第211話 嘘と本当
カヴィとグレンの足音は、やがて村道の向こうへ消えていった。
完全に気配が遠ざかったのを確認してから、アッシュはようやく握っていた剣の力を抜き、長剣を布に包んで元の場所へ戻した。胸の奥に溜まっていた息をゆっくり吐き出し、こめかみの緊張も少しだけ緩む。
振り返ると、エルセリアはまだ部屋の隅で小さく体を縮めたまま、驚いた小動物のように動かずにいた。
アッシュは歩み寄り、手を差し出す。
彼女は一瞬ためらってから、そっとその手に自分の手を重ねた。立ち上がるときもまだわずかに震えていて、アッシュは軽く支えてやる。
「カヴィが、しばらくは足止めしてくれるはずだ」
彼は低い声で言った。
エルセリアは唇を引き結び、うなずく。「……あの人、騎士の人を遠ざけようとしていたように見えた」
アッシュはそれには答えず、ただ彼女の目をまっすぐ見た。
「エルセリア」
声は静かだったが、逃げ場を与えない響きがあった。
「どこまでが嘘だ」
彼女の体が小さく固まる。
長い沈黙が二人の間に落ち、やがて彼女はゆっくり息を吸い、小さくうなずいた。
「……少し、嘘をつきました」彼女の指が膝の上で小さく握られる。
そのとき、外から足音と話し声が近づいてきた。
メレーンが慌ただしく戻ってきて、後ろから覗き込もうとする村人たちを追い払いながら言う。
「ほらほら、もう見世物は終わりだよ! 散った散った! ここで騒ぐんじゃない!」
村人たちは名残惜しそうにしながらも、メレーンの勢いに押されて散っていった。
彼女は扉を閉め、振り返ってアッシュとエルセリアを見る。
「大丈夫だったかい?」
二人は部屋から出てきた。アッシュが先に口を開く。
「すみません。俺たちのせいで――」
「そんなこと言うんじゃないよ」
メレーンは彼を軽く睨んだ。
「あんたたちが来た日から、普通の流れ者の夫婦じゃないことくらい、みんな分かってたさ。でもね、エルはいい子だし、あんたも――」
彼女はアッシュをじっと見て言った。
「無愛想だけど、悪い人間の顔じゃない」
ずいぶん率直な言い方だったが、そこには打算ではなく、ただの人の好意があった。
アッシュは何も言わず、ただその言葉を受け止めるように軽く頭を下げる。
メレーンは二人の表情を見比べ、何かを悟ったように目を細めた。
「あんたたち……もう、ここを出るつもりだね?」
アッシュは答えなかったが、その沈黙だけで十分だった。
メレーンはそれ以上追及せず、柔らかい声で言う。
「二人でちゃんと話しなさい。外の様子は私が見てる。さっきの騎士が戻ってきたら、真っ先に知らせてやる」
そう言って二人の肩を軽く叩き、安心させるように微笑んでから、静かに外へ出て行った。
家の中には二人だけが残る。
エルセリアは水を一杯汲んでアッシュの前に置いた。
アッシュはそれを受け取り、小さく言った。
「……ありがとう」
エルセリアは向かいに座り、しばらく黙っていたが、やがて何かを決めたように口を開いた。
「嘘をついたところ……全部話します」
部屋の空気が重くなる。
彼女は目を伏せたまま、ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。
「私たち……一年も一緒に逃げていたわけじゃありません」
声は落ち着いていたが、はっきりとした罪悪感がにじんでいた。
アッシュは何も言わず、ただ彼女を見る。
「本当は、三ヶ月くらいです。あなたがそれまでどう逃げていたのか、私は本当に知らないんです」
アッシュの眉がわずかに動く。予想していたことではあったが、本人の口から聞くと胸の奥に重いものが落ちた。
「あなたと出会ったのは、リュミエラ都市同盟です」
彼女は深く息を吸った。「私は巡礼の途上で……あなたは怪我をして運び込まれて、療養室で、私が治療をしました」
アッシュは黙って聞いていた。その話がどこまで本当なのか、まだ判断はつかない。ただ、彼女の語り方は、すべてを作り話にしているようには聞こえなかった。
「そのあと……一緒に教国へ戻りました。あなたが、私を護送すると言ってくれたから」
そこだけ、彼女の声が少しだけ小さくなる。聞いてほしいのか、聞かれるのが怖いのか、自分でも分からないような声音だった。
「その間に……私たち、だんだん近くなっていって」
彼女の指が膝の上でぎゅっと布を握る。「私は……私たちは、愛し合っているんだと、信じていました」
その言葉は真実のようにも、思い込みのようにも聞こえた。
アッシュは何も返さず、ただ続きを待つ。
「グラウリアに着いたあと、すぐに封印の儀式を始めるって話になって……あなたも王族として参加させられることになっていました」
彼女の声がさらに小さくなる。
「その頃のあなたは……とても苦しそうでした」
それは嘘ではない。
アッシュは彼女の目を見て、それだけは分かった。胸の奥が少しだけ締めつけられる。
エルセリアはもう一度深く息を吸い、記憶を噛みしめるように言葉を続ける。
「そのあと、聖都へ向かう途中……グラウリアを出て少ししたところで、雪崩に巻き込まれて、一緒に崖から落ちました。そこは、本当です」
それで、服装や装備があのままだった理由も、剣がきれいなままだった理由も、すべて説明がつく。
そして――グレンが言っていた「殿下が山から落ちた」という話とも一致する。
アッシュは黙ってその話を受け入れた。
「あなたは、私を庇って落ちた時に怪我をして……それで、記憶を失いました……」
その言葉を口にしたとき、彼女の声がわずかに揺れた。
彼女自身、その言葉の本当の意味を誰よりも分かっているようだった。
部屋の中が静まり返る。
エルセリアは、もう逃げないと決めた人のように、ゆっくり顔を上げた。祈るような目で彼を見る。
「ノアディス……全部本当を言わなかったのは、あなたがいくつかのことを忘れてしまっていたからです。信じてもらえないのが怖くて……それに、あなたが私のそばにいたくないと思うんじゃないかって、怖かった」
アッシュは水の入った杯を持つ手に力を込める。
彼女の嘘は、誰かを陥れるための嘘ではない。
必死に、自分を失わないための嘘だった。
だが――だからこそ、完全には信じられない。
そして彼の心には、まだ一つ大きな矛盾が残っていた。
――手配書は今も有効。
――なのに、なぜ教国は自分を王族として儀式に参加させようとしたのか。
彼はその疑問を口には出さなかった。今はまだ、聞くべき時ではないと判断した。
アッシュはゆっくり杯を置き、低い声で言った。
「エルセリア、俺は君を責めているわけじゃない」
彼の目は静かで、しかし逃げない光を宿していた。
「でも、真実を知る必要がある」
彼女の唇がわずかに震える。謝ろうとして、けれど謝罪では何も解決しないと分かっているような顔だった。
アッシュはもう一度言った。
「俺たちは今……もう後戻りできない」
その言葉が落ちた瞬間――
外から、激しく扉を叩く音が響いた。




