第202話 記憶の違和感
朝、目を覚ましたとき、部屋は昨日と何ひとつ変わっていなかった。
木の梁、窓枠、壁際に積まれた干し草――差し込む光の角度まで、まるで同じだ。空気には木と湿気の匂いが混じり、わずかに暖かく、わずかに乾いている。
アッシュはすぐには起き上がらず、そのまましばらく天井を見ていた。
――同じ一日を繰り返しているのではないか。
そんな感覚を、確かめるように。
夢の中に曖昧さはなかった。断絶もない。記憶はやけに鮮明で、むしろ刺さるようだった。
野営地の空気、肌を切るような寒風、そして翼を広げたアエクセリオンの存在――圧倒的でありながら、どこか安堵を伴うあの気配。焚き火の中で揺れる銀青の瞳。見下ろす視線に、疑いも迷いもなかった。
――あれは幻ではない。
『王国は、あなたがアエクセリオンを殺したと疑っている』
あの言葉を思い出し、胸の奥が重く沈む。
「……あり得ない」
ほとんど独り言のように呟き、無意識に胸元へ手を伸ばした。
指先が触れたのは、常に身につけているはずの竜鱗。
だが、感触が違う。
引き出して光にかざす。白に近い鱗は淡く青を帯び、縁は鋭く整い、まるで最近剥がれ落ちたばかりのように新しい。傷も摩耗もなく、光沢は静かに滑らかだった。
記憶にあるそれとは、まるで別物だ。
かつて持っていた鱗は、もっと重く、古び、時間を刻んだような質感をしていた。
これは――違う。
アエクセリオンのものではない。
では、誰のものだ。
それとも――なぜ自分が持っている?
自分の記憶の方が、狂っているのか。
その考えが胸の奥に冷たく沈んだ。
窓から、桶がぶつかる乾いた音が響く。日常的で、脅威の欠片もない音だった。
思考がそこで断ち切られる。
鱗を服の内に戻し、アッシュは外へ出た。
裏手の空き地では、メレーンとエルセリアが大きな桶を運び出している。横には山のように積まれた洗濯物。朝の光の中、その光景は驚くほど穏やかで、どこか現実味を欠いていた。
「ちょうど川へ行くところだよ」メレーンが笑う。
アッシュは何も言わず、近くの桶を一つ持ち上げた。
「手伝う」
「脚がその調子で無理するんじゃないよ」
たしなめられても、彼はそのまま歩き出す。
無理をしているつもりはなかった。ただ、誰かに世話を焼かれることに慣れていないだけだ。
エルセリアが一瞬だけ彼を見る。
その視線は軽く、何かを確かめるようでいて、すぐに消えた。何も言わず、後ろに続く。
川は朝の光を受けて白く揺れていた。水音は穏やかで、絶え間なく続く。
二人は洗濯物を木桶に入れ、足で踏んで洗い始める。エルセリアは裾を持ち上げ、慎重に足を入れる。その動きはまだぎこちないが、どこか楽しそうで、まるで初めて触れる何かを確かめているようだった。
「これで本当に落ちるんですか?」
「踏み続けりゃ落ちるさ」メレーンが笑う。
アッシュは早々に追い払われ、少し離れた岩に座らされた。
水に触れるな、と言われる。
木にもたれながら、彼は水しぶきを上げる彼女の様子を眺める。
その笑顔は自然で、作られたものには見えなかった。
――本当に、ただ忘れているだけなのか。
一瞬、そう思う。
だが胸元の鱗の感触が、それを否定する。
何かが噛み合っていない。
やることもなくなり、アッシュは川沿いをゆっくりと歩き出した。
水は下流へと流れ、音は細かく砕ける。戦場の痕跡も、権力の影もない。ただ穏やかで――だからこそ、不自然だった。
少し高い岩場に出たところで、先客に気づく。
逆光の中に立つ人影。輪郭しか見えなかったが、近づくにつれ細部が浮かび上がる。褐色の肌に、布を巻いた頭部。長衣には海鳥と波の刺繍、腰には細かな装飾具。耳元で金の輪が光を弾く。
「おや、君か」
男は振り返り、軽やかに岩から飛び降りた。三十代半ばほど、笑みは妙に派手だ。
「一人で?」
「いや。妻が向こうで洗濯している」
男は一瞬だけ目を見開き、すぐに笑みを深めた。
「妻、ね。そういう話になってるのか」
アッシュは眉を寄せる。
「俺たちを知っているのか」
「知ってるとも。ロアンさんが森で見つけたっていう二人組だろ? 君、数日寝込んでたらしいな」
「もう問題ない」短く答える。
男はしばらく黙って彼を見ていた。その視線には、どこか試すような色がある。
アッシュが背を向けかけたとき、声が飛んだ。
「で、俺のこと、分かるか?」
「少なくとも、この村の人間には見えない」
男は声を上げて笑う。
「どうしてそう思う?」
「服装と肌の色だ。この気候に合っていない」
男は自分の格好を見下ろし、肩をすくめた。
「残念。南の国から帰ってきた村人さ」
「なら、その格好は不自然だ」
即座に返すと、男はさらに楽しそうに笑った。
「面白いな」
一歩近づき、軽く手を上げる。
「《《カヴィ》》だ。気が向いたら来いよ。外が《《今》》どうなってるか、教えてやる」
その言い方に、わずかな引っかかりが残る。
アッシュは特に反応せず、小さく頷くだけに留めた。
カヴィはそれ以上追ってこず、ただ背後でくぐもった笑い声を落とした。
川辺へ戻ると、エルセリアはまだ洗濯を続けていた。水しぶきが裾に跳ねている。
彼に気づき、軽く笑う。
その笑みは静かで、まっすぐで――未来を疑っていない者のものだった。
だがアッシュの中には、別のものが残っている。
――カヴィ。
そして、記憶に存在しない竜鱗。
その二つが、静かに噛み合わないまま、意識の奥に沈んでいった。




