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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二十章:忘却の村

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第205話 確定された事実

 村に戻ったときには、もう日差しは屋根を越えて傾きかけていた。木の家々の前には洗い上げた布が干され、風は弱く、布はかすかに揺れるだけだ。


 遠くからでも、エルセリアの姿はすぐに見えた。井戸のそばで袖を肘までまくり、村の女たちと一緒に水桶を受け渡している。動きはぎこちないが手は止めず、表情は真剣だ。裾を引く子どもに話しかけられると、自然にかがみ込んで応じ、柔らかく笑っていた。


 もう、よそ者には見えない。


 やがて彼女は、差し出された豆の入った籠を受け取り、家の前の低い椅子に腰を下ろす。莢を一つずつ割り、豆を木の盆へ落としていく。手つきは遅いが、ためらいはない。


 アッシュは少し離れたところから、その様子をしばらく眺めた。

 静かで、ありふれた光景だった。

 ――逃げている人間のそれには、見えない。


「戻ったかい、脚はどうだ?」

 メレーンが手を振る。


「問題ない」


 近づきながら、アッシュは村の周囲に目をやる。

「ここは、普段からこんな感じなのか」


「こんな感じ、って?」


「辺境にしては静かすぎる。王国からどのくらい離れている」


 村人たちが顔を見合わせ、誰かが笑った。


「正確な距離は分からんよ」

 男が頭をかく。

「この川は南に流れてる。水を辿れば、二、三日で古い街道に出る。そこから先が王国だろうな。逆に東北へ越えれば教国だが、あまり行かない」


 アッシュはすぐには返さなかった。

 川の流れは昨日すでに確認している。地形もおおよそ頭に入っていた。

 この村は、王国の外縁――山脈の東側に沿った、どちらの勢力にも属さない隙間のような場所だ。


「ここで長く暮らしてるからね」

 別の女が口を挟む。

「畑と狩りで足りるし、たまに物々交換もある。戦なんて、ここまで来やしないよ。去年、王国が北のカルドリアと戦ってたって話も、噂で聞いたくらいさ」


「どんな話だ」

 アッシュが問うと、男は声を落とした。


「竜王が戦死したってな」

 その言い方には、わずかな畏れが混じっている。


「こんな場所じゃ、竜なんて一生見ないことも珍しくない。それが戦場で死んだなんて聞けば、そりゃ話題にもなる」


 一度言葉を切り、肩をすくめる。

「その後は分からん。遠すぎる。とにかく、人は大勢死んだらしい」


 エルセリアの手がわずかに止まり、豆が指の間から滑りかけた。すぐに拾い直し、何事もなかったように作業を続けるが、指先は微かに震えている。

 アッシュはそれを横目で見たが、何も言わなかった。


「詳しい場所ならロアンに聞くといい」メレーンが言う。


「山に入ることも多いし、外にも出てる」

 別の男が思い出したように続けた。

「そういえば、最近もう一人来てるな。南から来たっていう……カヴィとかいうやつ。あいつの方が外のことは詳しいだろ」


 アッシュの表情は変わらない。

「いつからいる」


「お前たちより少し前だな」

 男は顎に手を当てる。


「商人だと言ってたが、商売してる様子はない」

 女が笑う。


「こんなとこ、売るもんなんてないだろ。薪か豆くらいだよ。なのに帰る気もなさそうで、『静かでいい』なんて言ってる」

「昼は川でふらついて、夜も特に何もしてないな」

「変わってはいるけど、悪いやつじゃない」


 その言葉を、アッシュは頭の中でなぞる。

 数日前から滞在している。商人を名乗りながら、何も売らない。

 そして――竜王は死んだ、という話。


 それはもう、彼自身が理解していたことだった。


 あの鱗を見た時点で、答えは出ている。

 もしアエクセリオンが生きているなら、あのようなものが残るはずがない。


 ただ、考えないようにしていただけだ。


 だが今、村人たちはその事実を、ごく当たり前のこととして口にする。

 遠くの雨の話のように。

 どこかの王の交代のように。


 重さも、疑問もない。

 それが逆に、否定の余地を奪う。

 ――なら、これが現実だ。


 アエクセリオンの死は、もう出来事ではなく、過去として扱われていた。


「で、お前はどうするんだ?」

 誰かが気軽に尋ねる。


「出ていくつもりか?」

 敵意はない。ただの確認だ。


 アッシュは視線を逸らさず答える。

「長居するつもりはない」


 村人たちはそれ以上は踏み込まず、「無理はするなよ」と軽く言うだけだった。そこに疑いはなく、ただ偶然流れ着いた若者を見る目があるだけだ。


 ――ここでは、誰も彼を問わない。


 だがカヴィは違う。

 あの男は、彼の名前も、もう一つの名前も知っていた。

 ――アッシュ。


 聞き覚えのないはずのその名が、妙に引っかかる。

 まるで、かつて自分のものであったかのように。


 カヴィは、自分について何かを知っている。

 だがエルセリアは一度も口にしなかった。


 もし本当に一年を共にしていたのなら、知らないはずがない。

 ――あえて、言っていないのか。


 今問いただせば、警戒されるだけだ。

 ならば先に、カヴィから引き出す。


 この村は安全かもしれない。だが、留まる場所ではない。

 そしてカヴィ――あの男は、報告する者よりも厄介だ。知っていながら、語らない。


 アッシュは踵を返し、井戸の方へ歩く。

 エルセリアが顔を上げた。


「どこへ行っていたんですか?」


「少し歩いていただけだ」


 カヴィのことは口にしない。隠すつもりではない。ただ――まだ位置づけが定まっていない。


 敵か。

 それとも、真実を知るもう一人か。


 その判断は、まだ先でいい。

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