第214話 村の夕餉
二人は村の中央の広場へ向かった。
広場といっても、村の中で少しだけ平らに開けた場所に過ぎない。中央には古い井戸があり、その横には粗末な焚き火台が組まれ、木の枠の上には解体されたばかりの猪肉が並べられていた。
男たちは薪や机や椅子を運び、女たちは別の大きな火の上で大鍋のスープを煮込んでいる。
野菜を刻む者、パン生地をこねる者、皿を並べる子供たち。子供たちは作業をしながらも、ちらちらと猪肉を見ては興奮した様子で笑っていた。
エルセリアは二人の姿に気づくと、手にしていたパン籠をすぐに置き、小走りで近づいてきた。
「……戻ってきたんですね」
安堵と緊張が混じった声だった。
カヴィは先に軽く手を上げて挨拶する。
「やあ、エル嬢」
軽い口調で、冗談のようでもあり、反応を探っているようでもあった。
エルセリアは少しだけ驚いたような顔をしたが、深くは追及しなかった。
ただ丁寧に頭を下げて言う。
「先ほどは、竜騎士の方を引き離してくださってありがとうございました。村で偶然お会いしたとはいえ、ご挨拶もできず失礼しました。差し支えなければ、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
カヴィは肩をすくめる。
「君が聞かなかったから、俺も言わなかっただけだ。まあ、今聞くならちょうどいいタイミングだな」
そして南方の礼儀作法らしい仕草で、胸の前に手を当て、わずかに腰を折った。
「セラウィン国の国師、カヴィだ」
エルセリアが自分の名を名乗ろうとした瞬間、彼は手を軽く上げてそれを止める。
「君の名前なら、俺たちの方がよく知ってる」
エルセリアは一瞬言葉を失い、少しだけ気まずそうに視線を落とした。
アッシュはそのやり取りを横で見ていたが、あえて何も言わなかった。
彼の視線は別の人物――猪を解体している大柄な男へ向かう。
ロアンだった。
「ロアンに挨拶してくる」
アッシュが言うと、エルセリアはすぐに頷いた。
途中、何人かの村人が声をかけてきた。
どの声も明るく、どこか送別のような空気が混じっている。
やがてロアンのところへ辿り着いた。
「……森で俺たちを見つけたのは、あなただと聞いた」
アッシュがそう言うと、ロアンは手を止め、顔を上げて豪快に笑った。
「そうそう! 今こうして歩けるようになってるなら、助けた甲斐があったってもんだ」
額の汗を拭きながら、思い出すように話し始める。
「その日、俺は狩りに出ててな。そしたら森の中をふらふら歩いてる嬢がいてさ、最初は妖精か何かかと思ってびっくりした」
エルセリアに軽く顎を向ける。
「あとであんたらが川に流されてきたって分かってな、急いで背負って村まで連れて帰ったんだ」
その時、横からカヴィが口を挟んだ。
「森の中? 川辺じゃなくて?」
エルセリアの肩がはっきりと震えた。
だがロアンは気づかず、何気なく答える。
「そうだよ。森の斜面のあたりだ。川からはちょっと離れてる」
そしてそのまま、自分が普段どれだけ森の奥まで狩りに行くか、何日も村に戻らないこともあるとか、今日は竜まで見たとか、どんどん話が広がっていく。
「ロアン! まだ猪切り終わってないぞ!」
横から声をかけられて、ようやく自分の作業を思い出したらしい。慌てて包丁を見下ろす。
アッシュが言った。
「手伝おうか」
ロアンは目を丸くした。
「え? あんたが? いや、その……あんまりこういうのやる人には見えないけど」
「多少はやったことがある。道具を貸してくれればいい」
ロアンはすぐに包丁とまな板を渡した。
カヴィはその様子を面白そうに眺めながら言う。
「俺は絶対無理だな。旅の間は乾き物かじってるだけだ」
そう言いながら広場の方を見回す。
「俺は何か別の雑用でも探してくるか」
「私も手伝います」エルセリアも言った。
彼女は一度アッシュの方を見て、問題なさそうだと確認してから、カヴィと一緒に人の多い方へ向かっていった。
広場の端には、再びアッシュとロアンだけが残る。
火の光が揺れ、二人の影も地面の上で揺れていた。猪肉からは生暖かい血の匂いが立ちのぼる。
アッシュは手際よく肉を切り分けながら、低い声で言った。
「……とにかく、助けてくれてありがとう」
ロアンは少し照れたように後頭部を掻き、笑った。
「そんな改まらなくていいって。たまたま森にいただけだ。運が良かったんだよ、お互いに」
そしてアッシュの包丁さばきを見て、目を輝かせた。
「それ、『多少やったことある』ってレベルじゃないだろ? 俺が知ってる猟師より綺麗な切り方だぞ」
アッシュは答えず、肉をひっくり返してまた切り始める。
ロアンは相変わらず話し続ける。
「うちの村は普段ほんと静かでな、外の人なんてほとんど来ないんだ。あんたら二人に、カヴィさんまで来て、一気に賑やかになったよ」
アッシュは何気ない口調で聞いた。
「俺たち以外に、外から来た人はいないのか」
「いないなあ」ロアンは首を振る。
「俺はよく森を歩くから、足跡とか、人が通った跡とか、見ればだいたい分かるんだ」
そして急に思い出したように声を弾ませる。
「そうだ! 今日の竜も俺が最初に見つけたんだぞ! 近くに降りたんだ。すぐ見に行った」
誇らしげに胸を張る。
「あの騎士は、その降りた場所で俺に村のことを聞いてきたんだ。それで俺が村まで案内した。
……あの騎士、あんたを探してたのか?」
言った直後、慌てて手を振る。
「いや、あんたが悪い奴だって言いたいわけじゃないぞ。ちょっと聞いてみただけだ」
アッシュの包丁の動きが一瞬だけ止まったが、すぐにまた動き出す。
「……あの騎士が、最初に探しに来た人間か?」
「そうだな」ロアンは迷わず答えた。
アッシュは続けて聞く。
「じゃあ……カヴィは? 彼はここに来た理由を何か言っていたか」
ロアンは少し考えた。
「うーん、カヴィさんが来たとき、俺ちょうど何日か森の奥に行ってたんだよ。で、帰ってきた日に、森の中であんたらを見つけた」
アッシュは顔を上げず、そのまま聞いている。
ロアンは思い出すように言った。
「その時、あんたは地面に倒れて動かなかった。顔も真っ白で、ほんと死んでるかと思ったぞ。でもまだ意識はあった。エルの方は、必死にあんたを抱えてたよ。『助けてください』って」
額の汗を拭きながら、自然な調子で続ける。
「あとで雪崩に遭ったって聞いた。ほんと運が良かったな」
その言葉に、アッシュの胸がわずかに動く。
――雪崩の時点で記憶を失っていたのなら、なぜ自分は森の奥にいた?
――最初の話では、追手から逃げていて崖から落ちて記憶を失ったと言っていたが、それは違うと彼女自身が認めた。
――今日は、雪崩の時に怪我をしたと言った。なら、川に流されたはずの自分たちが、なぜ森の中で見つかった?
その間に、何があった。
眉間に小さな皺が寄る。
ロアンはそんな変化には気づかず、気楽に彼の肩を叩いた。
「覚えてなくても仕方ないって。失憶したんだろ? こういうのは、だいたいそのうち思い出すもんだ」
少し考えてから、付け加える。
「でも雪崩に遭って、川に流されるなんて、相当怖かっただろうな。エルもきっと相当怖かったはずだ」
アッシュはロアンの言葉を黙って反芻する。
――混乱して、嘘をついた。
――怖くて、何かを隠そうとした。
そう考えれば、辻褄は合う。
だが、それだけだろうか。
猪肉はほとんど切り終わっていた。
村人たちがやって来て、切った肉を大皿に乗せ、焚き火の方へ運んでいく。
そこへメレーンが早足でやって来て、アッシュが包丁を持っているのを見るなり眉を吊り上げた。
「ロアン! なんで客にこんなことさせてるんだい!」
ロアンは慌てて弁解する。
「俺一人じゃ切り終わらなかったんだよ……」
「それでも怪我人にやらせることじゃないだろ!」
二人が言い合いを始める。
アッシュは気にしなくていいと言おうとしたが、メレーンはもう彼の手から包丁を取り上げていた。
「もういいよ、あとはこっちでやる。あんたは座って休んでな。すぐご飯だ」
ロアンが横でぼそっと言う。
「でもこの人、俺より切るの上手いんだよな……」
「それならあんたが恥ずかしいと思えよ!」
ぱしん、と頭を叩かれて、ロアンが情けない顔をする。
アッシュは苦笑して一歩下がり、素直に作業を譲った。
焚き火の光が人々の間で揺れ、村の夜は温かく、賑やかに更けていった。




