表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二十章:忘却の村

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

223/241

幕間 引き止めた夜

 夜が更ける頃、火はほとんど燃え尽き、橙の光がかすかに床を照らすだけになっていた。メレーンの部屋はすでに閉ざされ、家の中には木がきしむ微かな音しか残っていない。


 アッシュの呼吸はやがて穏やかに整い、横向きに眠るその顔からは、昼間の張りつめた気配が薄れていた。眉間の皺も消え、警戒もない。ただ静かに、そこにいる。

 エルセリアは少し離れた場所に座ったまま、横になることができずにいた。


 彼を見つめる。


 この状態の彼は、何も背負っていない。怒りもなく、押しつぶされるような責任もなく、ただ静かに呼吸している。向けられる視線はよそよそしいままでも、そこに棘はない。透明で、どこか救いのようですらあった。


 そっと手を伸ばし、額にかかる髪へと指先を近づける。触れる直前で一瞬止まり、それから静かに撫でるように払いのけた。


「……今は、これでいい」

 ほとんど音にならないほどの声。


 自分が何をしたのか、分かっている。

 あの瞬間、ただ引き止めたかった。行かせたくなかった。自分を置いて進もうとするあの意志を、ほんの少しでも止めたかった。


 ここまで変わるとは、思っていなかった。


 けれど彼が目を覚まし、あの冷静で距離を置いた目で自分を見たとき――彼女は一瞬、安堵してしまった。


 少なくとも、憎まれてはいない。

 少なくとも、すぐに去ってはいかない。


 視線を落とす。


 記憶はいずれ戻る。遅かれ早かれ、それは避けられない。

 それでも――今は違う。


 今の一日は、拒まれていない時間だ。


 その事実にすがっている自分を、彼女ははっきり自覚していた。

 身勝手だということも、神に許されないことだとも分かっている。

 そして、すべてを思い出したとき、彼が自分を遠ざける可能性も。


 指先がゆっくりと握られ、そしてほどける。


「……ごめんなさい」

 それは彼に向けた言葉でも、神への懺悔でもない。

 まだ形になりきらない、自分自身の選択に対する、小さな確認のようだった。


 火が一度だけ揺れ、また静まる。


 エルセリアはようやく横になり、彼に背を向ける。

 だが眠りには落ちない。


 ただ耳を澄ませて、彼の呼吸を聞いている。

 その音が続いている限り、彼はまだここにいる。そう確かめずにはいられなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ