第225話 同じ道のはずなのに
翌朝。
空が明るくなり始め、庭には薄い霧が漂っていた。
外から馬の蹄の音が聞こえる。
アッシュがマントを羽織って旅館の外へ出ると、
フィリシアはすでに入口に立っていた。
数頭の馬が並び、
彼女の外套が朝風に揺れている。
「おはようございます、ノアさま」
声は昨夜と同じく、落ち着いていて節度があった。
アッシュは馬を見て言った。
「馬車ではないのか?」
「馬車は目立ちます」
フィリシアは静かに答える。
「特に今、竜騎士隊は北側を捜索しています。
馬車は検問される可能性が高い」
彼女はアッシュの方を見た。
その目に一瞬だけ不安が浮かぶ。
「……足は大丈夫ですか?」
アッシュは杖を握り、軽く足を動かした。
「馬なら問題ない。
足手まといにはならない」
その言葉を聞いた瞬間、
エルセリアの顔に不安がはっきり浮かんだ。
「えっと……私、馬に乗れなくて……」
カヴィがすぐ手を挙げた。
「じゃあ俺と相乗りだね」
エルセリアは一瞬固まり、
思わずアッシュの方を見た。
――本当は、彼と一緒に乗りたかった。
フィリシアが静かに言った。
「ノアさまの足はまだ完全ではありません。
何かあった時、二人乗りの方が危険です」
エルセリアは何も言い返せず、
小さく頷いた。
カヴィは得意そうに笑う。
「安心して。俺、乗せるの上手いから」
「先生は、乗せるのが上手いんじゃなくて、無茶な乗り方が上手いんでしょう」
フィリシアが冷静に突っ込む。
カヴィは「やれやれ」と両手を上げたが、否定はしなかった。
近くの茶色の馬には、大きな荷袋が括りつけられていた。
カヴィはわざとらしく大げさにため息をつく。
「はあ、乗客の世話に荷物持ちまで、俺ってほんと働き者の先生だなあ」
フィリシアは淡々と答えた。
「先生は普段暇すぎますから、ちょうどいい運動です」
カヴィは咳払いして降参のポーズをした。
アッシュは二人のやり取りを見ていたが、
心は重いままだった。
――昨夜、箱の中身を知った。
――アエクセリオンの死を、本当の意味で受け入れた。
――そして今、自分がかつて隠れていた山へ向かう。
エルセリアがそっと彼の近くに来る。
声は朝風に溶けるほど小さかった。
「……ノア、本当に、大丈夫?」
アッシュは彼女を見て、静かに答えた。
「君の治療が効いている。
長時間は無理だが、馬には乗れる」
エルセリアは少し安心したように頷いたが、
目の奥の不安は消えていなかった。
アッシュはフィリシアに言った。
「一緒に来ないのか?」
フィリシアはゆっくり首を振る。
「国外に長く留まるわけにはいきません。
国内にも、私が動かねばならないことが山ほどあります」
彼女は一歩前に出て、静かに言った。
「帰国後、あなたに必要なものはすべて準備します。
また連絡を取ります」
アッシュはその重みを理解し、深く頷いた。
出発の準備をしていた時、
フィリシアがふと思い出したように言った。
「もう一つ、伝えておきます」
彼女はその名前を口にした。
「――エミール」
アッシュの眉がわずかに動く。
エミール。
竜騎士団の記録官。
少なくとも、昔は知っていた名前だ。
「彼が……どうした?」
フィリシアは彼の目を見て、声を低くした。
「彼はあなたの味方です。
立場上、表立って接触はできませんが、
王国内では……何とかして手助けしてくれるはずです」
アッシュは静かに頷いた。
「覚えておく」
フィリシアは昨夜より少しだけ柔らかく微笑んだ。
「では――どうかご無事で」
アッシュは低く答えた。
「君も。ありがとう」
彼女は一歩下がり、三人が馬を引いて旅館を出るのを見送った。
朝の光が彼女の背後から差し、
金の髪が淡く光る。
彼女は門の前で静かに立っていた。
カヴィは馬に乗り、手を振る。
「はいはい二人とも、出発だよー!」
エルセリアは馬に乗ろうとして少しバランスを崩し、
カヴィが慌てて支えた。
「ほら、怖がらない。落とさないって」
エルセリアは少し赤くなったが、何も言わなかった。
アッシュも自分の馬に乗る。
左足はまだ痛むが、姿勢は安定していた。
彼が振り返ると、
フィリシアが道端に静かに立っていた。
スカートの裾が朝風に揺れている。
馬は朝霧の中へ進んでいく。
フィリシアはその場に立ったまま、
彼らの姿が丘の向こうに完全に消えるまで見送った。
やがて彼女は静かに手を胸に当てる。
――これからの道は、
もう穏やかではいられない。
彼女はそれを、誰よりも分かっていた。
フォルン宿場町を離れた時、空はまだ完全には明るくなっていなかった。
朝霧が森の間を流れ、馬の蹄が湿った地面を踏むたび、小さな水音がした。
先頭の栗毛の馬の上では、エルセリアが横向きに鞍に座っていた。
両手で前の鞍の縁をしっかり掴んでいる。
その後ろにカヴィが座り、距離を少し開けていた。
下り坂や急なカーブの時だけ、彼は軽く手を出して彼女が落ちないように支える。
エルセリアは全身が固まっていた。
「……こ、これ本当に安全なんですか……?」
カヴィは笑った。
「この馬はベテランだからね。俺たちよりよっぽど落ち着いてるよ。
力抜けばいいよ」
「が、頑張ります……!」
まるで天災に立ち向かう決意のような声だった。
だが足がずっと震えているのを見ると、全然力は抜けていなかった。
それに比べ、後ろを走るアッシュの方がよほど安定していた。
左足はまだ完全ではないが、騎乗姿勢はまっすぐで崩れない。
時折周囲の地形や道を見渡している。
――彼が知っているはずの世界。
だが、今はどこか旅人の目で見ているようだった。
カヴィの選ぶ道はとても「巧妙」だった。
山道の脇の細道を通ったかと思えば、林の縁をゆっくり進み、
時には大きな商隊の中に紛れ込み、
荷車と人混みの中で三人の存在を自然に消してしまう。
霧の残る林の縁を進みながら、アッシュは言った。
「……この辺り、詳しいな」
カヴィは振り返り、軽い調子で言う。
「お前が捕まる確率、俺とエル孃二人合わせたより高いんだよ?
巡回路を避けて遠回りしないと、三人まとめて干し麺になっちゃう」
アッシュは淡々と返す。
「例えが毎回変だ」
エルセリアは怖さをこらえながら、小さな声で聞いた。
「……干し麺って何ですか……?」
「教国にはない? 子供のおやつだよ」
カヴィが驚いた顔をする。
「……あまりおやつは食べません」
エルセリアは小さく答えた。
アッシュはそのやり取りに、ほんのわずか口元が緩んだ。
だが胸の重さは消えない。
笑って流せる種類のものではなかった。




