第226話 重ならない距離
雲が切れ、日差しが強くなってきた頃、
三人は山道の途中にある小さな駅亭に着いた。
木の屋根の下には商人や旅僧が座り、
乾草と焼きパンと馬の汗の匂いが混ざっている。
カヴィはまずエルセリアを下馬させ、それから自分も飛び降りて大きく伸びをした。
「はあぁー!
俺もう年だな。横乗りの乗客は全武装の傭兵より疲れる。
尻が真っ二つに割れそうだ」
エルセリアは真っ赤になった。
「す、すみません……ちゃんと座ろうとしたんですけど……」
「君のせいじゃない。鞍が悪いんだ」
カヴィは手を振った。
「こういう平鞍は二人乗りに向いてない」
アッシュは馬を水場のそばまで連れていきながら言った。
「休むなら先に水をやれ」
「あ、そうだった」
カヴィは急いで桶で水を汲み、馬に飲ませた。
エルセリアは長椅子の横に立ったまま、まだ少し手が震えていた。
だが視線は何度もアッシュの方へ向いている。
それに気づいたアッシュは淡々と言った。
「初めてにしては上出来だ」
エルセリアの表情がぱっと明るくなる。
「……馬、ちょっと楽しいかも。
その……また今度、あなたと一緒に乗れたらいいな」
アッシュは特に答えず、水袋を机に置いた。
三人は駅亭の隅の卓に座る。
カヴィは水を飲みながら、周囲の商人たちの会話に耳を傾けていた。
その表情が、一瞬だけ変わる。
アッシュはすぐ気づいた。
「何か確認しているのか?」
カヴィは低い声で答えた。
「王国の竜騎士隊、昨日北の町で検問してたらしい。
つまり――
この先、本来一番早い谷ルートは使えない」
エルセリアが眉を寄せる。
「そんなに追ってきているんですか?」
カヴィは肩をすくめる。
「第二王子だからね。
簡単には諦めないよ――」
ちらりとアッシュを見る。
「――王族を」
エルセリアは一瞬アッシュを見て、すぐ視線を落とした。
アッシュは驚くほど淡々としていた。
「俺は王族という身分にはこだわっていない」
「でも王族はお前を気にしてる」
カヴィが静かに言った。
それ以上は続けなかった。
少し空気が重くなる。
エルセリアはマントの端を握りしめ、
何か言いたそうにしていたが、しばらく迷った後、とうとう口を開いた。
「……カヴィさん。
あの……フィリシア様は……どうして……そんなにノアのことを気にかけているんですか?」
声はとても小さかった。
壊れやすいものに触れるような声だった。
カヴィは眉を少し上げた。
――これが、エルセリアの本当の心配か。
彼は水袋の蓋を閉めながら、アッシュの方を見た。
「ノア、言っていい? 婚約の話」
「婚約?」
エルセリアが思わず声を上げる。
ほとんど反射だった。
カヴィは額を叩いた。
「あー、しまった。先に言っちゃった?」
アッシュは一度静かに息を吐き、エルセリアを見た。
「……俺たちが生まれる前に決められていた政治婚約だ」
そしてカヴィの方を見る。
「まだ有効なのか?
俺は王国から反逆者扱いされている」
カヴィは肩をすくめる。
「でもさ、もともと誰もその婚約覚えてなかったんだよ。
誰も破棄してないなら、形式上はまだ残ってる」
アッシュは眉をひそめた。
「政治的な手段に過ぎない。
フィリシアにとって利益はないはずだ。なぜ破棄しない?」
カヴィは、すべて分かっているような笑い方をした。
「王女殿下はね、
お前と並んで立つための証として残してるんだよ」
その言葉で、エルセリアの肩がわずかに震えた。
彼女は無意識にアッシュの袖を掴む。
「……ノア。
あなたは……フィリシア様と結婚するの?」
アッシュは少し黙り、彼女を見る。
「婚約が残っているなら――」
そこまで言いかけた時、
エルセリアの目にほんの一瞬、影が落ちた。
激しい感情ではない。
狂気でもない。
白い花の奥にある、黒い影のような――
静かで、細く、だが危険な影。
カヴィはそれを見逃さなかった。
「はいはい! 婚約の話なんて今することじゃない!」
彼は大きく手を叩いた。
「目の前の問題が山ほどあるんだからね」
そしてエルセリアを見て言った。
「それにしてもエル孃、今の顔ちょっと怖かったよ」
エルセリアはすぐ、いつもの柔らかい表情に戻り、
祈るように手を組んだ。
「……驚いてしまって」
その笑顔は穏やかで、純白の聖女のままだった。
だが、さっきの影は消えていなかった。
一方、アッシュは淡々としていた。
「王族同士の婚約は珍しくない。
ただ……俺の立場が少し特殊なだけだ」
それでもエルセリアは彼の目をまっすぐ見て、ゆっくり聞いた。
「では……あなたが王国に戻ったら……
フィリシア様と結婚するんですか?」
アッシュは彼女を見た。
それからカヴィの方を見る。
確認するようでもあり、逃げ道を探すようでもあった。
「しない」
彼は静かに言った。
エルセリアの目が少し大きくなる。
アッシュは続けた。
「俺が直接彼女と話す。
婚約は解消してもらう」
そしてカヴィを見る。
「彼女は同意すると思うか?」
カヴィは口の端を上げた。
まるで「自分で聞けばいいだろ」と言いたそうな顔だった。
「さあね。
それは本人に聞いてみなよ」
彼は立ち上がり、水袋を鞍に戻した。
「休憩終わり。出発するよ」
エルセリアは黙ってアッシュの隣を歩いた。
まだ何か言いたそうだったが、
さっきの感情をまた白い殻の中にしまい込んだようだった。
三人は再び山道へ戻る。
午後の日差しが背中から当たり、
三人の影が長く地面に伸びた。
その中の一つ――エルセリアの影は、
静かにアッシュの影に重なろうと伸びていた。
だが、
いつもほんの少しだけ、届かなかった。




