、僕は彼女を見つけられるだろうかと。

 すべてを捧げたいと思った、三崎遼子を。

「安西さんは?」

 彼女の左手にちらりと視線を移した。ほかの指には大ぶりな指輪が挟まっているが、薬指には何もない。

「結婚、してました。過去形です」

 反射的に「ごめん」と言いかけたのを飲み込み、「そうなんだ」と返したが、彼女は目ざとく「今、ごめんって言いかけませんでした?」と指摘した。

「不思議なんですよね、なんでバツイチっていうと相手が謝るのか。単なる協議離婚ですよ」

 彼女はリースリングをくいっと飲み干した。

「私たち、何も悪いことしてない」

 頷いて、ふと気づいた。彼女のいう“私たち”には、彼女や彼女の元夫だけでなく、僕も含まれているのかもしれない。

「国際結婚だったんです。仕事で東京に来てた彼と知り合って、アメリカに戻るタイミングで結婚して、一緒にロスに渡って。知ってます? 国際結婚だと戸籍の名字を変えなくていいんです。6年結婚してたけど、別れて帰国したら、アメリカに行く前の人生が普通に続いてる感じで」

 だから、と彼女は言った。

「夢を見てたみたいっていうの、わかる」

 こういう夜があるんだな、と思った。ほとんど初対面の後輩と、似た古傷の予後を共有し合う。人生でふと起きる、偶発的な答え合わせ。もしくは、ひたすら生きてきたことへのちょっとしたご褒美のようなもの。

 蕎麦が運ばれてきた。薬味がたっぷり盛られていて美しい。

「アメリカから帰ってきて、今は何やってるんだっけ?」

「結婚するときに前の会社を辞めちゃったんで、就活して、北陸のバイオベンチャーで働いてます。今、金沢に住んでるんですよ。今日は溝の口の実家に泊まるんですけど」

 ロサンゼルスから金沢とは、またすごい方向転換だ。

「地方のベンチャーなんて、バイタリティあるね。僕は転職なんて一生縁がないと思うけど」

「もしや転職活動を一度もしたことがない?」

「だって辞める理由がないし、大したキャリアじゃないし」

 安西さんの目がギラッと光り、蕎麦をすする手が止まった。

「先輩はJTCのプロパー社員ですし、いくらでも引きはあるはずですよ。職種はMRじゃないですよね、マーケティング? 役職は?」

「この10年くらいはコーポレートだね。知的財産関係の部署の係長」

「余計にアツいじゃん。英語もある程度は使えるってことですよね」

「翻訳ツールを使ってメールでやりとりするくらいだよ」

 彼女は身を乗り出した。

「知財は今めっちゃ強いです。海外とのやりとりも経験してるなら、先輩が思っている以上に転職市場では引きがあるはずです」

「普通のサラリーマンだと思うけど、そうかなあ」

「そうです。実際に転職しなくてもいいから、エージェントに登録だけしてみたらどうですか。自分の市場価値を知らないなんてもったいない。キャリアを見直す機会になりますよ」

「安西さんさ」と僕が言いかけると、彼女は「はい、お節介だともよく言われます」とかぶせ気味に答えた。

「先輩はその、のんびりした感じが魅力だと思いますけど、定年までのキャリアを確定させるにはまだ早いですよ。新しい世界、見てもいいんじゃないですか?」


 帰宅すると、1階の電気はついていたが、妹の姿はなかった。遅い時間なので、自分の部屋で休んでいるのかもしれない。

 僕はポケットからスマホや財布を出し、ソファに置いた。そのまま座ってくつろいでしまいたいけど、立ち上がれなくなりそうなので、強い気持ちでシャワーを浴びることにする。

 脱衣所で服を脱いでいると、鏡に映った上半身が目に入った。たっぷり飲み食いしたぶんだけ、しっかり下腹も膨らんでいる。笠井のダイエットについて軽口をたたいたが、僕だって年相応に老化している。藤岡ほど劇的な変化がないとはいえ、20代の頃に比べれば髪も細くなり、白髪がところどころにのぞいている。

 これまでは、何もしないことが、自然でいいことだと思っていた。特に男は、そういうものだという根拠のないイメージがあった。だがこの齢になると、何もしなければ、本当にただ老いに向かって流されてしまう。そしてその勢いは想像していたより速い。運動なのか、食事制限なのか、頭皮マッサージなのかわからないけれど、何かを変えること、始めることをしなければならないのかもしれない。酔っていたけど、明確にそう思った。


 シャワーを浴びてさっぱりした僕は、台所で麦茶を飲んだ。ボトルを冷蔵庫に戻す際、千疋屋の高級そうなゼリーが6個、並んで冷えているのが目に入る。出かける前にはなかったはずだ。妹が買ったのだろうか?

「それ、お中元のおすそ分け」

 驚いて振り返ると、紫野が立っていた。足音にまったく気がつかなかった。

「びっくりした。まだ起きてたんだ」

「あと、素麺もいただいたから。お兄さんからも、香田のお母さまにお礼を伝えておいて」

 そう言うだけ言って、彼女は踵を返す。

「えっ、うちの母からのおすそ分けってこと? 母さんがこの家に来たの?」

 冷蔵庫のドアを慌てて閉め、僕は妹の背中に呼びかけた。妹が立ち止まり、顔だけこちらに向ける。

「そう、昼間に。寝る前にそれだけ伝えたくて。じゃあ、おやすみなさい」

「突然来るなんてびっくりしたよね。相手してもらって申し訳ない。何か話した?」

 紫野は僕の目を見つめて、片側だけ口角を上げた。

「さあ」

 その横顔は、笑っているのに張り詰めているように見えた。

 状況も表情も何もかも違うのに、僕の脳裏には、とある光景がよみがえっていた。20年前の春、透き通るような青白い顔で、紫野が姉の失踪を告げた瞬間の光景だった。

 ひとり部屋に取り残される。

 彼女は今確かに、僕に一線を引いた。妹からそんな気配を感じたのは、ずいぶん久しぶりのことだった。


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