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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二十章:忘却の村

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第207話 彼女の答えと、彼の外側

 エルセリアの指先がわずかに強くなる。

 すぐには答えず、数秒置いてからようやく口を開いた。


「……引き止めようとしたとき、」

 一瞬、違う言葉を選びかけて、飲み込んだ。

「手を滑らせました、本当は掴めていたはずなんですけど、私が踏ん張れなくて」


 声は落ち着いていて、どこか自責の色が混じる。

 その答えは整っていて、筋も通っていた。


 アッシュは反論しない。ただ静かに彼女を見る。


 エルセリアも視線を逸らさず、慌てもせず、ただあの瞬間を思い返すように彼を見ていた。


 彼には、それを確かめる術がない。


 失われた一年は完全に断ち切られている。断片も残らず、掴めるものは何もない以上、今あるものから推測するしかなかった。


 昼間、荷を調べたときのことを思い出す。布に包まれていた長剣は泥こそ付いていたが、刃こぼれはなく、長く使い続けた武器のような傷みも見えなかった。逃亡の中で使い続けたというより、ある時点から意図的に手入れされていたように見える。


 もし本当に追手に追われ、戦いながら彼女を庇って落ちたのだとすれば――あの状態は、少し不自然だった。

 だがその疑問は口に出さない。


「……どうやってここまで生き延びてきたのか、それを知りたいだけだ」

 声音は淡々としていた。


「私たちは一緒に生きてきました」

 エルセリアは静かにそう答え、それ以上は続けなかった。

 その言葉は答えでありながら、どこか祈りのようでもあった。


 アッシュはそれ以上追及しない。


 燭の炎が半分ほどまで燃え、蝋が縁を伝ってゆっくりと落ちていく。外の風の音が遠くに聞こえ、この部屋だけが切り離されたように静かだった。


「……あなたが今、私を信じていないことは分かっています」

 エルセリアは視線を逸らさずに言う。声に責める色はない。

「私の話が、全部あとから繋ぎ合わせたものに見えているかもしれない」


 アッシュは否定も肯定もしなかった。


「でも、あの一年、あなたは一人じゃなかった。逃げるのも、全部一人でやってきたわけじゃない」

 声がわずかに低くなる。

「覚えていなくても、私は覚えています」


 短く息を吸い、続ける。

「全部を一人で抱えなくてもいい。疑ってもいいし、試してもいい。でも……今は、全部を背負わなくてもいいはずです」


 押しつけるでもなく、ただ静かに置かれる言葉だった。


「忘れていても……私は、ここにいます」

 そう言って手を伸ばしかけ、触れる前に止めて、ゆっくりと引いた。


 アッシュはすぐには答えない。


 過去の自分が彼女に何を預けていたのか分からないし、今の自分がそれを受け入れるべきかも分からない。ただ一つ気づいたのは、彼女が今話しているのは自分のためではなく、「あの時の自分」のためだということだった。


 燭火が揺れ、その光が彼女の瞳の奥に小さく残る。


 その夜、二人はそれ以上言葉を交わさなかった。


 横になってからもアッシュは眠らず、彼女の呼吸を聞いていた。疑っているわけではない。ただ、ひとつ理解した――もし答えがすべて彼女から与えられるのなら、その答えは常に二人の内側に留まる。


 世界は、二人だけではない。




 翌朝、彼はいつもより早く目を覚ました。霧はまだ晴れきらず、空気は湿り気を帯びて冷たい。

 外に出ると、エルセリアが井戸で水を汲んでいた。戸の音に気づき、振り返る。彼はすでに外衣を整えている。


「出かけるんですか」

「……川へ」

「カヴィのところですか」


 彼は否定しなかった。


 エルセリアの指が桶の縁をわずかに強く握る。

「……あの人を、信じるんですか」


「信じてはいない。ただ、外のことを知っている」

 声は落ち着いていた。

「一年逃げていたとしても、今の状況が分からなければ意味がない。敵がどこにいるかも知らずに、安全を考えることはできない」


「私も、一緒に考えます」


 彼はわずかに首を振る。

「それも否定はしない。でも、あいつは外から来ている。商人なら、情報は持っているはずだ。少なくとも、俺たちよりは」


 それ以上は言わない。選択はすでに決まっている。


 エルセリアも引き止めなかった。

 霧が二人の間をゆっくりと流れる。


「……気をつけてください。振り回されないで」


 アッシュは一瞬だけ彼女を見て、

「分かっている」とだけ返し、そのまま歩き出した。


 霧の中で、川の音だけがはっきりと響いている。今回は偶然ではなく、自分の意思で答えを取りに行くための足取りだった。


 エルセリアはその場に立ち、ただその背を見送った。

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