第4話 究極の二択
人の一生における「冒険の総量」は決まっている、と僕は思う。若い頃たくさん遊んだ人ほど齢を取ったら丸くなるとか、地道にやってきた人が中年を迎えて一念発起の転身をするとか、そういう話だ。もちろん冒険家や登山家、ギャンブラーといった人種もいるだろうが、彼らはあくまで“外れ値”であって、普通の人間は一生涯冒険をし続けるなんてことはない。そして僕は自分自身のことを、冒険をやり終えた側の人間だと認識している。
僕にとっての冒険時代とは、22歳から30歳までの期間を指す。恵まれた家庭に生まれ、小学校から大学までエスカレーター式の私立校で育ち、大きな悩みもコンプレックスもなくのほほんと生きてきた僕は、ある日突然、雷に打たれたように恋に落ちた。会社の先輩に連れていかれたスナックで出会った、同い年の可愛らしい女性に。といっても彼女のほうは、最初はまったく相手にしてくれなかったけど、しつこく会ってもらううちに、だんだんと心を開いてくれたと思う。少なくとも、プロポーズを承諾してくれる程度には。
進路も就職も特に自我を出すことのなかった僕が彼女との結婚を宣言したとき、両親からは猛反対にあった。若すぎる、そして格差がありすぎるというのが彼らの言い分だったが、僕は一歩も退かなかった。自分のなかのいったいどこに、こんなに強い意志があったのだろうと我ながら不思議になるほどだったけど、同時に確信もしていた。若くして親をなくし、苦労して生きてきた彼女の人生を引き受けることが自分の使命であり、出会った瞬間に僕は生まれ直したのだと。
なんとか親に承諾させて、新居を決めて、引っ越しや結婚式の準備を進めて。今振り返れば1年にも満たない期間だったけど、僕は人生史上最高に満たされていた。常に浮かれて高揚していた。婚約者の変化に気づけなかった理由は、彼女の周到な立ち振る舞いだけでなく、すべてを手に入れたという僕の驕りもあったのかもしれない。
3月の末、桜が満開になりかけていた。曇っていて風が強かった。その日、彼女は姿を消した。
残されたのは、僕と、高校入学を控えた彼女の妹と、引っ越しを待つばかりの一軒家だった。ほかに選択肢はなかった。僕と妹は、僕らをつなぐ存在を空席にしたまま同居生活を始めることになった。
明るくて笑顔を絶やさない婚約者と違い、妹は常に大人びていて冷静な少女だった。こちらを信用していない気配を隠すこともなく、正直なところ、当初はどう接すべきかわからず苦労した。「紫野ちゃん」と呼びかける瞬間すら、緊張したものだ。それでも、引き取ったことへの後悔などありえなかった。婚約者の人生を引き受けるというのは、彼女の愛する妹の面倒を見ることも含まれており、僕にとっては当然の行動だった。
それから7年経って、大学を卒業した妹にすべての顛末を告げられたとき、僕の冒険は終わった。婚約者が帰ってくるのを信じて待ち続けるという冒険が。婚約者は別の既婚者の男と関係をもっていて、子どもを妊娠していたらしい。つまり彼女は、事件や事故に巻き込まれたのではなく、自分の意志で姿を消していた。とうの昔に僕は捨てられていたということだ。
「7年のあいだずっと、妹でいさせてくれてありがとう」
そう言い残して僕の前から去ろうとした妹の手首を、僕はつかんだ。僕には実の兄が2人いるが、長い年月をかけて、妹は彼らと同等か、ともすればそれ以上につながりを感じる存在になっていた。彼女の真意はどうあれ、僕らは難破船に乗り合わせて、必死に生き抜いた同士だった。確かに冒険は終わった。だが、人生まで終わるわけじゃない。
それからの生活は、平凡だ。仕事をし、ひとりの家に帰って眠り、また仕事に出かける。身内が経営する企業に勤めていれば、良くも悪くもある程度の道筋は見えている。プライベートでときどき女性と交際することはあったし、その先を望んでいないわけでもなかったけれど、誰とも結婚するまでには至らなかった。いつだって別れは悲しく、つらい。でも、それ以上の感情を僕はもう知っていた。あんな冒険は僕の人生で二度と起こらない。
『ロード・オブ・ザ・リング』で例えるなら、僕は主人公のホビット、フロドじゃない。強いて言うなら庭師のサムだ。冒険が終わった今、隠居して小さな生活を営みながら、ときおり当時のことを思い出しては人生の妙味を味わう。そうやって寿命が来るまで生きていければ満足なのだ。
そんなふうに思っていた。確かにそう、思っていたのだが。
「いたいた、隆之介!」
振り返ると同期の笠井がいた。僕は「お疲れさま」と言って、ビールの入ったグラスを掲げる。
大学時代のゼミの教授が退官することになり、今日は大学のホールで記念講演があった。その後渋谷にあるホテルを貸し切って、祝賀会が開かれている。経済学部では歴史の長いゼミで、学部長も務めたことのある先生だったので、立食形式の宴会場はたくさんの人で賑わっていた。
「ビールがうまい。まだ梅雨明けしてないのに、この暑さどうなってるんだろうな」
「笠井、前に会ったとき、ダイエットでビールは控えてると言ってなかった?」
笠井は自分のふくよかな腹をばちんと叩いて、「一杯目は別」とうそぶいた。
「隆之介は大学時代から体型変わらないな。うらやましいよ」
「いや、僕も5~6kgは体重増えてるよ」
「そんなん誤差の範囲だよ、40過ぎると」笠井は、向こうからやってくる人影に気づくと、「来た来た、見た目がとんでもなく変わったやつが」と、その方向を指さした。
やはりゼミ同期の藤岡が、「よぉ~」と言いながら歩いてくる。僕はぎょっとして目を見開いた。藤岡の頭にあるはずの髪が、なくなっている。禿げているとかいうレベルではなく、僧侶のような、清々しいまでの剃髪になっていた。
「隆之介は、この状態の藤岡に会うの初めてだっけ?」
呆然としている僕の横で、事情を知っているらしい笠井がにやにやする。
「まさか病気、じゃないよね?」
遠慮がちに尋ねると、藤岡は豪快に笑った。
「違う違う、自分の意志。この数年で、仕事のストレスなのか知らんけど、髪が抜けまくったんだ。しかも頭頂部中心に抜けたからフランシスコ・ザビエル状態で。すっげー悩んだけど、思い切って全部剃ったら、すっきりしたわ」
「なかなかその決断はできねえよ。藤岡、お前かっこいいよ」
笠井が茶化すように盛り上げた。野球部出身で身長180cm以上ある藤岡のスキンヘッドは、相当な迫力があった。もちろん本物を見たことはないが、平清盛ってこんな感じだったんだろうか?と想像してしまう。
「治療薬とかは使わなかったの?」
「それも考えたけど、性欲減退の副作用があるらしい」藤岡が声のトーンを低くした。「勃たなくなるの嫌だから、やめた」
なるほどと頷くしかない。髪の毛と勃起機能、自分だったらどちらを選ぶだろうかと考える。僕はおそらく前者を選択するだろう。笑い話のようでいて、これは男にとって究極の二択かもしれない。
「まだ嫁に対して性欲があるのもすごい。うちは下の子が生まれてからずっとレスだわ」
ぼやく笠井に、藤岡は「嫁というより、自分のアイデンティティの問題かもな」と返す。
「で、隆之介は最近どうよ」
聞かれるだろうと思っていた。僕はわかりやすくナイナイという表情をつくり、顔の前で左手を横に振った。
「前に付き合ってた相手は? 用賀に住んでるとかいう」
「とっくに別れたよ。それ以来、何もなし」
もったいないなーという笠井にかぶせるように、藤岡が言った。
「隆之介が結婚しないのって、ぶっちゃけ、いなくなった婚約者をまだ気にしてんの?」
笠井がまず僕を見て、次に藤岡を見た。口には出さないが、「今いきなり言う!?」と言いたそうな顔をしている。対して藤岡は、泰然と突っ立っている。僕は内心ちょっと笑ってしまった。普段はふざけているけど実は繊細な笠井も、頓着せずストレートに聞いてくる藤岡も、どちらもいい友だちだと思った。
「違うよ。それはもう、終わったことだ」
婚約者が消えた23歳からずっと、僕は常に、うっすらと気を遣われている。親からも友人たちからも。今年で20年経つというのに。
妹から明かされた失踪の顛末は、誰にも話していない。ただ、みんななんとなく察しているのだろう。というよりも僕以外の人はだいたい勘付いていて、僕だけが最後まで気づいていなかった。僕は本当に世間知らずで呑気だった。
「じゃあ、隆之介は私生活変わらずか」
場の空気を和ますように、笠井が訊く。
「あ、少し前に引っ越したよ。昔住んでた家に戻って、妹と暮らし始めた」
軽い気持ちで答えたら、今度は笠井だけでなく、藤岡までも「へっ?」という顔をした。
「妹って、その婚約者の……だよな」
「うん、そうだよ」
「なんで一緒に暮らすんだ?」
何を疑問に思われているのか、よくわからなかった。
「妹がこの春から東京に異動になったから。一緒に住んだほうが家賃も浮くし、いろいろ便利だし」
妹が同居を提案してくれたとき、僕は嬉しかった。お金や利便性もあるけれど、それだけじゃない。賢くてしっかり者で僕には過ぎた妹が、僕をそれなりに好いてくれていると思うと、なんともいえない得意な気持ちになるのだ。
「でも、血がつながってないでしょ。どういう関係?」
「だから、妹だよ」
血も戸籍も関係ない。あの冒険で僕が最後に得たものがあるとすれば、それは妹の存在そのものだった。




