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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二十章:忘却の村

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第201話 偽りの夫婦

 アッシュは湯気を立てるスープに手をつけず、そのまましばらく眺めていた。


 エルセリアの語った内容――王国にアエクセリオン殺害の疑いをかけられ、指名手配となったこと、彼女だけがそれを信じず、二人で辺境を逃げ回っていたこと――それらを頭の中で繋ぎ合わせると、一つの筋の通った物語にはなる。


 あまりにも整いすぎているせいで、かえって真偽の判断がつかない。


 彼は何も言わなかった。否定もせず、信じるとも言わず、問いを重ねることもなく、ただ一言だけ落とす。


「……少し考える」平坦な声だった。

 そのまま立ち上がり、外へ出る。


 村は想像よりも小さかった。数軒の木造家屋が土の道に沿って並び、背後にはすぐ林が迫っている。遠くには低い山影が連なり、空気は乾いて冷たい。薪と木屑の匂いが混じる中、誰かが柵を修理し、女が洗濯物を干し、子どもたちが犬の周りを駆け回っていた。


 戦場とは無関係な日常――その光景が、かえって現実感を狂わせる。


 数歩進むと、左脚に鈍い痛みが走る。それでも歩けないほどではない。

 背後から足音が近づいた。


 振り返ると、体格のいい中年の男が、気さくな笑みを浮かべて立っていた。

「目が覚めたか。ずいぶんしぶといな」


 アッシュは短く視線を返す。

「俺たちを運んだのはあなたか?」


「いや、ロアンだよ」

 男は林の方を顎で示す。

「狩りの最中に見つけたらしい。あんたの奥さん、ずっと付き添っててな」


 ――奥さん。

 俺が?


 その言葉に、アッシュの視線がわずかに止まる。

 男は気にした様子もなく続けた。


「しばらくここで休めばいい。メレーンさんの家は空いてるし、面倒見もいい。体を治してから動けばいいさ」

 言い終えると、そのまま去ろうとする。


「待て」アッシュが呼び止める。

「ロアンはどこだ」


「この時間なら山だな。二、三日もすれば戻る」

 それ以上の情報はなさそうだった。

 アッシュは頷き、男を見送る。


 村外れの石囲いに腰を下ろすと、脚の力が抜けた瞬間、痛みがはっきりと浮かび上がった。包帯の巻かれた左脚を見下ろしながら、先ほどの話を整理する。


 三日間の昏睡。村人の証言は一致している。エルセリアの説明にも大きな矛盾はない。

 ――記憶が抜けている。

 それだけは、もはや否定しきれなかった。


 足音が近づく。エルセリアが、少し距離を保ったまま隣に立つ。

「少し心配で……」自然な口調だった。


 アッシュは責めることなく、別のことを聞く。

「村の連中は、お前をエルと呼んでいるな」


 彼女は頷く。

「エルセリアだと目立ちますから。短い方が都合がいいんです」


「……俺は?」


 彼女がわずかに戸惑う。


「隠れるつもりなら、本名を使う理由がない」


 少しの間のあと、彼女はすぐに答えた。

「……慣れてしまっていて。外ではノアと呼んでいます」


 アッシュは数秒、彼女を見てから頷く。

「そうか」ひとまず受け入れた、という程度の反応。


 エルセリアの肩がわずかに緩む。


「さっき、奥さんだと言われた」

 彼が続けると、

 彼女はすぐ首を振った。


「もし嫌なら、ちゃんと説明します」少し焦った声。


 その様子を見て、アッシュはわずかに目を細める。

「嫌だとは言っていない。ただ――」


 一拍置く。


「そういう感覚がない」淡々とした言い方だった。

「今の俺に、その関係は判断できない」


 冷たくも、残酷でもない。ただ事実を述べただけの声。

 エルセリアの指先がかすかに強張り、それでもすぐに力を抜く。


「……分かっています」小さく言う。

「無理をしないでください」


 アッシュはわずかに眉を寄せた。


「お前は、妙だな」


「どこがですか?」


 言葉に詰まる。違和感はあるが、うまく形にならない。話の内容ではなく、彼女の態度――受け入れ方があまりにも静かすぎる。

 まるで、最初から結末を知っているかのように。


 無意識に衣の襟を引いた。


 エルセリアは空を見上げる。

「日が落ちます。戻りましょう」


 彼は拒まなかった。

 彼女に腕を支えられたとき、その手がひどく冷たいことに気づく。


 短い距離のはずの道を歩きながら、アッシュはぼんやりと感じていた。

 自分は今、森よりも複雑な何かの中に足を踏み入れている。そして、その全体を把握しているのは、彼女だけだと。




 家に戻ると、扉は半開きで、中から鍋をかき混ぜる音が聞こえていた。エルセリアが先に入り、アッシュがその後に続く。


 メレーンが顔を出し、二人を見た瞬間、表情を緩めた。

「おや、戻ったのかい。仲直りしたみたいで何よりだね」


 アッシュはわずかに目を細める。


「さっき出ていったときの顔がひどくてねえ、てっきり大喧嘩かと思ったよ」


 エルセリアが口を開きかけたが、それより先にアッシュが応じる。


「ご心配をおかけしました」丁寧で、距離のある言い方だった。

「世話になっていると聞いています」


 メレーンは大きく笑う。


「何言ってるんだい! 若い外の何人が来たときは警戒もするけどね、あんたたちを見てたらそんな気も失せたよ」


 二人を見比べる。

「その格好、言われなきゃ貴族の坊ちゃん嬢ちゃんだ」


 言いかけて、急に声を上げる。

「ああ、焦げる!」

 慌てて台所へ戻り、鍋をかき回す音が響く。

「さっきのスープじゃ足りないだろうと思ってね、麦も煮てるよ!」


 部屋は再び静かになった。

 アッシュはゆっくり椅子に腰を下ろし、左脚の位置を整えながらエルセリアを見る。

「夫婦設定の他に、何を話した」


 彼女は一瞬驚いたが、すぐに隣へ座る。

「新婚旅行中、とだけ……それ以上は聞かれませんでした」


「……なるほど」

 アッシュの口元がわずかに動く。

「駆け落ちした貴族、というところか」


 エルセリアは少し身を寄せ、小声で言う。

「そう見えますか?」


「立ち居振る舞いが平民じゃない」

 淡々と返す。


「それに――」

 言いかけて、そこで止める。姿勢を正し、表情を戻す。

 エルセリアはそれ以上踏み込まなかった。


 やがてメレーンが湯気の立つ麦粥を運んでくる。素朴な器から立ちのぼる香りが、部屋にゆっくり広がる。

「さあ、熱いうちに食べな」


 エルセリアは少し困ったように笑う。

「さっきスープをいただいたので……」


「そうかい?」

 メレーンはアッシュを見る。

「あんたは?」


「いただく」短く答える。


「よし、それでいい!」

 満足げに笑い、再び忙しそうに動き回る。


 やがて、部屋には二人だけが残った。

 アッシュは匙で麦粥をかき混ぜながら、先ほどの言葉を思い返す。

 ――外から来た若い人間が、何人か。


「何人か」。

 その言葉が、頭の奥に引っかかる。


 視線は上げないまま、思考の中で転がす。単なる言い回しか、それとも別の意味があるのか。

 今は判断材料が足りない。あえて問いもしなかった。


 隣では、エルセリアが静かに彼を見ている。その視線は何かを待つようでいて、同時に、彼自身がまだ気づいていない選択を見届けようとしているようでもあった。

 その気配が、思考をわずかに鈍らせる。


 アッシュは何も言わず、食事を続けた。

 ――少なくとも、この村は今のところ安全だ。

 そして、彼女の言葉を、まだ信じたわけではない。

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