第200話 記憶の断層
意識は、見知らぬ柔らかさの中からゆっくりと浮かび上がってきた。石の冷たさでも湿った洞窟でもない。木の匂いと乾いた布の感触、そこにかすかな煙の残り香が混じっている。
目を開けた瞬間、視界はまだ定まらなかった。天井には粗い木の梁が走り、その隙間から午後の光が差し込んでいる。小さな窓には簡素な布のカーテンが掛かっていた。数秒遅れて、ようやく夢ではないと理解する。
体が重い。とくに左脚は何かに押さえつけられているようだった。視線を落とすと、そこには丁寧に巻かれた包帯と、それを支える木板がある。野外の応急処置ではない。上体を起こそうとした瞬間、こめかみに鈍い痛みが走った。
外から足音が近づき、木戸が開く。中年の女が水盆を抱えて入ってきて、彼が起きているのを見るなり一瞬驚き、すぐにほっとしたように息をついた。
「まあ、目が覚めたのね」
アッシュは答えず、室内を見渡す。木の机に素朴な陶器、隅には干し草と狩猟道具。軍の施設でも北境の建物でもない。
「……ここはどこだ」
掠れた声で問うと、女は少し戸惑ったように目を瞬かせた。
「覚えてないのかい? ここは渓林村だよ。あんたたち二人とも、森で猟師に見つかって運ばれてきたんだ」
「二人?」
わずかに眉を寄せたところで、外から慌ただしい足音が近づき、次の瞬間、扉が勢いよく開いた。
立っていた少女を見て、アッシュの視線がわずかに止まる。淡い色の長い衣に、紫がかった髪を簡素に束ねた姿。表情には明らかな焦りが浮かんでいた。
「ノアディス」
駆け寄ってきた彼女は言いかける。
「ごめんなさい、私、わざとじゃ――」
だが言葉は途中で止まった。向けられた視線があまりにも冷たく、見知らぬものだったからだ。
「……誰だ」
空気が静まり返る。
「頭でも打ったのかしらね」女が小さく首を傾げる。
アッシュの眉間がさらに深く寄る。
「何を言っている。状況を説明しろ」
視線を彼女に戻し、淡々と続ける。
「教国の聖女だな。北境の辺軍で一度見た、なぜここに?」
名前は呼ばない。声にも温度はない。
エルセリアの指先がわずかに強張る。
「あなた……私たちが一緒に――」
「なぜ俺がここにいる」
遮るように言い、声は低く落ちる。それは問いではなく、明らかに尋問だった。立ち上がろうとした瞬間、左脚に鋭い痛みが走るが、表情を変えず体勢を整える。
「説明しろ」
女は気まずそうに一歩下がった。
「ちょっと食べ物を用意してくるよ」
扉が閉まり、室内には二人だけが残る。
エルセリアはその場に立ち尽くし、一瞬だけ目の奥が空白になる。驚きではない。理解したからだ。彼の時間は止まっている――自分がただの「教国の聖女」だった頃で。
ゆっくりと息を整え、問いかける。
「……何があったか、覚えていますか?」
アッシュは記憶を辿る。野営地、北境、カルドリアへ向かう遠征の途上――そこで途切れている。
「……陣を離れた記憶がない」
視線を戻す。
「なぜここにいる。なぜお前と一緒だ」
彼女は一瞬ためらい、それでも続ける。
「……アエクセリオンのことは覚えていますか」
その名に、アッシュの目がわずかに鋭くなる。
「当然だ」
即答だった。
「昨日も、幕舎の外にいた」
自然で疑いのない口調。
エルセリアの指先がわずかに震える。――彼にとっての「昨日」はそこなのだ。
感情を押し込み、息を吸う。ここで選べる。すべてを話せば、彼は迷わず離れる。だが、この事実だけは。
「アエクセリオンは……もういません」
空気が張り詰める。
アッシュは怒りも驚きも見せない。ただ静かに彼女を見つめる。その視線は冷え切っていた。
「どういう意味だ」
低く抑えた声。
エルセリアは視線を逸らさない。
「……死にました」
はっきりと言う。
その瞬間、アッシュの口元がわずかに歪んだ。短く、冷たい笑み。
「あり得ない」即座に否定する。
「あいつが簡単に死ぬはずがない」
「……一年前のことです」
沈黙が落ちる。彼の視線が言葉を測るように沈んでいく。
「そのあと……あなたは苦しんで、私のところへ来たんです。私たちは一緒に旅をして――ここまで来ました。あなたは私を庇って怪我をして、山で滑落して……頭を打って」
指が震え、胸の前で組まれる。
「だから……私のことも忘れてしまった。ごめんなさい。でも……目を覚ましてくれて、本当に……」
アッシュはただ見ている。揺らぎも同情もない。ただの沈黙。それは否定よりも重かった。
やがて、かすかに笑う。
「……信じると思うか」冷え切った声。
「一年も経って何も覚えていない? 王国が俺を放置する? あいつが来ないで死んだ?」
視線が鋭くなる。「何を隠している」
エルセリアは否定しない。隠していることはある。だが、それは彼の疑いとは違う。
「このことを嘘で言う理由はありません。アエクセリオンは本当に――」
言い切る前に、彼はこめかみを押さえ、突然立ち上がった。衣を掴み、脚の痛みも無視して扉へ向かう。
「くだらない」低く吐き捨てる。
エルセリアがすぐに追う。
「頭を打っているんです。記憶が――」
彼は振り返る。その目は刃のようだった。
「曖昧にするな」
扉を開ける。外では女が湯気の立つスープを置いていた。驚きながらもすぐに笑顔を作る。
「ちょうどいいよ、三日も眠ってたんだから、まずは食べな」
アッシュの動きが止まる。
「……三日?」低く繰り返す。
女は空気の変化に気づき、慌てて言う。
「エルもおいで」
「ありがとうございます」エルセリアが応じる。
アッシュは彼女を見る。
「全部話せ」
机に向かい、椅子に腰を下ろす。動きは硬いが、弱さは見せない。隣の席を指で示す。それは招きではなく、命令だった。
女は察して距離を取る。
エルセリアは静かにその席に座った。
――今は、泣く時ではない。
これは、対峙だった。




