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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二十章:忘却の村

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第206話 整いすぎた答え

 夕食は相変わらず簡素で、けれど温かかった。メレーンが取りとめのない話をし、村人たちが笑って応じる。アッシュはいつも通り席に着き、黙々と麦粥を口に運んだ。必要以上に黙ることも、無理に会話に入ることもない。


 エルセリアはときどき水を注ぎ足し、その所作も自然で、まるでこの時間が当たり前のものになっているかのようだった。


 この場面だけを切り取れば、違和感はどこにもない。




 夜になると、アッシュは先に部屋へ戻った。灯りはつけず、窓から差し込む月明かりだけを頼りにする。室内は暗く、外の虫の声と、木がきしむわずかな音だけが残っていた。


 ベッドの端に腰を下ろし、手を組む。

 頭の中で、この数日間に得た情報を一つずつ並べていく。


 ――アエクセリオンはカルドリア侵攻で戦死。

 ――王国は自分を弑竜の容疑で追っている。

 ――カヴィは手配書を見ている。


 そこから導ける結論は単純だった。

 自分は、ある時点から追われる立場になっている。


 そしてカヴィは、その後の自分を知っている。


 目を閉じる。


 失われた記憶は一年か、それ以上か――確定はできない。だが少なくとも、アエクセリオンの死は揺らがない。

 ――事実として、受け入れるしかないのか。


 扉が静かに開いた。

 エルセリアが燭台を手に入ってくる。暗がりの中に彼の姿を見つけ、少し驚いたように足を止めた。


「灯りをつけないんですか?」


 机に燭台を置くと、淡い光がゆっくりと広がり、彼の横顔を照らす。


 アッシュはすぐには答えず、部屋の隅に積まれた荷へ視線を向けた。昼間すでに確認している。布に包まれた長剣と小刀、王国の竜騎士の装備。そして質の良い布で仕立てられた、傷んではいるが明らかに上等な衣服が二着。それ以外に、目立つものはほとんどない。


 逃亡中で荷が少ないのは理解できる。途中で失った可能性もある。

 だが、一つだけ引っかかる。


「……一年、逃げていたんだな」

 静かに言う。


「なら、なぜこれを残している」

 視線で衣服を示す。

「目立つ。もっと早く捨てるべきだ」


 エルセリアはわずかに言葉を失い、すぐには答えなかった。

 短い沈黙のあと、ゆっくりと口を開く。


「……あなたが、捨てなかったんです」

 その声には、わずかな揺れが混じる。


「それが、まだ自分が裏切り者じゃないと証明できるものだからって」

 言い終えたあと、自分でも不安定さを自覚したのか、視線を落とした。


 アッシュはすぐには否定しない。ただ彼女を見て、わずかに頷く。

「……そうかもしれない」


 受け入れたわけではない。

 ただ、退けもしない。


 その話題には踏み込まず、次の問いへ移る。

「アエクセリオンがどう死んだか、知っているか」


 燭の炎がわずかに揺れた。

 エルセリアはすぐには答えず、視線を横に流す。


「詳しくは、聞いていません」

 静かに言う。

「あなたは、それを話したがらなかった。ただ……あれは間違った戦争だったとだけ」

 顔を上げる。

「とても辛そうだったので、それ以上は」


 アッシュはその言葉を黙って受け止める。

 もし自分が、その死に関わっていたとしたら。

 そして王国がそれを理由に自分を疑っているのだとしたら――


 本当に何も語らないまま、隣にいる人間と過ごすのか。


 分からない。


 今の自分には、過去の自分の選択が読めない。

 ただ一つ確かなのは、自分は簡単に誰かに重荷を預ける性質ではないということ。

 それが、逆に判断を難しくしていた。


「……そこまで近かったなら、なぜ何も話さなかったのか、分からない」


 責める調子ではない。

 欠けている部分を確かめるような言い方だった。


 エルセリアの指が、膝の上でわずかに握られる。

「信じていなかったわけじゃないと思います」


 小さく息をつく。

「ただ……あなたは、全部自分で抱えようとする人だから」


 その言葉のあと、短い沈黙が落ちる。


 筋は通っている。

 だが、納得はしきれない。


「……そうか」


 それ以上は追わない。

 今夜得た情報は十分だ。

 そして同時に、はっきりしたこともある。


 ――彼女の言葉には矛盾がなかった。

 筋は通り、理屈は整っている。


 だが――それが、かえって不自然だった。

 すべてがうまく繋がりすぎて、記憶は一片も動かない。


 燭の光が静かに揺れる。柔らかいが、逃げ場はない。


 エルセリアはそのまま離れず、少しだけ距離を詰めた。何かを決めたように、まっすぐ彼を見る。


「……ほかに、知りたいことはありますか?」

 穏やかな声だったが、その奥には試すような気配がある。


 答える準備も、すでに整っている。

 アッシュはそれを理解していた。

 問えば、答えは返ってくる。

 しかも、筋の通った形で。


 だからこそ、問い方を変える。


「王国に追われていたとして」

 淡々と続ける。

「どうやって捕まらずにいた」


 エルセリアの肩から、わずかに力が抜ける。

「大きな街には入りませんでした。街道も避けて、山道だけを選んで……補給が必要なときだけ、小さな町に寄って、すぐ離れる」


 一度言葉を切る。

「名前も変えていました」


「誰が用意した」


「あなたです」即答だった。

「こうなる可能性は、前から考えていたって」


 アッシュは表情を変えないまま頷く。

「追手の動きはどう判断していた」


「あなたは地形に詳しくて……軍が動けば分かるって。勘じゃなくて、訓練だと」


 どの説明も破綻はない。

 むしろ、整いすぎている。


 アッシュは少しの間黙り、それから言う。

「……カヴィという男がいる」


 エルセリアの視線がわずかに揺れた。


「手配書で俺を知っていると言っていた」


「通報は?」


「今のところはない」

 短い返答。

 だが、それだけで十分な意味を持つ。


 エルセリアの表情から、かすかな安堵が消える。


「……長くはいられませんね」

 その声には、本音が混じっていた。

 ここに留まりたい――その願いが、はっきり見える。


 アッシュはそれを指摘しない。

 ただ、話を戻す。


「……俺は、逃げる途中でお前を庇って落ちたと言ったな」


「はい」


「そのとき、追手がいたのか」


「……いました」

 今度は即答だが、先ほどよりも微かな遅れがあった。


 アッシュはそこには触れず、別の一点を拾う。


「目が覚めたとき、お前は言ったな」

 ゆっくりと視線を上げる。

「――『わざとじゃない』と」


 一拍。


「……あれは、どういう意味だ」


 部屋の空気が、わずかに変わった。

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