第204話 鉤のない釣り
翌朝、朝食を終えると、アッシュは何も言わずに一人で家を出た。脚の痛みはまだ残っているが、歩けないほどではない。杖をつきながら昨日と同じ道を辿り、岩をいくつか越えて、あの平らな石台へ向かう。
カヴィはやはりそこにいた。石台の端にあぐらをかき、手には釣り竿。糸は水面に垂れている。南方風の長衣に朝の光が当たり、刺繍がかすかに光っていた。
足音を聞いたのか、振り向きもせずに笑う。
「来ると思ってたよ」
アッシュは答えず、水面に目を落とし、それから糸へ視線を移す。糸はまっすぐ垂れているだけで、浮きもなければ、鉤の気配もない。
「気づいたか?」
カヴィが横目で見て、口元を緩める。
「……鉤がないな」
「そう」
あっさりと頷く。
「だから今日は魚は釣れない」
「なら何をしている」
「待ってる」 軽い口調だった。
「鉤がなくても、上がってくる魚もいる」
アッシュはそれ以上は問わず、石台の反対側に腰を下ろす。しばらく水面を見てから、低く口を開いた。
「……お前、俺のことを知っているな」
カヴィは一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑い出した。顔を手で覆い、肩を揺らす。
「何がおかしい」
「いや……」
笑いを抑えながら目尻を拭う。
「それ、二度目だ。まったく同じ言い方で聞かれたのは」
アッシュはわずかに眉を寄せる。昨日が初対面のはずだった。
「手配書か何かで顔を知っているのかと思った」
「手配書?」
カヴィは少し考える仕草をしてから肩をすくめる。
「まあ、それも見たことはある。でも、それは本質じゃない」
竿を膝の上に横たえ、ようやくまっすぐアッシュを見る。
その視線だけが、わずかに真面目だった。
「答えてもいい。ただ、その前に一つ」
間を置く。
「今のお前は、ノアディスとして聞いているのか。それとも――アッシュか?」
その名を聞いた瞬間、アッシュは反射的に顔をしかめた。
「……アッシュ」
口の中で確かめるように繰り返す。
「それが、王都を離れてからの名か?」
カヴィはすぐには答えず、ただ観察するように彼を見る。
「……俺に何があった」
今度はわずかに苛立ちが混じった。
だがカヴィはふっと視線を外す。
「南に、小さな国がある」
唐突に話題が変わる。
「王は世襲じゃない。商会の長たちが選ぶ」
「関係ある話か?」
「あるかどうかは、お前が決めることだ」
軽く笑う。
「血筋も、力も絶対じゃない。ただ『適している』と思われればいい。別の国じゃ、王はいても実権は議会にある。名だけの君主だ」
竿をゆらりと揺らす。
「そういう国の方が、安定していると思うか?」
「……一概には言えない」
「だろうな」
カヴィは楽しげに頷く。
「どんな仕組みでも、完全なものはない。ただ――すべてを一人に背負わせる国は、その一人が揺らいだ瞬間、全部が揺れる」
ゆっくりと視線を戻す。
「特にそれが、『力』であり、『未来』であり……竜そのものだった場合はな」
何気ない調子だったが、意図は隠していない。
アッシュの目がわずかに細まる。
王国が彼を疑っているという話――それが事実なら、その混乱は想像に難くない。
「……俺と王国の話か」
カヴィは答えない。
代わりにふいに声を上げた。
「お、来た」
立ち上がり、竿を引き上げる。糸は張るが、当然何もかかっていない。それでも本気で引いているように見える。
数度やり取りをしたあと、ぴたりと止まる。
水面は静かなままだ。
「……だめか」
肩の力を抜き、振り返る。
「釣れない魚もいる」にやりと笑った。
アッシュは立ち上がる。
「……お前、俺を追ってきたのか」
カヴィは肩をすくめるだけだった。
「偶然ってのは、案外多いもんだ」
肯定も否定もしない。
アッシュはそれ以上踏み込まなかった。今日ここで、この男がそれ以上話すつもりはないと分かる。背を向ける。
「次に話すなら、何を聞きたいのか決めてこい」
後ろから声が飛ぶ。
「制度か、自分か」
「……次があればな」
アッシュは振り返らずに言う。
そのまま川沿いを戻っていく。水の音は変わらず、陽光も同じように揺れている。何も起きていないかのように。
石台の上で、カヴィは再び竿を垂らした。鉤のない糸が水に沈む。
しばらくして、口元の笑みがゆっくりと消えた。




