第208話 空の影
昨日よりも、川辺はさらに静かだった。朝の霧が水面に沿ってゆっくりと漂い、谷全体を覆っているようで、水の流れる音さえどこか柔らかく包まれている。
石の台には誰もいない。
アッシュはその場に立ったまま、すぐには立ち去らなかった。昨日カヴィが座っていた場所を黙って見つめ、垂れていた釣り糸の位置を思い出し、長い年月で石の表面に残った淡い白い擦り跡まで目で追っていく。待つつもりなのか自分でもはっきりしないまま、しばらく足は動かなかった。
時間だけがゆっくり過ぎていく。
そろそろ今日は会わないのかもしれない、そう考え始めた頃、背後から聞き慣れた笑いを含んだ声がした。
「思ったより早いな」
振り向くと、カヴィが上流側の木陰から歩いてくるところだった。まるで最初からそこにいて様子を見ていたかのように、釣り竿を背に担ぎ、両手を長い袖に突っ込んだまま、気の抜けたような軽い足取りで近づいてくる。
「散歩って顔じゃないな」
カヴィは眉を上げて笑う。「俺を待ってた?」
アッシュは否定しなかった。
カヴィはますます楽しそうに笑う。
「昨日は『次があればな』とか言ってたくせに。昔から変わらないな、お前は。口は強気で、足は素直だ」
アッシュはちらりと彼を見ただけで、何も返さなかった。
二人は石台の縁に腰を下ろす。カヴィは慣れた手つきで釣り糸を水に放り込む。相変わらず針は付いていない。何も釣れないはずの糸が水面に漂っているのに、本人は実に楽しそうだった。
「さて、今日はどっちだ?」
カヴィが横目で見る。「制度の話か、それともお前自身の話か」
アッシュはその問いには答えず、別のことを聞いた。
「お前は――『アッシュ』と、どこで会った」
カヴィの目に一瞬だけ面白そうな光が走る。
「自分のことを聞くんじゃなくて、『ある男と俺の出会い』を聞くわけか。いいね、その聞き方は嫌いじゃない」
少し顎を上げ、思い出すように言う。
「その時のアッシュは、かなり重要な物を持って港町に来てた。受け渡しの予定だったらしいが、交渉は失敗。それで――情報が欲しいって俺のところに来た。俺は一つ貸しを作ってやった。まあ、それだけの話だ」
「それだけか」
「それだけだ」
「通報しなかったのは、貸しを作るためか」
カヴィはゆっくり笑う。
「それもある。でも、それだけじゃない」
「何を持っていた」
「さあな」カヴィは肩をすくめる。
「俺は知らない。でもノアディスは知ってる」
アッシュは一瞬黙り、わずかに視線を落とした。
エルセリアの言葉――『振り回されないで』が頭に浮かぶ。
言われなくても分かっている。この男の言葉は、全部が本当でも全部が嘘でもない。だからこそ、一番扱いにくい。
アッシュは話題を変えた。
「外の状況を教えると言っていたな」
「もちろん」カヴィは楽しそうに笑う。「約束は守る主義だ」
釣り竿を膝の上に置き、世間話でもするような調子で続ける。
「第七王子の指名手配はまだ有効だ。国中で行方を探している」
アッシュは黙って聞いている。
カヴィは少しだけ声を落として付け加えた。
「表も裏も、な」
言葉は軽いが、意味は重い。
追っているのは軍だけではない。利用しようとする者、取り込もうとする者、竜を求める者――様々な思惑が動いている。
「そのうち、この辺りにも来るか」
アッシュが言うと、カヴィは答えず、逆に笑って問い返した。
「じゃあ聞くけど、なんで俺がここにいると思う?」
「偶然だと言っていた」
カヴィは声を上げて笑った。
「お前は昔から、『本当の理由』をわざわざ聞かない。どうせ俺が言わなくても、自分で答えに辿り着くって分かってるからだ」
褒めているようでもあり、からかっているようでもある口調だった。
笑みを引っ込め、少しだけ真面目な顔になる。
「確かに、俺はお前の行方を探せって言われて来てる」
そして肩をすくめた。「でも、ここで会ったのは本当に偶然だ」
アッシュは横目で彼を見る。
「誰の命だ」
カヴィが答えようとした、その瞬間――
空が一瞬暗くなった。
巨大な影が水面を横切り、川の光が一瞬で飲み込まれる。水面が震え、村の方角から悲鳴のような声が上がった。
アッシュはすぐに空を見上げる。
雲の上から落ちてきた山のような影。
大きく広がる翼が、空の半分を覆う。
――竜だ。
カヴィも空を見上げ、小さく呟く。
「こういうのってな、だいたい一番会いたくない時に来るんだよ」
彼は立ち上がり、アッシュの肩を軽く叩いた。その顔にまだ笑みはあったが、さっきまでの気楽さは消えている。
「村に戻れ、ノアディス。そろそろ、話が動き出す」




