第205話 確定された事実
村に戻ったときには、もう日差しは屋根を越えて傾きかけていた。木の家々の前には洗い上げた布が干され、風は弱く、布はかすかに揺れるだけだ。
遠くからでも、エルセリアの姿はすぐに見えた。井戸のそばで袖を肘までまくり、村の女たちと一緒に水桶を受け渡している。動きはぎこちないが手は止めず、表情は真剣だ。裾を引く子どもに話しかけられると、自然にかがみ込んで応じ、柔らかく笑っていた。
もう、よそ者には見えない。
やがて彼女は、差し出された豆の入った籠を受け取り、家の前の低い椅子に腰を下ろす。莢を一つずつ割り、豆を木の盆へ落としていく。手つきは遅いが、ためらいはない。
アッシュは少し離れたところから、その様子をしばらく眺めた。
静かで、ありふれた光景だった。
――逃げている人間のそれには、見えない。
「戻ったかい、脚はどうだ?」
メレーンが手を振る。
「問題ない」
近づきながら、アッシュは村の周囲に目をやる。
「ここは、普段からこんな感じなのか」
「こんな感じ、って?」
「辺境にしては静かすぎる。王国からどのくらい離れている」
村人たちが顔を見合わせ、誰かが笑った。
「正確な距離は分からんよ」
男が頭をかく。
「この川は南に流れてる。水を辿れば、二、三日で古い街道に出る。そこから先が王国だろうな。逆に東北へ越えれば教国だが、あまり行かない」
アッシュはすぐには返さなかった。
川の流れは昨日すでに確認している。地形もおおよそ頭に入っていた。
この村は、王国の外縁――山脈の東側に沿った、どちらの勢力にも属さない隙間のような場所だ。
「ここで長く暮らしてるからね」
別の女が口を挟む。
「畑と狩りで足りるし、たまに物々交換もある。戦なんて、ここまで来やしないよ。去年、王国が北のカルドリアと戦ってたって話も、噂で聞いたくらいさ」
「どんな話だ」
アッシュが問うと、男は声を落とした。
「竜王が戦死したってな」
その言い方には、わずかな畏れが混じっている。
「こんな場所じゃ、竜なんて一生見ないことも珍しくない。それが戦場で死んだなんて聞けば、そりゃ話題にもなる」
一度言葉を切り、肩をすくめる。
「その後は分からん。遠すぎる。とにかく、人は大勢死んだらしい」
エルセリアの手がわずかに止まり、豆が指の間から滑りかけた。すぐに拾い直し、何事もなかったように作業を続けるが、指先は微かに震えている。
アッシュはそれを横目で見たが、何も言わなかった。
「詳しい場所ならロアンに聞くといい」メレーンが言う。
「山に入ることも多いし、外にも出てる」
別の男が思い出したように続けた。
「そういえば、最近もう一人来てるな。南から来たっていう……カヴィとかいうやつ。あいつの方が外のことは詳しいだろ」
アッシュの表情は変わらない。
「いつからいる」
「お前たちより少し前だな」
男は顎に手を当てる。
「商人だと言ってたが、商売してる様子はない」
女が笑う。
「こんなとこ、売るもんなんてないだろ。薪か豆くらいだよ。なのに帰る気もなさそうで、『静かでいい』なんて言ってる」
「昼は川でふらついて、夜も特に何もしてないな」
「変わってはいるけど、悪いやつじゃない」
その言葉を、アッシュは頭の中でなぞる。
数日前から滞在している。商人を名乗りながら、何も売らない。
そして――竜王は死んだ、という話。
それはもう、彼自身が理解していたことだった。
あの鱗を見た時点で、答えは出ている。
もしアエクセリオンが生きているなら、あのようなものが残るはずがない。
ただ、考えないようにしていただけだ。
だが今、村人たちはその事実を、ごく当たり前のこととして口にする。
遠くの雨の話のように。
どこかの王の交代のように。
重さも、疑問もない。
それが逆に、否定の余地を奪う。
――なら、これが現実だ。
アエクセリオンの死は、もう出来事ではなく、過去として扱われていた。
「で、お前はどうするんだ?」
誰かが気軽に尋ねる。
「出ていくつもりか?」
敵意はない。ただの確認だ。
アッシュは視線を逸らさず答える。
「長居するつもりはない」
村人たちはそれ以上は踏み込まず、「無理はするなよ」と軽く言うだけだった。そこに疑いはなく、ただ偶然流れ着いた若者を見る目があるだけだ。
――ここでは、誰も彼を問わない。
だがカヴィは違う。
あの男は、彼の名前も、もう一つの名前も知っていた。
――アッシュ。
聞き覚えのないはずのその名が、妙に引っかかる。
まるで、かつて自分のものであったかのように。
カヴィは、自分について何かを知っている。
だがエルセリアは一度も口にしなかった。
もし本当に一年を共にしていたのなら、知らないはずがない。
――あえて、言っていないのか。
今問いただせば、警戒されるだけだ。
ならば先に、カヴィから引き出す。
この村は安全かもしれない。だが、留まる場所ではない。
そしてカヴィ――あの男は、報告する者よりも厄介だ。知っていながら、語らない。
アッシュは踵を返し、井戸の方へ歩く。
エルセリアが顔を上げた。
「どこへ行っていたんですか?」
「少し歩いていただけだ」
カヴィのことは口にしない。隠すつもりではない。ただ――まだ位置づけが定まっていない。
敵か。
それとも、真実を知るもう一人か。
その判断は、まだ先でいい。




