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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二十章:忘却の村

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第215話 村の別れ

 広場の焚き火は大きく燃え上がり、夜風に乗って薪の香りが村じゅうに広がっていた。

 猪肉が火の上でじゅうじゅうと音を立て、村人たちは輪になって座り、酒を飲む者、鍋を運ぶ者、笑いながら話す者、それぞれ好き勝手に動き回っている。久しぶりに村全体が祭りのような賑やかさに包まれていた。


 エルセリアは少し静かな場所に皿を持って座っていた。

 どこか緊張したような、それでいて少しだけ期待しているような顔をしている。


 アッシュが自分の方へ歩いてくるのを見て、彼女は一瞬だけ目を見開いた。まさか彼が自分の隣に座るとは思っていなかったのだろう。


 アッシュは座ると、彼女が皿を持つ指先を見て、少し低い声で言った。


「……今まで気づかなかった」

 少し言葉を探すように間を置き、言い直す。

「もし本当に、君が言っていたようなことを一緒に経験してきたなら……怖かっただろうな。君は俺を世話していたのに、俺は君を疑って……」


 最後の言葉は、後悔を押し殺すような声音だった。

 エルセリアは驚いたように顔を上げたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。


「私は怖くありませんでした」

 彼女は小さく首を振り、彼の横顔を見つめる。

「あなたは忘れてしまいましたけど……それでも、私の好きなあなたのままでした。人のことを考えて、気遣いができて、優しくて」


 アッシュは眉をひそめる。


「俺はそんな人間じゃない。竜に乗って戦って、人を殺してきただけだ。手は血だらけだ」


 淡々とした口調だった。

 事実を述べているだけ、という声だった。


 竜という言葉を口にした瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。

 ――教国と王国の戦争。

 あれほど大きな出来事を、エルは一言も言わなかった。


 彼は横目で彼女を見る。

「そういえば、君は言わなかったな。教国と王国が戦ったこと」


 エルセリアは少し首を傾げ、本当に分からないという顔をした。

「それは……そんなに重要なことなんですか?」


 アッシュは口を開きかけて、何と答えればいいのか分からなくなり、言葉を飲み込んだ。

 ちょうどその時、村人の一人が笑顔で焼き上がった猪の脚を持ってきて、二人の前にどんと置いた。


「足がまだ治ってないんだろ? 猪の脚を食べれば足も早く治るぞ!」

 そう言ってすぐ別の人に呼ばれて去っていく。


 アッシュは皺を寄せた。

「……猪の脚を食べると足が治るって、どういう理屈だ」


 エルセリアは思わず笑ってしまい、目が柔らかく細くなった。

「さっき、みんなが言ってたんです。あなた、ロアンさんより肉を切るのが上手だって」


 アッシュは少し遅れて思い出したように言った。

「あれは子供の頃の習慣みたいなものだ」


「習慣?」

 エルセリアは少し身を乗り出す。


 アッシュは焚き火を見つめながら、どこか苦い声で言った。

「ある時期……アエクセリオンは俺を一人で生活させた」


 皿の上の肉を少し押しやり、視線を遠くの闇に沈む森へ向ける。

「毎日、荒野や森に放り出されて、自分で生き延びろって言われた」


 静かな声だったが、重さがあった。

 長い間、口にしなかった記憶が火の明かりの中でゆっくり浮かび上がるようだった。


「……ずっと恨んでた……あいつが俺を選ばなければ、こんな人生にならなかったのにって」


 風が耳元を抜け、彼は空を見上げた。

 星明かりが彼の目に映り、そこにかすかな孤独が浮かぶ。


「それなのに、今になってあいつが死んだって言われても……実感がない」


 無意識に胸元に触れる。

 服の下、あの竜鱗の冷たさをまだ感じる。

 その冷たさが、何かがおかしいと訴えているようだった。


 エルセリアは彼の沈んだ様子を見て、そっと彼の腕に抱きつき、肩に頬を寄せた。


「……私がいます」

 彼女の声は、聞こえるか聞こえないかくらい小さかった。


 アッシュは少しだけ視線を落とし、彼女が寄り添っているのを見た。

 焚き火の光が彼女の髪の先を柔らかい金色に染めている。


 だが、彼はその温もりに救われたわけではなかった。

 頭の中には、別の疑問が消えずに残っていた。


 ――この竜鱗は、誰のものだ。

 ――アエクセリオンの鱗は、どこにある。


 夜は静かで、遠くから村人たちの笑い声が聞こえてくる。

 だがアッシュの胸の中の霧は、夜よりも深かった。


 その時だった。

 どん、と何かがテーブルの上に置かれる音がした。


 二人は同時に顔を上げる。


 カヴィがテーブルの横に立ち、何かを置いたところだった。

 それは見るからに強そうな酒の入った瓶だった。


 彼はいつもの軽い笑みを浮かべている。自分が何かを邪魔したという自覚はまったくなさそうだった。


「やあやあ、邪魔してないよな?」

 まったく悪びれた様子もなく言い、瓶を二人の方へ押す。

「持ち込みの酒だ。飲め」


 アッシュはあっさり答えた。

「俺は酒は飲まない」


 カヴィは大げさに驚いてみせる。

「飲まない? 本当か? 王国じゃ『竜は酒好きで、竜騎士も酒飲みばっかり』って有名な話だぞ?」


 アッシュは眉を寄せる。

「アエクセリオンは酒を好まなかった。俺も飲む習慣はない。そんな話も聞いたことがない」


 カヴィは豪快に笑い、自分で酒を注いで一気に飲み干し、そのまま椅子にだらしなく座り込んだ。片脚を椅子に乗せ、まるで自分の家の居間にでもいるような態度だ。


 エルセリアはその様子を見て、小声で言った。

「カヴィさん……酔っているのでは?」


「酔ってる?」

 カヴィはもう一杯を一気に飲み干し、杯をテーブルに叩きつける。


「まだまだだ――ちょっと強いな、これ」

 そう言いながら、また酒を注ぐ。


 アッシュはその様子を見ながら、彼が本当に酔っているのか、それとも酔ったふりをしているのか判断できなかった。

 そしてエルセリアの方へ向き直り、静かに言った。

「……決めた。明日、カヴィと一緒にここを出る」


 エルセリアの体が固まった。

「どこへ……?」


「南へ。数日の距離だ。こいつが仕えている主に会いに行く」


 エルセリアはスカートを握りしめ、彼の言葉の続きを待つように見つめる。

 アッシュは一度カヴィの方を見た。彼はもう酒杯を揺らしながら半分寝そうな顔をしている。

 それから視線を落とし、エルセリアに尋ねた。


「エル……君はどうする」


 エルセリアは彼の目を見つめ、静かに言った。

「どうして、ここに一緒に残ることはできないんですか? みんな助けてくれます……メレーンさんたちも、とても優しいです」


 アッシュは首を振った。

「王国は人が見つからなければ、また別の者を送ってくる。この村はそのうち危なくなる」


 エルセリアは唇を噛んだ。

「私は……カヴィさんを完全には信じられません。もう少し考えてほしいです」


 アッシュは数秒黙ってから言った。


「……君はここに残ってもいい」

 ゆっくりと言葉を選びながら続ける。

「俺はカヴィと行く。そのあと、また戻ってくる」


 「だめです!」エルセリアは思わず立ち上がった。

 自分でも驚いたようにすぐ座り直し、小さく謝る。

「ごめんなさい……でも、あなたと離れたくないんです」


 アッシュが何か言おうとしたその時、横から人影がぐらりと傾いた。

 カヴィがテーブルに突っ伏し、酒杯を握ったまま完全に眠り込んでいた。


 アッシュ:「……」

 エルセリア:「……」


 アッシュは額を押さえる。

「……こいつ、本気か」


 エルセリアはカヴィを見てから、またアッシュを見る。


「ノア……本当に彼を信じるんですか? 素性も分からないし、さっきの話も……本当に大丈夫なんですか」

 指先がわずかに震えている。

 何かを必死に堪えているようだった。

「あなたが……私を信じなくなったから、ああ言ったのかと思って……」


 アッシュは首を振った。


「完全に信じているわけじゃない」

 声は冷静で、感情を抑えていた。

「だが、選べる道が少ない。あいつも全部本当のことを言っているとは思っていない。君も同じだ。

 だが両方の話で一致しているのは、王国が俺を追っているということだ。

 なら、ここにはいられない。」


 少し間を置く。


「それに……あいつの背後にいる人物には会っておきたい。俺の運命を決めるのは王国だが、王国は俺にとって不利だ。

 だから、今接触できる相手は、あいつが言っていたその人物だけだ」


 エルセリアは何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。


 結局、小さく頷く。

「……私も一緒に行きます」


 彼女は手を伸ばし、そっとアッシュの手の上に自分の手を重ねた。

「あなたと……ずっと一緒にいたい」


 焚き火の光が彼女の睫毛の上で揺れ、指先はわずかに温かかった。

 アッシュは手を振り払うことも、握り返すこともしなかった。

 ただ静かにそのままにして、前方を見た。


 テーブルの上ではカヴィが完全に眠り込んでいる。

 規則正しい寝息は、何百年も眠っていたかのように深かった。


 ――明日から、面倒なことになりそうだ。

 アッシュはそう思いながら、揺れる火を黙って見つめていた。

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