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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二十章:忘却の村

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第211話 嘘と本当

 カヴィとグレンの足音は、やがて村道の向こうへ消えていった。


 完全に気配が遠ざかったのを確認してから、アッシュはようやく握っていた剣の力を抜き、長剣を布に包んで元の場所へ戻した。胸の奥に溜まっていた息をゆっくり吐き出し、こめかみの緊張も少しだけ緩む。


 振り返ると、エルセリアはまだ部屋の隅で小さく体を縮めたまま、驚いた小動物のように動かずにいた。

 アッシュは歩み寄り、手を差し出す。


 彼女は一瞬ためらってから、そっとその手に自分の手を重ねた。立ち上がるときもまだわずかに震えていて、アッシュは軽く支えてやる。


「カヴィが、しばらくは足止めしてくれるはずだ」

 彼は低い声で言った。


 エルセリアは唇を引き結び、うなずく。「……あの人、騎士の人を遠ざけようとしていたように見えた」


 アッシュはそれには答えず、ただ彼女の目をまっすぐ見た。


「エルセリア」

 声は静かだったが、逃げ場を与えない響きがあった。

「どこまでが嘘だ」


 彼女の体が小さく固まる。

 長い沈黙が二人の間に落ち、やがて彼女はゆっくり息を吸い、小さくうなずいた。


「……少し、嘘をつきました」彼女の指が膝の上で小さく握られる。


 そのとき、外から足音と話し声が近づいてきた。

 メレーンが慌ただしく戻ってきて、後ろから覗き込もうとする村人たちを追い払いながら言う。


「ほらほら、もう見世物は終わりだよ! 散った散った! ここで騒ぐんじゃない!」


 村人たちは名残惜しそうにしながらも、メレーンの勢いに押されて散っていった。

 彼女は扉を閉め、振り返ってアッシュとエルセリアを見る。


「大丈夫だったかい?」


 二人は部屋から出てきた。アッシュが先に口を開く。

「すみません。俺たちのせいで――」


「そんなこと言うんじゃないよ」

 メレーンは彼を軽く睨んだ。


「あんたたちが来た日から、普通の流れ者の夫婦じゃないことくらい、みんな分かってたさ。でもね、エルはいい子だし、あんたも――」

 彼女はアッシュをじっと見て言った。

「無愛想だけど、悪い人間の顔じゃない」


 ずいぶん率直な言い方だったが、そこには打算ではなく、ただの人の好意があった。

 アッシュは何も言わず、ただその言葉を受け止めるように軽く頭を下げる。


 メレーンは二人の表情を見比べ、何かを悟ったように目を細めた。

「あんたたち……もう、ここを出るつもりだね?」


 アッシュは答えなかったが、その沈黙だけで十分だった。

 メレーンはそれ以上追及せず、柔らかい声で言う。


「二人でちゃんと話しなさい。外の様子は私が見てる。さっきの騎士が戻ってきたら、真っ先に知らせてやる」


 そう言って二人の肩を軽く叩き、安心させるように微笑んでから、静かに外へ出て行った。


 家の中には二人だけが残る。

 エルセリアは水を一杯汲んでアッシュの前に置いた。


 アッシュはそれを受け取り、小さく言った。

「……ありがとう」


 エルセリアは向かいに座り、しばらく黙っていたが、やがて何かを決めたように口を開いた。


「嘘をついたところ……全部話します」


 部屋の空気が重くなる。

 彼女は目を伏せたまま、ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。


「私たち……一年も一緒に逃げていたわけじゃありません」

 声は落ち着いていたが、はっきりとした罪悪感がにじんでいた。


 アッシュは何も言わず、ただ彼女を見る。


「本当は、三ヶ月くらいです。あなたがそれまでどう逃げていたのか、私は本当に知らないんです」


 アッシュの眉がわずかに動く。予想していたことではあったが、本人の口から聞くと胸の奥に重いものが落ちた。


「あなたと出会ったのは、リュミエラ都市同盟です」

 彼女は深く息を吸った。「私は巡礼の途上で……あなたは怪我をして運び込まれて、療養室で、私が治療をしました」


 アッシュは黙って聞いていた。その話がどこまで本当なのか、まだ判断はつかない。ただ、彼女の語り方は、すべてを作り話にしているようには聞こえなかった。


「そのあと……一緒に教国へ戻りました。あなたが、私を護送すると言ってくれたから」

 そこだけ、彼女の声が少しだけ小さくなる。聞いてほしいのか、聞かれるのが怖いのか、自分でも分からないような声音だった。


「その間に……私たち、だんだん近くなっていって」

 彼女の指が膝の上でぎゅっと布を握る。「私は……私たちは、愛し合っているんだと、信じていました」

 その言葉は真実のようにも、思い込みのようにも聞こえた。


 アッシュは何も返さず、ただ続きを待つ。


「グラウリアに着いたあと、すぐに封印の儀式を始めるって話になって……あなたも王族として参加させられることになっていました」

 彼女の声がさらに小さくなる。

「その頃のあなたは……とても苦しそうでした」


 それは嘘ではない。

 アッシュは彼女の目を見て、それだけは分かった。胸の奥が少しだけ締めつけられる。


 エルセリアはもう一度深く息を吸い、記憶を噛みしめるように言葉を続ける。

「そのあと、聖都へ向かう途中……グラウリアを出て少ししたところで、雪崩に巻き込まれて、一緒に崖から落ちました。そこは、本当です」


 それで、服装や装備があのままだった理由も、剣がきれいなままだった理由も、すべて説明がつく。

 そして――グレンが言っていた「殿下が山から落ちた」という話とも一致する。


 アッシュは黙ってその話を受け入れた。


「あなたは、私を庇って落ちた時に怪我をして……それで、記憶を失いました……」

 その言葉を口にしたとき、彼女の声がわずかに揺れた。

 彼女自身、その言葉の本当の意味を誰よりも分かっているようだった。


 部屋の中が静まり返る。

 エルセリアは、もう逃げないと決めた人のように、ゆっくり顔を上げた。祈るような目で彼を見る。


「ノアディス……全部本当を言わなかったのは、あなたがいくつかのことを忘れてしまっていたからです。信じてもらえないのが怖くて……それに、あなたが私のそばにいたくないと思うんじゃないかって、怖かった」


 アッシュは水の入った杯を持つ手に力を込める。


 彼女の嘘は、誰かを陥れるための嘘ではない。

 必死に、自分を失わないための嘘だった。


 だが――だからこそ、完全には信じられない。

 そして彼の心には、まだ一つ大きな矛盾が残っていた。


 ――手配書は今も有効。

 ――なのに、なぜ教国は自分を王族として儀式に参加させようとしたのか。

 彼はその疑問を口には出さなかった。今はまだ、聞くべき時ではないと判断した。


 アッシュはゆっくり杯を置き、低い声で言った。

「エルセリア、俺は君を責めているわけじゃない」

 彼の目は静かで、しかし逃げない光を宿していた。

「でも、真実を知る必要がある」


 彼女の唇がわずかに震える。謝ろうとして、けれど謝罪では何も解決しないと分かっているような顔だった。


 アッシュはもう一度言った。

「俺たちは今……もう後戻りできない」


 その言葉が落ちた瞬間――

 外から、激しく扉を叩く音が響いた。

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