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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二十章:忘却の村

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第214話 村の夕餉

 二人は村の中央の広場へ向かった。

 広場といっても、村の中で少しだけ平らに開けた場所に過ぎない。中央には古い井戸があり、その横には粗末な焚き火台が組まれ、木の枠の上には解体されたばかりの猪肉が並べられていた。


 男たちは薪や机や椅子を運び、女たちは別の大きな火の上で大鍋のスープを煮込んでいる。

 野菜を刻む者、パン生地をこねる者、皿を並べる子供たち。子供たちは作業をしながらも、ちらちらと猪肉を見ては興奮した様子で笑っていた。


 エルセリアは二人の姿に気づくと、手にしていたパン籠をすぐに置き、小走りで近づいてきた。


「……戻ってきたんですね」


 安堵と緊張が混じった声だった。

 カヴィは先に軽く手を上げて挨拶する。


「やあ、エル嬢」

 軽い口調で、冗談のようでもあり、反応を探っているようでもあった。


 エルセリアは少しだけ驚いたような顔をしたが、深くは追及しなかった。

 ただ丁寧に頭を下げて言う。


「先ほどは、竜騎士の方を引き離してくださってありがとうございました。村で偶然お会いしたとはいえ、ご挨拶もできず失礼しました。差し支えなければ、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


 カヴィは肩をすくめる。


「君が聞かなかったから、俺も言わなかっただけだ。まあ、今聞くならちょうどいいタイミングだな」

 そして南方の礼儀作法らしい仕草で、胸の前に手を当て、わずかに腰を折った。

「セラウィン国の国師、カヴィだ」


 エルセリアが自分の名を名乗ろうとした瞬間、彼は手を軽く上げてそれを止める。

「君の名前なら、俺たちの方がよく知ってる」


 エルセリアは一瞬言葉を失い、少しだけ気まずそうに視線を落とした。


 アッシュはそのやり取りを横で見ていたが、あえて何も言わなかった。

 彼の視線は別の人物――猪を解体している大柄な男へ向かう。


 ロアンだった。


「ロアンに挨拶してくる」

 アッシュが言うと、エルセリアはすぐに頷いた。



 途中、何人かの村人が声をかけてきた。

 どの声も明るく、どこか送別のような空気が混じっている。


 やがてロアンのところへ辿り着いた。


「……森で俺たちを見つけたのは、あなただと聞いた」


 アッシュがそう言うと、ロアンは手を止め、顔を上げて豪快に笑った。


「そうそう! 今こうして歩けるようになってるなら、助けた甲斐があったってもんだ」

 額の汗を拭きながら、思い出すように話し始める。

「その日、俺は狩りに出ててな。そしたら森の中をふらふら歩いてる嬢がいてさ、最初は妖精か何かかと思ってびっくりした」


 エルセリアに軽く顎を向ける。


「あとであんたらが川に流されてきたって分かってな、急いで背負って村まで連れて帰ったんだ」


 その時、横からカヴィが口を挟んだ。

「森の中? 川辺じゃなくて?」


 エルセリアの肩がはっきりと震えた。

 だがロアンは気づかず、何気なく答える。


「そうだよ。森の斜面のあたりだ。川からはちょっと離れてる」

 そしてそのまま、自分が普段どれだけ森の奥まで狩りに行くか、何日も村に戻らないこともあるとか、今日は竜まで見たとか、どんどん話が広がっていく。


「ロアン! まだ猪切り終わってないぞ!」

 横から声をかけられて、ようやく自分の作業を思い出したらしい。慌てて包丁を見下ろす。


 アッシュが言った。

「手伝おうか」


 ロアンは目を丸くした。

「え? あんたが? いや、その……あんまりこういうのやる人には見えないけど」


「多少はやったことがある。道具を貸してくれればいい」


 ロアンはすぐに包丁とまな板を渡した。

 カヴィはその様子を面白そうに眺めながら言う。


「俺は絶対無理だな。旅の間は乾き物かじってるだけだ」

 そう言いながら広場の方を見回す。

「俺は何か別の雑用でも探してくるか」


「私も手伝います」エルセリアも言った。

 彼女は一度アッシュの方を見て、問題なさそうだと確認してから、カヴィと一緒に人の多い方へ向かっていった。


 広場の端には、再びアッシュとロアンだけが残る。

 火の光が揺れ、二人の影も地面の上で揺れていた。猪肉からは生暖かい血の匂いが立ちのぼる。


 アッシュは手際よく肉を切り分けながら、低い声で言った。

「……とにかく、助けてくれてありがとう」


 ロアンは少し照れたように後頭部を掻き、笑った。

「そんな改まらなくていいって。たまたま森にいただけだ。運が良かったんだよ、お互いに」


 そしてアッシュの包丁さばきを見て、目を輝かせた。

「それ、『多少やったことある』ってレベルじゃないだろ? 俺が知ってる猟師より綺麗な切り方だぞ」


 アッシュは答えず、肉をひっくり返してまた切り始める。


 ロアンは相変わらず話し続ける。

「うちの村は普段ほんと静かでな、外の人なんてほとんど来ないんだ。あんたら二人に、カヴィさんまで来て、一気に賑やかになったよ」


 アッシュは何気ない口調で聞いた。

「俺たち以外に、外から来た人はいないのか」


「いないなあ」ロアンは首を振る。

「俺はよく森を歩くから、足跡とか、人が通った跡とか、見ればだいたい分かるんだ」


 そして急に思い出したように声を弾ませる。

「そうだ! 今日の竜も俺が最初に見つけたんだぞ! 近くに降りたんだ。すぐ見に行った」


 誇らしげに胸を張る。

「あの騎士は、その降りた場所で俺に村のことを聞いてきたんだ。それで俺が村まで案内した。

 ……あの騎士、あんたを探してたのか?」


 言った直後、慌てて手を振る。

「いや、あんたが悪い奴だって言いたいわけじゃないぞ。ちょっと聞いてみただけだ」


 アッシュの包丁の動きが一瞬だけ止まったが、すぐにまた動き出す。

「……あの騎士が、最初に探しに来た人間か?」


「そうだな」ロアンは迷わず答えた。


 アッシュは続けて聞く。

「じゃあ……カヴィは? 彼はここに来た理由を何か言っていたか」


 ロアンは少し考えた。

「うーん、カヴィさんが来たとき、俺ちょうど何日か森の奥に行ってたんだよ。で、帰ってきた日に、森の中であんたらを見つけた」


 アッシュは顔を上げず、そのまま聞いている。

 ロアンは思い出すように言った。


「その時、あんたは地面に倒れて動かなかった。顔も真っ白で、ほんと死んでるかと思ったぞ。でもまだ意識はあった。エルの方は、必死にあんたを抱えてたよ。『助けてください』って」


 額の汗を拭きながら、自然な調子で続ける。

「あとで雪崩に遭ったって聞いた。ほんと運が良かったな」


 その言葉に、アッシュの胸がわずかに動く。


 ――雪崩の時点で記憶を失っていたのなら、なぜ自分は森の奥にいた?

 ――最初の話では、追手から逃げていて崖から落ちて記憶を失ったと言っていたが、それは違うと彼女自身が認めた。

 ――今日は、雪崩の時に怪我をしたと言った。なら、川に流されたはずの自分たちが、なぜ森の中で見つかった?

 その間に、何があった。


 眉間に小さな皺が寄る。

 ロアンはそんな変化には気づかず、気楽に彼の肩を叩いた。


「覚えてなくても仕方ないって。失憶したんだろ? こういうのは、だいたいそのうち思い出すもんだ」

 少し考えてから、付け加える。

「でも雪崩に遭って、川に流されるなんて、相当怖かっただろうな。エルもきっと相当怖かったはずだ」


 アッシュはロアンの言葉を黙って反芻する。


 ――混乱して、嘘をついた。

 ――怖くて、何かを隠そうとした。


 そう考えれば、辻褄は合う。

 だが、それだけだろうか。


 猪肉はほとんど切り終わっていた。

 村人たちがやって来て、切った肉を大皿に乗せ、焚き火の方へ運んでいく。


 そこへメレーンが早足でやって来て、アッシュが包丁を持っているのを見るなり眉を吊り上げた。

「ロアン! なんで客にこんなことさせてるんだい!」


 ロアンは慌てて弁解する。

「俺一人じゃ切り終わらなかったんだよ……」


「それでも怪我人にやらせることじゃないだろ!」

 二人が言い合いを始める。


 アッシュは気にしなくていいと言おうとしたが、メレーンはもう彼の手から包丁を取り上げていた。


「もういいよ、あとはこっちでやる。あんたは座って休んでな。すぐご飯だ」


 ロアンが横でぼそっと言う。

「でもこの人、俺より切るの上手いんだよな……」


「それならあんたが恥ずかしいと思えよ!」

 ぱしん、と頭を叩かれて、ロアンが情けない顔をする。


 アッシュは苦笑して一歩下がり、素直に作業を譲った。

 焚き火の光が人々の間で揺れ、村の夜は温かく、賑やかに更けていった。

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