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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二十章:忘却の村

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第202話 記憶の違和感

 朝、目を覚ましたとき、部屋は昨日と何ひとつ変わっていなかった。

 木の梁、窓枠、壁際に積まれた干し草――差し込む光の角度まで、まるで同じだ。空気には木と湿気の匂いが混じり、わずかに暖かく、わずかに乾いている。


 アッシュはすぐには起き上がらず、そのまましばらく天井を見ていた。

 ――同じ一日を繰り返しているのではないか。

 そんな感覚を、確かめるように。


 夢の中に曖昧さはなかった。断絶もない。記憶はやけに鮮明で、むしろ刺さるようだった。


 野営地の空気、肌を切るような寒風、そして翼を広げたアエクセリオンの存在――圧倒的でありながら、どこか安堵を伴うあの気配。焚き火の中で揺れる銀青の瞳。見下ろす視線に、疑いも迷いもなかった。


 ――あれは幻ではない。


『王国は、あなたがアエクセリオンを殺したと疑っている』

 あの言葉を思い出し、胸の奥が重く沈む。


「……あり得ない」

 ほとんど独り言のように呟き、無意識に胸元へ手を伸ばした。

 指先が触れたのは、常に身につけているはずの竜鱗。


 だが、感触が違う。


 引き出して光にかざす。白に近い鱗は淡く青を帯び、縁は鋭く整い、まるで最近剥がれ落ちたばかりのように新しい。傷も摩耗もなく、光沢は静かに滑らかだった。


 記憶にあるそれとは、まるで別物だ。

 かつて持っていた鱗は、もっと重く、古び、時間を刻んだような質感をしていた。


 これは――違う。

 アエクセリオンのものではない。


 では、誰のものだ。

 それとも――なぜ自分が持っている?


 自分の記憶の方が、狂っているのか。

 その考えが胸の奥に冷たく沈んだ。


 窓から、桶がぶつかる乾いた音が響く。日常的で、脅威の欠片もない音だった。

 思考がそこで断ち切られる。


 鱗を服の内に戻し、アッシュは外へ出た。


 裏手の空き地では、メレーンとエルセリアが大きな桶を運び出している。横には山のように積まれた洗濯物。朝の光の中、その光景は驚くほど穏やかで、どこか現実味を欠いていた。


「ちょうど川へ行くところだよ」メレーンが笑う。


 アッシュは何も言わず、近くの桶を一つ持ち上げた。

「手伝う」


「脚がその調子で無理するんじゃないよ」


 たしなめられても、彼はそのまま歩き出す。

 無理をしているつもりはなかった。ただ、誰かに世話を焼かれることに慣れていないだけだ。


 エルセリアが一瞬だけ彼を見る。

 その視線は軽く、何かを確かめるようでいて、すぐに消えた。何も言わず、後ろに続く。




 川は朝の光を受けて白く揺れていた。水音は穏やかで、絶え間なく続く。


 二人は洗濯物を木桶に入れ、足で踏んで洗い始める。エルセリアは裾を持ち上げ、慎重に足を入れる。その動きはまだぎこちないが、どこか楽しそうで、まるで初めて触れる何かを確かめているようだった。


「これで本当に落ちるんですか?」

「踏み続けりゃ落ちるさ」メレーンが笑う。


 アッシュは早々に追い払われ、少し離れた岩に座らされた。

 水に触れるな、と言われる。


 木にもたれながら、彼は水しぶきを上げる彼女の様子を眺める。

 その笑顔は自然で、作られたものには見えなかった。


 ――本当に、ただ忘れているだけなのか。

 一瞬、そう思う。


 だが胸元の鱗の感触が、それを否定する。

 何かが噛み合っていない。


 やることもなくなり、アッシュは川沿いをゆっくりと歩き出した。


 水は下流へと流れ、音は細かく砕ける。戦場の痕跡も、権力の影もない。ただ穏やかで――だからこそ、不自然だった。


 少し高い岩場に出たところで、先客に気づく。


 逆光の中に立つ人影。輪郭しか見えなかったが、近づくにつれ細部が浮かび上がる。褐色の肌に、布を巻いた頭部。長衣には海鳥と波の刺繍、腰には細かな装飾具。耳元で金の輪が光を弾く。


「おや、君か」

 男は振り返り、軽やかに岩から飛び降りた。三十代半ばほど、笑みは妙に派手だ。

「一人で?」


「いや。妻が向こうで洗濯している」


 男は一瞬だけ目を見開き、すぐに笑みを深めた。

「妻、ね。そういう話になってるのか」


 アッシュは眉を寄せる。

「俺たちを知っているのか」


「知ってるとも。ロアンさんが森で見つけたっていう二人組だろ? 君、数日寝込んでたらしいな」


「もう問題ない」短く答える。


 男はしばらく黙って彼を見ていた。その視線には、どこか試すような色がある。

 アッシュが背を向けかけたとき、声が飛んだ。

「で、俺のこと、分かるか?」


「少なくとも、この村の人間には見えない」


 男は声を上げて笑う。

「どうしてそう思う?」


「服装と肌の色だ。この気候に合っていない」


 男は自分の格好を見下ろし、肩をすくめた。

「残念。南の国から帰ってきた村人さ」


「なら、その格好は不自然だ」

 即座に返すと、男はさらに楽しそうに笑った。


「面白いな」

 一歩近づき、軽く手を上げる。

「《《カヴィ》》だ。気が向いたら来いよ。外が《《今》》どうなってるか、教えてやる」

 その言い方に、わずかな引っかかりが残る。


 アッシュは特に反応せず、小さく頷くだけに留めた。

 カヴィはそれ以上追ってこず、ただ背後でくぐもった笑い声を落とした。




 川辺へ戻ると、エルセリアはまだ洗濯を続けていた。水しぶきが裾に跳ねている。

 彼に気づき、軽く笑う。

 その笑みは静かで、まっすぐで――未来を疑っていない者のものだった。

 だがアッシュの中には、別のものが残っている。


 ――カヴィ。

 そして、記憶に存在しない竜鱗。


 その二つが、静かに噛み合わないまま、意識の奥に沈んでいった。

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