表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二十二章:ロウゼ峯の夜と記憶

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

248/251

第227話 忘れられた家

 フォルン宿場町を離れた三人は、途中で疲れた馬を乗り換え、そのままほとんど休まず山道を進み続けた。


 林道の脇で水を口にすると、すぐにまた出発した。

 太陽は次第に傾き、影は長く伸び、吹き抜ける風も冷たさを帯びていった。


 やがて夕刻、三人は山林地帯へ足を踏み入れた。

 道は細く、高くそびえる黒松に挟まれ、ところどころで山霧が林の隙間から流れ出ていた。


 カヴィは馬の脇から古びた折り畳み式のランタンを取り出し、軽く揺らす。


「月が出てるし、これで十分だろ」


 木々の合間から差し込む月光は、水のように地面へと流れ、頼りないながらも進むには足りていた。

 夜が深まるにつれ、蹄が湿った土を踏む音と、細やかな虫の声だけが周囲に満ちていく。


 そして完全に闇が落ちる直前、彼らはそれを見つけた。


 林の奥にひっそりと佇む石造りの屋敷。

 二階建ての屋敷はすでに風化が進み、石壁には薄く苔が張りついていた。

 窓枠は傷み、軒先には松葉が厚く積もっている。

 まるで長い間、誰にも顧みられなかった廃屋のようだった。


 カヴィが手綱を引いて馬を止める。


「ここからは慎重に行こう」


 そう言ってランタンを手に先へ進み、外壁の前で灯りを三度揺らし、間を置いてもう一度揺らした。

 しばらくして、沈黙していた屋敷にかすかな灯りがともった。


「……人がいるのか?」


 アッシュの問いに、カヴィは短く答えた。


「味方だ。ここで待ってて」


 扉の前で中の者と低く言葉を交わし、やがて振り返って合図する。


 エルセリアはアッシュの腕を支えながら石段を上り、ゆっくりと開かれた扉の向こうへと足を踏み入れた。

 出迎えたのは頭巾をかぶった黒髪の少女で、東方風の面差しをしている。彼女は深く一礼し、静かに言った。


「どうぞ、お入りください」


 屋敷の中は暗く、家具もどれも古びていた。

 壁の隅には埃が溜まり、床には湿気の跡が残っている。

 石壁にはうっすらと苔の痕も見えた。長い間、人の気配がなかったことが一目で分かる空間だった。


 案内された部屋だけは手入れがされており、椅子も机もきれいに拭かれている。

 古さは隠せないが、暮らすには困らない程度には整えられていた。

 三人が腰を下ろすと、張り詰めていた疲労が一気に身体に広がる。


 カヴィは少女を指して紹介した。


「ミオだ」


 彼女は静かに一礼し、言葉少なに下がっていく。

 カヴィはアッシュを見て、軽い調子で問いかけた。


「どうだ? 懐かしいか?」


 だがアッシュは答えない。

 ただ視線を落としたまま、部屋の中を見ようともしなかった。

 その様子に気づいたカヴィは、すぐに話題を切り替える。


「まあ、今日はさすがに疲れたよな。

 あとでミオが温かいもの持ってくるから、それ食べて休もう」


 エルセリアはすぐに身を寄せる。

「……大丈夫? 治療する?」


「いい。君も疲れてるだろ。あとでいい」

 そう答える声は淡々としていた。


 やがてミオが戻ってきて、木の盆に載せた湯気の立つスープを三人の前に置いた。松の香りと山菜の匂いが広がる。


 カヴィは一口すすった途端、深く息を吐いた。

「はあ……生き返る」


 エルセリアも慎重に息を吹きかけながら口に運ぶ。

 山の夜気に冷えた体に、温もりがじんわりと染みていく。


 アッシュも椀を手に取るが、その指先はわずかに震えていた。

 それは寒さではない。


 ここで生きていたはずの記憶が、確かにあるはずなのに、どこか遠い。

 透明な壁を隔てているかのように、心だけが届かない感覚だった。


 食事を終えると、ミオが静かに告げる。

「二階の部屋は整えてあります。いつでもお休みください」


 カヴィは大きく伸びをした。

「やっと寝られる……」


 そのときエルセリアがふと口にする。

「……少し見て回ってもいい? ノアがいた場所、見てみたい」


「特に何もないけどな」

 アッシュは淡く答えた。


「好きに見ればいい。中は安全だ」

 それでもカヴィは肩をすくめる。


「使っていない場所は古いままですので、お気をつけください」

 ミオも付け加えた。


 二人は廊下へ出る。


 大広間は暗く、閉じられた窓の隙間から月光が細く差し込んでいた。

 アッシュは小さな灯りを持ち、迷いなく歩き出す。


 廊下には装飾らしいものは何もなく、ただ長い年月だけが残した痕跡が静かに刻まれている。

 大広間の反対側へ抜けると、そこは厨房と食料の保管室になっており、拠点として使われているだけあって、この一角だけは比較的きちんと整えられていた。


 保管室の中には乾燥肉や保存食が並べられている。

 エルセリアは軽く見渡しただけで、すぐに少し残念そうな顔をした。


「……ねえ、ノアはどの部屋で?」


 そう尋ねると、アッシュはすぐには答えず、無言のまま踵を返してホールへ戻り、階段の前で立ち止まった。

 エルセリアはそのまま二階へ上がるのかと思った。だがアッシュは階段には向かわず、その裏手へ回ると、壁際の細い扉を押し開けた。


 次の瞬間、 埃が舞い上がる。


「けほっ……!」


 むせるエルセリアを気にする様子もなく、アッシュはそのまま中へ進む。


 急で狭い階段を下りていくと、最奥に重い木の扉があった。

 それを押し開けた瞬間、冷たい空気が流れ出る。


 中は薄暗く、天井近くの細い通気口からわずかに外光が差し込んでいるだけだった。


「……どうして、ここに?」


 エルセリアの問いに、アッシュは振り返る。


「見たいんだろう。俺がいた場所」


 部屋の中央には脚の折れた机が壁にもたれかかるように置かれ、そのほかには狭すぎるベッドが一つあるだけ。

 腐りかけた木枠、薄い寝具。それ以外は何もない。


 完全な空白。


 アッシュは静かに息を吐いた。

「何もない部屋だ。がっかりしたか?」


 エルセリアは言葉を失う。

 がっかりではない。

 胸の奥を締めつけるような痛みだった。


 彼はそれに気づく様子もなく、ただ立っている。


 そのとき、上からカヴィの声が響いた。

「おーい! 二人とも何してるんだ?」


 アッシュは視線を戻し、短く言う。

「……行こう」

 エルセリアを先に上がらせ、自分も後に続く。


 灯りが一瞬、彼の顔を照らす。

 その奥で、ほんのわずかに影が揺れた。


 エルセリアは振り返る。

 そして初めて思った。


 彼が失ったのは、記憶だけではない。

 この場所で、彼は何かを失った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ