幕間 引き止めた夜
夜が更ける頃、火はほとんど燃え尽き、橙の光がかすかに床を照らすだけになっていた。メレーンの部屋はすでに閉ざされ、家の中には木がきしむ微かな音しか残っていない。
アッシュの呼吸はやがて穏やかに整い、横向きに眠るその顔からは、昼間の張りつめた気配が薄れていた。眉間の皺も消え、警戒もない。ただ静かに、そこにいる。
エルセリアは少し離れた場所に座ったまま、横になることができずにいた。
彼を見つめる。
この状態の彼は、何も背負っていない。怒りもなく、押しつぶされるような責任もなく、ただ静かに呼吸している。向けられる視線はよそよそしいままでも、そこに棘はない。透明で、どこか救いのようですらあった。
そっと手を伸ばし、額にかかる髪へと指先を近づける。触れる直前で一瞬止まり、それから静かに撫でるように払いのけた。
「……今は、これでいい」
ほとんど音にならないほどの声。
自分が何をしたのか、分かっている。
あの瞬間、ただ引き止めたかった。行かせたくなかった。自分を置いて進もうとするあの意志を、ほんの少しでも止めたかった。
ここまで変わるとは、思っていなかった。
けれど彼が目を覚まし、あの冷静で距離を置いた目で自分を見たとき――彼女は一瞬、安堵してしまった。
少なくとも、憎まれてはいない。
少なくとも、すぐに去ってはいかない。
視線を落とす。
記憶はいずれ戻る。遅かれ早かれ、それは避けられない。
それでも――今は違う。
今の一日は、拒まれていない時間だ。
その事実にすがっている自分を、彼女ははっきり自覚していた。
身勝手だということも、神に許されないことだとも分かっている。
そして、すべてを思い出したとき、彼が自分を遠ざける可能性も。
指先がゆっくりと握られ、そしてほどける。
「……ごめんなさい」
それは彼に向けた言葉でも、神への懺悔でもない。
まだ形になりきらない、自分自身の選択に対する、小さな確認のようだった。
火が一度だけ揺れ、また静まる。
エルセリアはようやく横になり、彼に背を向ける。
だが眠りには落ちない。
ただ耳を澄ませて、彼の呼吸を聞いている。
その音が続いている限り、彼はまだここにいる。そう確かめずにはいられなかった。




