第203話 村の昼と夜
洗濯を終えると、メレーンは籠の中から乾いたパンと塩漬けの肉を取り出し、干し果物も分けてくれた。三人は川辺の平らな岩に腰を下ろし、水音を聞きながら簡素な食事をとる。濡れた布に陽が当たり、かすかな光が跳ねていた。
「その脚じゃ、無理はするもんじゃないよ」
パンをかじりながら、メレーンがちらりとアッシュを見る。
「歩き方見てるだけで、こっちが痛くなる」
「……ああ」アッシュは自分の左脚に目を落とし、短く応じた。
エルセリアは少し離れた位置に座り、両手でパンを包むように持ちながらゆっくり口に運んでいる。大したものでもないはずなのに、どこか大事に味わっているようで、時折、干してある洗濯物へ視線を向けては満足そうに目を細めていた。
その様子を見て、メレーンがふっと笑う。
「夫婦だって聞いたけど、ずいぶん他人行儀だね。私がいるから遠慮してるのかい?」
「そ、そんな……」
エルセリアは一瞬固まり、すぐに頬を赤らめた。
だがメレーンは首を振る。
「命を拾ったばかりなんだ。もっと大事にしなきゃいけないよ。エルはいい子だ」
「分かっている」
アッシュは顔を上げ、静かに答えた。声は低いが、軽く流す調子ではない。
エルセリアの指がわずかに動き、視線を落とす。
「それなのに、あんたは起きてからずっと冷たい顔だ。まるで取り調べでもしてるみたいじゃないか」メレーンが鼻を鳴らす。
「何日も看てた娘に、あの態度はないだろう」
アッシュはすぐには返さなかった。川の流れる音が石の間をすり抜け、遠くでは村人の笑い声がかすかに聞こえる。そのどれもが、あまりに穏やかで、現実の輪郭を曖昧にしていた。
やがて彼はパンを膝に置き、少しだけ言葉を選ぶように口を開く。
「北境にいた記憶はある。状況も、ある程度は……それに、彼女のことも一度は見ている」
そこで一拍置く。
「だが、今聞いている話には、何ひとつ覚えがない」
エルセリアの指先がパンの端をわずかに押し潰す。それでも口は挟まなかった。
メレーンは黙って聞いたあと、ゆっくり頷く。
「頭を打って、熱まで出してたんだろう? 全部思い出せないのは珍しくもないさ。人間の頭は石じゃないからね」
少し目を細める。
「昔、川に落ちて助かったやつがいたけど、自分の名前すら忘れてた。けどな、時間が経てば少しずつ戻るもんだ。焦る必要はない」
パンくずを指で払う。
「覚えてる分で生きればいい。食べられて、歩けて、また目を開けられる。それで十分だよ」
アッシュはその皺の深い笑みを見つめ、静かに頷いた。何を信じるべきかはまだ決められない。だが少なくとも、この村の人間は彼らを厄介者ではなく、助かった若者として扱っている――それだけは確かだった。
メレーンは最後の一口を飲み込み、立ち上がる。
「さあ、戻ろう。川風は冷える。夜はちゃんと温かいものを用意してやるから、しっかり休みな」
エルセリアがすぐに立ち上がり、彼に手を差し出す。アッシュは拒まず、体重を右足に移しながらゆっくり立ち上がった。
一瞬だけ振り返る。
水面は陽を受けて揺れていた。何もかも流してしまうようでいて、何も変えていないようにも見える。
夜が更けると、メレーンは片付けを終えて部屋へ下がり、室内には火の揺らぎだけが残った。エルセリアは乾いた布を丁寧に畳んで棚に収めると、アッシュのそばに腰を下ろす。
表情は明るいままで、どこか気を抜いたような柔らかさがあった。今日一日をそのまま大切に受け取っているような、そんな空気。
しばらくの沈黙のあと、アッシュが口を開く。
「この先、どうするつもりだ」
「どう、とは……?」
「ここに長く留まるわけにはいかない」声は落ち着いていた。
「王国に追われているなら、いずれ見つかる」
その言葉で、彼女の笑みがわずかに薄れる。
「傷が治ったら、また移動しましょう。もっと遠くへ」
「どこへ行く」
一瞬の沈黙。
「……国の外へ。南か、港のある街へ。王国から離れられれば――」
それは計画というより、願いに近い響きだった。
アッシュは彼女を見つめる。昼間よりわずかに柔らいだ視線だが、思考は冷静なままだ。
「それで済むと思うか」
エルセリアは答えず、視線を落としたまま指先を重ねる。
その仕草は、言葉の代わりに何かを握りしめているようだった。
外では風が林を抜け、窓枠が小さく軋む。ここが仮の場所に過ぎないことを、静かに告げていた。
「脚が治るまでは動かない」アッシュが続ける。
「だが、動けるようになったら――判断は自分でする」
拒絶でも、同意でもない。境界線だけを示す言い方だった。
エルセリアは一度だけ彼を見て、静かに頷く。
「……分かりました」
従順な声。だが、その奥に何があるのかは読めない。
火は少しずつ弱まり、影が深くなる。彼女は反対側に簡素な寝床を整え、慣れた手つきで布を広げた。
横になる直前、小さく言う。
「あなたがいれば、どこでもいいです」
アッシュは答えなかった。聞こえなかったのか、あえて触れなかったのかは分からない。
横になっても、すぐには眠れない。胸元の鱗が肌に触れている。冷たく、そしてどこか異物のように感じられた。
記憶にあるものとは、明らかに違う。
――もし、本当にあの竜が死んでいるなら。
その思考が浮かびかけた瞬間、彼は無意識にそれを押し込めた。認めることも、否定することもできない。
一方で、エルセリアは背を向けたまま目を閉じていなかった。彼の呼吸と、消えかけの火の音を静かに聞いている。
その心にあるのは安らぎではない。
ただの、決意。
――もう少しだけでいい。
その時間を、手放すつもりはなかった。




