第207話 彼女の答えと、彼の外側
エルセリアの指先がわずかに強くなる。
すぐには答えず、数秒置いてからようやく口を開いた。
「……引き止めようとしたとき、」
一瞬、違う言葉を選びかけて、飲み込んだ。
「手を滑らせました、本当は掴めていたはずなんですけど、私が踏ん張れなくて」
声は落ち着いていて、どこか自責の色が混じる。
その答えは整っていて、筋も通っていた。
アッシュは反論しない。ただ静かに彼女を見る。
エルセリアも視線を逸らさず、慌てもせず、ただあの瞬間を思い返すように彼を見ていた。
彼には、それを確かめる術がない。
失われた一年は完全に断ち切られている。断片も残らず、掴めるものは何もない以上、今あるものから推測するしかなかった。
昼間、荷を調べたときのことを思い出す。布に包まれていた長剣は泥こそ付いていたが、刃こぼれはなく、長く使い続けた武器のような傷みも見えなかった。逃亡の中で使い続けたというより、ある時点から意図的に手入れされていたように見える。
もし本当に追手に追われ、戦いながら彼女を庇って落ちたのだとすれば――あの状態は、少し不自然だった。
だがその疑問は口に出さない。
「……どうやってここまで生き延びてきたのか、それを知りたいだけだ」
声音は淡々としていた。
「私たちは一緒に生きてきました」
エルセリアは静かにそう答え、それ以上は続けなかった。
その言葉は答えでありながら、どこか祈りのようでもあった。
アッシュはそれ以上追及しない。
燭の炎が半分ほどまで燃え、蝋が縁を伝ってゆっくりと落ちていく。外の風の音が遠くに聞こえ、この部屋だけが切り離されたように静かだった。
「……あなたが今、私を信じていないことは分かっています」
エルセリアは視線を逸らさずに言う。声に責める色はない。
「私の話が、全部あとから繋ぎ合わせたものに見えているかもしれない」
アッシュは否定も肯定もしなかった。
「でも、あの一年、あなたは一人じゃなかった。逃げるのも、全部一人でやってきたわけじゃない」
声がわずかに低くなる。
「覚えていなくても、私は覚えています」
短く息を吸い、続ける。
「全部を一人で抱えなくてもいい。疑ってもいいし、試してもいい。でも……今は、全部を背負わなくてもいいはずです」
押しつけるでもなく、ただ静かに置かれる言葉だった。
「忘れていても……私は、ここにいます」
そう言って手を伸ばしかけ、触れる前に止めて、ゆっくりと引いた。
アッシュはすぐには答えない。
過去の自分が彼女に何を預けていたのか分からないし、今の自分がそれを受け入れるべきかも分からない。ただ一つ気づいたのは、彼女が今話しているのは自分のためではなく、「あの時の自分」のためだということだった。
燭火が揺れ、その光が彼女の瞳の奥に小さく残る。
その夜、二人はそれ以上言葉を交わさなかった。
横になってからもアッシュは眠らず、彼女の呼吸を聞いていた。疑っているわけではない。ただ、ひとつ理解した――もし答えがすべて彼女から与えられるのなら、その答えは常に二人の内側に留まる。
世界は、二人だけではない。
翌朝、彼はいつもより早く目を覚ました。霧はまだ晴れきらず、空気は湿り気を帯びて冷たい。
外に出ると、エルセリアが井戸で水を汲んでいた。戸の音に気づき、振り返る。彼はすでに外衣を整えている。
「出かけるんですか」
「……川へ」
「カヴィのところですか」
彼は否定しなかった。
エルセリアの指が桶の縁をわずかに強く握る。
「……あの人を、信じるんですか」
「信じてはいない。ただ、外のことを知っている」
声は落ち着いていた。
「一年逃げていたとしても、今の状況が分からなければ意味がない。敵がどこにいるかも知らずに、安全を考えることはできない」
「私も、一緒に考えます」
彼はわずかに首を振る。
「それも否定はしない。でも、あいつは外から来ている。商人なら、情報は持っているはずだ。少なくとも、俺たちよりは」
それ以上は言わない。選択はすでに決まっている。
エルセリアも引き止めなかった。
霧が二人の間をゆっくりと流れる。
「……気をつけてください。振り回されないで」
アッシュは一瞬だけ彼女を見て、
「分かっている」とだけ返し、そのまま歩き出した。
霧の中で、川の音だけがはっきりと響いている。今回は偶然ではなく、自分の意思で答えを取りに行くための足取りだった。
エルセリアはその場に立ち、ただその背を見送った。




