第212話 交錯する証言
扉を叩く音は、板が割れそうなほど激しかった。
エルセリアはびくりと肩を震わせ、驚いた鹿のようにアッシュの袖を掴む。
返事をする間もなく、扉は押し開けられた。
入ってきた人物は、アッシュの予想どおりだった。
カヴィ。
まるで何事もなかったかのように手をひらひら振りながら中へ入り、場違いなほど気楽な声で言う。
「婆さんには話してある。もう少しこの家、借りるぞ」
そう言ってから、彼は二人の間に流れる空気を一度ゆっくり見回し、口元をわずかに歪めた。
「どうした? 邪魔したか? それとも……もう話は終わっちゃった?」
アッシュは彼をまっすぐ見上げ、静かに言った。
「カヴィ。そろそろ、君も本当のことを話す番だ」
カヴィは大げさに肩をすくめ、濡れ衣を着せられたような顔でため息をつき、適当な椅子に腰を下ろした。
「この家、茶はないのか? 前もここでお前と茶を飲みながら話した気がするんだがな。懐かしいなあ」
エルセリアが少し驚いたように目を瞬かせ、思わず立ち上がる。
「お茶は……ありません。水なら」
カヴィが何か言う前に、アッシュが口を開いた。
「用意しなくていい。エルセリア、外へ出てメレーンさんと一緒にいてくれ」
エルセリアはスカートの布をぎゅっと握ったまま、動かなかった。
視線がアッシュとカヴィの間を行き来し、最後にアッシュの方へ落ちる。
「……私、ここにいたい。一緒に聞かせて」
問い詰める声ではなく、不安を押し殺した声だった。
アッシュは首を横に振る。口調は強くないが、はっきりと線を引いていた。
「まずは、俺一人で聞きたい」
エルセリアは目を伏せ、長い睫毛がかすかに震えた。
「……分かった。気をつけて」
最後にカヴィを一度だけ睨むように見てから、扉を開けて外へ出る。
「まあまあ、俺は人食いじゃないぞ。君の旦那を取って食ったりしないって」
カヴィは子供をからかうように笑ったが、エルセリアは何も言い返さず、そのまま外へ出て行った。
扉の外から、メレーンの声が聞こえる。
「どうしたんだい、エル。顔が真っ白じゃないか。ほら、こっちに座りな」
声は次第に遠ざかっていき、やがて静かになった。
扉が閉まり、家の中には二人だけが残る。
灯りの小さな音が、やけに大きく聞こえた。
アッシュは長く息を吐き、額に手を当てた。
カヴィはそんな彼を眺めながら、首を傾ける。
「どうした? 彼女の嘘、さっきは突き崩さなかったくせに、今になって後悔してるのか?」
アッシュは首を横に振る。
「違う」
手を下ろし、静かな目で彼を見る。「本当に、あの期間のことを覚えていないんだ。いつか記憶が戻ったとき、もっと後悔をするのは嫌だ」
カヴィの笑みが少しだけ薄れた。足を伸ばし、椅子に深く腰をかけ直す。
アッシュは姿勢を正し、真正面から彼を見る。
「君の背後にいるのは、誰だ」
カヴィはもうはぐらかさなかった。
初めて、冗談の色のない声で答える。
「フィリシア王女だ」
室内の空気が一瞬止まる。
アッシュの目がわずかに動いた。
「……セラウィンの王女、フィリシアか」
「そうだ」
カヴィは淡く笑う。「もっとも、お前は俺と会ったことすら忘れてるみたいだから、彼女に会ったことも忘れてるかもしれないな」
アッシュは少し考えてから言った。
「子供の頃に一度、会ったことはある」
少し間を置いて、眉をひそめる。「……つまり、俺が忘れている期間の間に、もう一度会っているということか」
カヴィはすぐには答えなかった。
天井の梁を見上げ、記憶の断片を組み立てるように少し黙る。
「話すと少し長い」
声は今までになく慎重だった。「どこから話すか考えないとな」
やがて彼はアッシュを見直す。
その目にはもう笑いはなかった。
「いっそ――もう一度、彼女に会えばいい」
アッシュは数秒黙り、それから低く言った。
「その前に……何が起きたのか知る必要がある」
言葉が喉で少し引っかかったように間が空く。
「俺が……アエクセリオンを殺したとされた、その時から」
カヴィは眉を上げ、小さく息を吐いた。
「お前が本当にアエクセリオンを殺したのか――それは、俺たちにも分からない。王国はそう発表したがな」
そして付け加える。
「だが、お前がやっていないと思っている人間も多い。フィリシア王女もその一人だ。もっとも、俺たちセラウィンの立場では、公に王国を疑うことはできないが」
アッシュは息を吸い、率直に聞いた。
「……俺が逃げていた間のことは? 彼女は何を知っている」
カヴィは首を振る。
「ほとんど何も。お前の消え方はあまりにも綺麗すぎた。
ある日突然、手配書が出た。
――第七王子ノアディス、弑竜の罪により叛国。逃亡中。
王国が公開した情報はそれだけだ。危険人物、重大な罪人、発見次第通報すれば多額の報酬――そればかり強調されていた」
アッシュは黙り込む。
その話は、ここ数日で聞いた断片と奇妙に一致していた。
だからこそ、彼は次を尋ねる。
「それで……フィリシアは何をした」
カヴィの表情に、少しだけいつもの軽さが戻る。だが声は真面目だった。
「人脈と情報網を動かして、お前を探し始めた。助けるために、な。
それで俺が動かされた。そして……運よく、『アッシュ』という偽名を使っているお前に辿り着いた」
アッシュの呼吸が一瞬止まる。
カヴィはこめかみを軽く押さえ、少し考えるように目を細めた。
「本当は、あの時点までは全部こっちの計算通りだった」
その声には、珍しく軽口ではない重さがあった。
「俺も王女も、お前に接触できた、疑い深かったが、話は聞いてくれていた」
そこで彼は一度言葉を切る。
「だが、その時に教国が横から入ってきた」
アッシュの体がわずかに強張る。
カヴィは彼の表情を見て、彼の頭に浮かんだであろう話――
三ヶ月前、リュミエラ都市同盟、彼女と出会い、教国へ向かった――
それを察したような目をした。
アッシュは何も言わず、続きを促す。
カヴィはゆっくり続けた。
「教国の動きは異常なほど早かった。
俺も王女も、何が起きたのか理解する前に――お前はもう連れて行かれていた」
アッシュの心臓が重く落ちる。
カヴィは彼を見つめながら、言葉を慎重に選ぶ。
「しかもな。お前が連れて行かれた日は、本当に何の前触れもなかった。
予告も、交渉も、理由の説明もなし。
教国は直接動いて、お前を俺たちの目の前から連れ去った」
アッシュの指先が冷たくなる。
彼はゆっくり顔を上げ、低く、しかしはっきりと聞いた。
「確認したい。
俺は自分の意思で教国へ行ったのか――それとも、『連れて行かれた』のか」
カヴィは半秒ほど言葉を失った。
それから、慎重に口を開く。
「……その時、お前は意識を失っていた」
言葉一つ一つを選ぶような話し方だった。
「だから王女は、お前は『連れて行かれた』と判断している」
――判断している。
つまり、確定ではない。
アッシュは少し黙り、さらに踏み込む。
「では、その時何が起きた。
なぜ俺は意識を失い、そのまま教国と行動することになった?」
カヴィは息を一つ吐いた。
「お前は争いに巻き込まれて重傷を負った。
教国は治療を名目に、お前を聖堂へ運んだ。王女は翌日お前を引き取るつもりだったが、その時にはもう教国はお前を別の場所へ移していた」
カヴィはそこで言葉を止め、少し考えるように目を伏せる。
「その後、なぜお前が教国側に残ったのか、なぜ聖女と一緒に行動するようになったのか――そこはまだ話が長くなる。まずは、もっと最近の話からだ」




