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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二十章:忘却の村

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第213話 進む先

 外では風向きが少し変わり始めていた。

 メレーンの家の古い木壁が風を受けてかすかに鳴り、夕暮れの光が斜めに差し込んで、部屋の中に薄い橙色の塵をかぶせたように見える。


 カヴィは椅子の背にもたれたまま、ようやく本題に入った。


「お前が連れ去られたあと、フィリシア王女はすぐ救出の手を打った」

 口調はもう軽くない。珍しく、重みのある声音だった。

「北辺境側にも手を回して、国境で奪い返すつもりだった。俺もすぐに動いて辺境へ向かったんだが……結局、間に合わなかった」


 そこで一度言葉を切り、アッシュの反応を窺う。

「教国の領内に入れられた時点で、もうこっちにはどうしようもなかった」


 アッシュは黙って聞きながら、頭の中でその話を並べていく。

 まだ核心には届いていない。だが、だからこそ今話されている部分の現実味は逆に強かった。


 カヴィはそのまま続ける。

「それから最近だが……教国と王国はアルデン凍原でぶつかった」


 アッシュは目を上げ、眉を寄せた。

「……急にか。何百年も大きく関わってこなかった二国が、俺一人のことで戦争になるのか」


 カヴィは深く息を吸った。


「関係ある部分もあるし、ない部分もある」

 ゆっくりと、言葉を選ぶように続ける。

「お前が教国にいた時、ちょうど第二王子も教国に入っていた」


 アッシュの指先がわずかに強張る。


「公に出た話では――お前が聖女を連れ去ったことになっている。だから教国は第二王子を人質に取り、『お前と聖女を交換しろ』と要求した」


 アッシュはすぐには何も言えず、乾いた声でようやく返した。

「……つまり結局、全部、俺がエルセリアを連れ去ったことから始まったと?」


 カヴィは首を振る。

「そこは俺が集めた情報ってだけだ。お前が本当に自分の意思でやったのか、どうしてそうなったのかまでは、お前本人にしか分からない」


 アッシュの胸の奥を、一つの考えがよぎる。

 ――エルセリアの言っていたことは、本当なのか。


 彼はそこで息を整え、話題を変えた。

「戦況は」


 カヴィは肩をすくめ、分かりきったことだと言いたげに笑った。

「王国の勝ちだよ。第二王子は無事救出された。ついでに軍事力も見せつけた上で、最後は『仁義ある国』を演じて、聖女を送り返す形になった」


 アッシュは低く、ゆっくりと後を継ぐ。

「……その護送役が俺で、途中で事故が起きた」


 カヴィは頷いた。

 アッシュは眉をひそめる。


「だが彼女は、教国へ戻って儀式をするとは言ったが、戦のことは何も言わなかった」


 王国と教国が戦った。

 それほど大きなことを、彼女は一言も口にしていない。


 胸の奥が重く沈む。


「もう一つ」

 彼は続けた。「お前の話が本当なら、俺はすでに王国に捕まっていたことになる。しかも……第二王子の功績として」


 カヴィはあっさりと答えた。

「表向きには、そうなる」


 その答えを聞いた瞬間、アッシュの胸の中で何かが鈍く鳴った。

 救われ、連れ去られ、取り戻され、護送され――そのすべての中心に自分がいたはずなのに、その記憶がまるごと抜け落ちている。


 カヴィは小さく息をつき、椅子に深くもたれた。

「一番予想外だったのは、お前が記憶を失ってたことだ。しかも、ちょうど竜王が死んだあとの記憶だけ、綺麗に抜けてる」


 そこでわざとらしく笑ってみせる。

「いやあ、すごい偶然だよな」


「全然笑えない」アッシュは冷たく返した。


「分かってるさ」

 カヴィは両手を上げてみせる。「それで、お前はどうする? 王国がグレン一人だけで探してるとは思えないが」


 アッシュは数秒黙り、それから顔を上げた。


「――フィリシアに会わせてくれ」


 カヴィは一瞬だけ目を見開き、それからゆっくり笑った。

 からかいでも嘲りでもない。ようやく前へ踏み出したな、とでも言いたげな笑みだった。

 彼は自分の腿を軽く叩き、話をまとめるように言う。


「話が早くて助かる。じゃあ、決まったなら急いだ方がいい」

 立ち上がりかけて、ふとアッシュの左脚に視線を落とし、眉を少し上げる。

「……王女は今、フォルン商隊宿にいる。南へ数日ってところだ。商隊取引の名目で滞在してるが、セラウィンを長く離れるわけにもいかない」


 アッシュもそれを聞きながら、静かに立ち上がった。


「俺も、もうこの村にはいられない」

 声は大きくないが、迷いのない響きだった。

「何が起きたのか分かるまでは、王国の手に戻りたくない」


 エルセリアとカヴィ、二人の話は食い違っている。それでも一点だけは共通していた。

 ――自分は今も王国に追われている。

 ならば、王国と距離を取るのが今のところ最も妥当な判断だった。


 カヴィは扉のところで足を止め、振り返って横目で彼を見る。

「で、その聖女はどうする? まだ連れてくのか?」


 アッシュは目を逸らさなかった。

「……それは本人に聞く」


 カヴィは口笛でも吹きそうな顔で笑い、扉を開けた。

 外の光が部屋に流れ込む。二人が外へ出ると、メレーンがすぐ気づいて、足早に近づいてきた。


 アッシュが先に尋ねる。

「エルは?」


「みんなと一緒に晩ごはんの支度だよ」

 メレーンはにこやかに答えた。

「あんたたちの話、長くなりそうだったから、こっちは邪魔しないでおこうと思ってね」


 それから少し嬉しそうに付け加える。


「村の連中も、あんたたちがもうすぐ出ていくんじゃないかって分かってるみたいでね、せめて最後に何か食べさせようって話になったんだよ。ロアンがちょうど大きな猪を二頭も仕留めてきたから、腹いっぱい食べられるさ」


 それを聞いた途端、カヴィの目が子どものように輝いた。


「おお、それは最高だな。ありがとう、婆さん。みんなにも礼を言っといてくれ」

 そう言って少し離れた場所にいる村人へ大きく手を振ると、向こうも笑って手を振り返してくる。


 アッシュもメレーンに向かって軽く頭を下げた。

「この数日……世話になった」


「よしなよ、そんな改まって」

 メレーンは笑って手を振ったが、目元には少し寂しさが滲んでいた。


「こんな村でできることなんて、たかが知れてるけど、あんたたちが来てから少し賑やかになったんだ。誰なのかなんて聞かないし、事情があるのも分かってる。でも、やっぱりいざ行くとなると寂しいもんだねえ」


 彼女はエプロンを軽く叩き、外の様子を一度見てから言った。

「先に向こう手伝ってくるよ。あんたはゆっくり来な」


 そうして去っていき、またその場にはアッシュとカヴィだけが残る。


 カヴィはわざとらしく半身になり、芝居がかった丁寧さで片手を差し出した。

「どうぞ、殿下。お運びいたしましょうかぁ?」


 からかっているのは分かっていた。

 アッシュは横目で一度だけ睨んだが、言い返さず、そのまま体重を少し預ける。


 カヴィはそれだけで面白そうに笑った。

「記憶なくしても、性格は大して変わらないんだな」


 アッシュは反論するのも面倒になって、小さく言う。

「……行くぞ」


 二人の足音が土の上で揃い、賑やかな灯りの方へ向かっていった。

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