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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第二十章:忘却の村

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第200話 記憶の断層

 意識は、見知らぬ柔らかさの中からゆっくりと浮かび上がってきた。石の冷たさでも湿った洞窟でもない。木の匂いと乾いた布の感触、そこにかすかな煙の残り香が混じっている。


 目を開けた瞬間、視界はまだ定まらなかった。天井には粗い木の梁が走り、その隙間から午後の光が差し込んでいる。小さな窓には簡素な布のカーテンが掛かっていた。数秒遅れて、ようやく夢ではないと理解する。


 体が重い。とくに左脚は何かに押さえつけられているようだった。視線を落とすと、そこには丁寧に巻かれた包帯と、それを支える木板がある。野外の応急処置ではない。上体を起こそうとした瞬間、こめかみに鈍い痛みが走った。


 外から足音が近づき、木戸が開く。中年の女が水盆を抱えて入ってきて、彼が起きているのを見るなり一瞬驚き、すぐにほっとしたように息をついた。


「まあ、目が覚めたのね」


 アッシュは答えず、室内を見渡す。木の机に素朴な陶器、隅には干し草と狩猟道具。軍の施設でも北境の建物でもない。


「……ここはどこだ」


 掠れた声で問うと、女は少し戸惑ったように目を瞬かせた。


「覚えてないのかい? ここは渓林村だよ。あんたたち二人とも、森で猟師に見つかって運ばれてきたんだ」


「二人?」


 わずかに眉を寄せたところで、外から慌ただしい足音が近づき、次の瞬間、扉が勢いよく開いた。


 立っていた少女を見て、アッシュの視線がわずかに止まる。淡い色の長い衣に、紫がかった髪を簡素に束ねた姿。表情には明らかな焦りが浮かんでいた。


「ノアディス」

 駆け寄ってきた彼女は言いかける。


「ごめんなさい、私、わざとじゃ――」

 だが言葉は途中で止まった。向けられた視線があまりにも冷たく、見知らぬものだったからだ。


「……誰だ」


 空気が静まり返る。

「頭でも打ったのかしらね」女が小さく首を傾げる。


 アッシュの眉間がさらに深く寄る。

「何を言っている。状況を説明しろ」


 視線を彼女に戻し、淡々と続ける。

「教国の聖女だな。北境の辺軍で一度見た、なぜここに?」


 名前は呼ばない。声にも温度はない。


 エルセリアの指先がわずかに強張る。

「あなた……私たちが一緒に――」


「なぜ俺がここにいる」

 遮るように言い、声は低く落ちる。それは問いではなく、明らかに尋問だった。立ち上がろうとした瞬間、左脚に鋭い痛みが走るが、表情を変えず体勢を整える。


「説明しろ」


 女は気まずそうに一歩下がった。

「ちょっと食べ物を用意してくるよ」


 扉が閉まり、室内には二人だけが残る。


 エルセリアはその場に立ち尽くし、一瞬だけ目の奥が空白になる。驚きではない。理解したからだ。彼の時間は止まっている――自分がただの「教国の聖女」だった頃で。


 ゆっくりと息を整え、問いかける。

「……何があったか、覚えていますか?」


 アッシュは記憶を辿る。野営地、北境、カルドリアへ向かう遠征の途上――そこで途切れている。


「……陣を離れた記憶がない」

 視線を戻す。

「なぜここにいる。なぜお前と一緒だ」


 彼女は一瞬ためらい、それでも続ける。

「……アエクセリオンのことは覚えていますか」


 その名に、アッシュの目がわずかに鋭くなる。


「当然だ」

 即答だった。


「昨日も、幕舎の外にいた」

 自然で疑いのない口調。


 エルセリアの指先がわずかに震える。――彼にとっての「昨日」はそこなのだ。

 感情を押し込み、息を吸う。ここで選べる。すべてを話せば、彼は迷わず離れる。だが、この事実だけは。


「アエクセリオンは……もういません」


 空気が張り詰める。

 アッシュは怒りも驚きも見せない。ただ静かに彼女を見つめる。その視線は冷え切っていた。


「どういう意味だ」

 低く抑えた声。


 エルセリアは視線を逸らさない。

「……死にました」

 はっきりと言う。


 その瞬間、アッシュの口元がわずかに歪んだ。短く、冷たい笑み。


「あり得ない」即座に否定する。

「あいつが簡単に死ぬはずがない」


「……一年前のことです」

 沈黙が落ちる。彼の視線が言葉を測るように沈んでいく。


「そのあと……あなたは苦しんで、私のところへ来たんです。私たちは一緒に旅をして――ここまで来ました。あなたは私を庇って怪我をして、山で滑落して……頭を打って」


 指が震え、胸の前で組まれる。

「だから……私のことも忘れてしまった。ごめんなさい。でも……目を覚ましてくれて、本当に……」


 アッシュはただ見ている。揺らぎも同情もない。ただの沈黙。それは否定よりも重かった。

 やがて、かすかに笑う。


「……信じると思うか」冷え切った声。

「一年も経って何も覚えていない? 王国が俺を放置する? あいつが来ないで死んだ?」


 視線が鋭くなる。「何を隠している」


 エルセリアは否定しない。隠していることはある。だが、それは彼の疑いとは違う。


「このことを嘘で言う理由はありません。アエクセリオンは本当に――」

 言い切る前に、彼はこめかみを押さえ、突然立ち上がった。衣を掴み、脚の痛みも無視して扉へ向かう。


「くだらない」低く吐き捨てる。


 エルセリアがすぐに追う。

「頭を打っているんです。記憶が――」


 彼は振り返る。その目は刃のようだった。

「曖昧にするな」


 扉を開ける。外では女が湯気の立つスープを置いていた。驚きながらもすぐに笑顔を作る。

「ちょうどいいよ、三日も眠ってたんだから、まずは食べな」


 アッシュの動きが止まる。

「……三日?」低く繰り返す。


 女は空気の変化に気づき、慌てて言う。

「エルもおいで」


「ありがとうございます」エルセリアが応じる。


 アッシュは彼女を見る。

「全部話せ」


 机に向かい、椅子に腰を下ろす。動きは硬いが、弱さは見せない。隣の席を指で示す。それは招きではなく、命令だった。


 女は察して距離を取る。

 エルセリアは静かにその席に座った。


 ――今は、泣く時ではない。

 これは、対峙だった。

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