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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二十一章:辺境の旅路

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第224話 君に言えないこと

 カヴィとエルセリアが東側の回廊を歩いて戻ってきたとき、

 遠くにアッシュが一人、軒下に座っているのが見えた。


 紙灯籠の淡い光が彼の横顔を照らし、

 半分は夜の影に飲み込まれているように見えた。


 エルセリアは小走りで近づき、板の廊下が軽く音を立てる。

 足音に気づき、アッシュは顔を上げた。


「錦鯉は見てきたか?」

 声は静かで、感情は読み取れなかった。


「うん、すごく綺麗だった」

 エルセリアは彼の前で足を止めた。

「……一緒に見なくてよかったの?」


 アッシュは首を横に振る。


「いい」

 彼は深く息を吐いた。

 胸の奥にある何かを押し戻すような、長い息だった。

「部屋に戻ろう」


 エルセリアはすぐ、いつものように彼の腕を支える。

 アッシュは拒まなかった。

 少し離れたところで、カヴィが静かにその様子を見ていた。


 アッシュが彼の横を通るとき、彼はほんのわずかに視線を落としたが、

 カヴィの方を正面から見ることはなかった。


 エルセリアが振り向く。

「カヴィさんは戻らないんですか?」


 カヴィはいつもの軽い笑顔で答えた。

「俺はもう少し歩いてくる。先に戻ってて」


 夜風が庭を抜け、紙灯籠が揺れ、影も揺れる。

 エルセリアはアッシュを支えながらゆっくり回廊を歩いた。

 彼女は沈黙を埋めるように、小さな声で話し始める。


「私、こういう場所、初めて見たの……

 東の国って、みんなこんな建物なのかな……

 庭の灯りとか、池とか、石の並べ方とか……すごく綺麗」


 彼女はとても静かな声で話していた、

 彼を驚かせないように、気を遣っているのが分かる。


 だが、アッシュは答えなかった。

 彼の頭の中には、まだフィリシアの言葉が残っていた。


 ――『ノアさま、その箱をお手元に置かれますか?』

 彼は『 はい』と答えた。


 フィリシアは言った。

 ――『教国も王国も、それを狙っています。

   特に……あなたの側にいる聖女は』


 言葉よりも、彼女の目の方が強く語っていた。

 危険です。


 その時、アッシュはただ低く答えた。

『 ……それでも、これは手元に置いておく』


 フィリシアは少し黙り、

 そして最後にこう言った。

『……どうか、十分にお気をつけください』


 そして立ち去ろうとした。

 数歩歩いたところで、アッシュは思わず彼女を呼び止めた。

『 ……ありがとう。

 これを、持ち帰ってくれて』


 フィリシアは一度立ち止まり、振り返った。

 そしてただ、静かに頷いただけだった。


 何も言わなかった。


 それから彼はずっと、庭に座っていた。



 現在。

 エルセリアはアッシュを部屋の前まで送った。


 アッシュは戸の枠に手をついて立ち、彼女を見る。

「おやすみ、エル」


 エルセリアは少し眉を寄せた。

「……何か、話したいことがあるんじゃない?」


 アッシュは否定しなかった。

 ただ静かに言った。


「今日は一日移動だった。疲れた。

 明日も早い。……もう休もう」


 優しい声だった。

 だが、はっきりと距離を置く響きがあった。


 エルセリアは一瞬だけ言葉を失い、

 やがて小さく頷いた。

「……うん。おやすみ」


 アッシュが部屋に入るのを見届けてから、

 彼女はゆっくりと廊下を戻っていった。



 アッシュは戸を閉め、

 簡素な畳の部屋に一人座った。


 木箱を机の上に置き、静かに腰を下ろす。


 胸が鈍く痛む。

 傷ではない。


 あの赤い結晶がもたらす、重い痛みだった。

 彼は襟元を緩め、胸から竜の鱗を取り出した。


 白い鱗は淡い青い光を帯び、

 静かな部屋の中で、呼吸するように明滅している。


 彼は低く呟いた。

「……お前、名前は何て言うんだ」


 夜風が障子をかすかに揺らす。


「お前は……今、どこにいる」


 指先で鱗の縁をなぞる。

 その瞬間、かつてそこにあった体温に触れたような気がした。


 アッシュは目を閉じる。

 ――フィリシアに、もう一度聞くべきか。


 答えは出なかった。

 そして、自分がまだそれを聞く準備ができているのかも分からなかった。


 部屋には、彼の呼吸と竜鱗の淡い青い光だけがあった。


 ――リゼリア。


 その名前が、細い針のように胸に刺さる。


 聞きたい。

 だが、今は聞けない。


 エルセリアはまだ何かを隠している。

 フィリシアが戻ってきたことも、知られてはいけない。

 カヴィがわざとエルセリアを離したことも、偶然ではない。


 アッシュは深く息を吸い、鱗を強く握った。


 急ぐな。

 確実な時を待て。


 彼は横になり、天井を見つめる。


 ――俺は、何を忘れた。


 廊下を夜風が通り過ぎる。

 彼は目を閉じた。


 明日から、自分のやり方で全部確かめる。



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