第199話 歪んだ祈り
午後の光は、ゆっくりと温もりを帯びていった。
治療のあと、痛みこそ残っているが、朝よりは明らかに安定している。アッシュは枝に体を預けて立ち上がる。
エルセリアがそばで支えるが、その動きはいつもより慎重だった。
「無理はしないで」
「方角を確かめる必要がある」
短い応答のあと、彼女は黙って付き添い、二人で林の外縁へ向かう。
この一帯はやや高く、木々の隙間から遠くの稜線がわずかに見えた。アッシュは記憶と照らし合わせる。崩落の向き、渓の曲がり、陽の位置。
このまま北西へ斜面を辿れば、元の山道へ戻れるはずだった。
「明日から上流へ向かう」
ふいに彼が言う。
エルセリアの手がわずかに止まる。
「上流へ?」
「崩れたのは上だ。生き残りがいれば、そこから探してくる。距離を詰めた方が見つかりやすい」
声は落ち着いている。
彼女はすぐには答えなかった。風が枝葉を揺らす。
「……誰も来なかったら?」
静かな問いだった。
アッシュは彼女を見る。
「全滅とは限らない。ラッセルは諦めない」
エルセリアは視線を落とす。
「でも……見つからなかったら?」
その言い方は、仮定というより現実をなぞるようだった。
アッシュは眉を寄せる。
「何が言いたい」
彼女はまっすぐ見返した。
「見つからなければ、帰るでしょう。王国はあなたが死んだと思う。教国も私が殉職したと考える。戦争は止まって、儀式も終わる」
少しだけ間を置く。
「それで……いいとは思いませんか?」
空気が止まった。
アッシュの表情がわずかに冷える。
「それは解決じゃない」
「どうして?」
問いは真剣だった。甘えでも反発でもない。
「戻れば、何が待っているか分かってるでしょう。王国の責任……それに封印の儀式も」
彼女は静かに続ける。
「あなたが望んでいないことも」
アッシュは否定しない。
「それでも現実だ」
「現実は変えられます」
穏やかな声だった。
「神様が、この機会をくださったのかもしれない」
アッシュの目が沈む。
「事故だ」
彼は言い切る。
エルセリアは小さく首を振った。
「どうして、そう言い切れるんですか」
その一言に、彼はわずかに言葉を失う。
彼女は一歩近づき、袖をつかんだ。力は強くない。
「ここには何もない。儀式も、役割も。あなたと私だけ」
息のように言う。
「それが、あなたの望みじゃないんですか。静かな暮らし」
アッシュの胸がわずかに揺れる。
――それは、リゼとリメアと共に望んだものだ。
違う。
彼は手を振り払う。
「逃げるために生きてるわけじゃない。死んだことにして消えるつもりもない」
はっきりと言う。
彼女の手が空中で止まった。
「消えてほしいんじゃない」
慌てたように言う。
「ただ……」
言葉が途切れる。
その先を、自分でも言えなかった。
ただ、留めておきたいだけだと。
風が強くなる。
アッシュは彼女を見つめる。声は変わらず静かだが、重さが増していた。
「誰にとって何が最善か、決めるのはお前じゃない」
その言葉は、はっきりと届いた。
「全部の人のためじゃない!」
彼女は初めて声を上げる。
「私たちのために――」
途中で止まる。
その「私たち」に、自分が含まれていないことに気づいたからだ。
沈黙が落ちた。
遠くで鳥が飛び立つ。
エルセリアはゆっくり一歩退いた。涙も怒りもない。ただ彼を見つめる。
「……そうなんですね」
声は軽い。絶望ではない。何かを決めた響きだった。
そのまま彼女は背を向け、林の奥へ歩き出す。速くはないが、迷いもない。
アッシュは眉を寄せる。
「エルセリア」
呼んでも振り返らない。
背中はすぐ木陰に紛れ、足音も落葉に消える。
アッシュは反射的に一歩踏み出す。左脚に痛みが走り、歯を食いしばって耐える。
「勝手に動くな。危ない」
低く言うが、彼女は止まらない。
駆け出すわけでもない。ただ静かに、意志をもって進んでいく。その方が、かえって不安を煽った。
アッシュは枝に体を預けて追う。歩みは遅いが止まらない。地面は湿り、折れた枝が足を取る。集中しなければ、すぐに崩れそうだった。
思ったより森は深い。曲がりをいくつか越えるうちに、元の方向感覚が曖昧になる。地形と陽の位置で大まかな方角を取るしかない。
――このまま進めば、戻れなくなる。
その考えがよぎる。
「エル」
少し声を強める。
今度は、止まった。
木々の間が少し開けた場所。上から差す光が彼女の肩に落ちている。泣いてはいない。ただ静かだった。
「どうして追ってきたんですか」
アッシュは迷わない。
「一人にできない」
短い答え。
それだけで、彼女の目がわずかに揺れる。
「それだけ?」
「それで十分だ」
彼は数歩の距離を保ったまま立つ。左脚はわずかに震えているが、崩れてはいない。
「誰も置いていかない」
付け足す。
その言葉が、彼女だけに向けられていないことは、彼女自身が一番よく分かっていた。
視線が彼の脚へ落ちる。本来なら追ってくる状態ではない。それでも来た。
愛ではない。だが無関心でもない。
その曖昧さが、拒絶よりも鋭かった。
彼女は一歩近づく。距離が縮まる。
「もし……戻ったら」
小さく言う。
指先が彼の袖に触れる。
「私を選びますか」
問いではない。確認だった。
アッシュは答えない。
沈黙が、そのまま答えになる。
風が林を抜ける。
彼女の手は離れない。
その瞬間、彼女の目が澄む。狂気ではない。決意だった。
「今のあなたは、弱い」
静かな声。
「もう一度熱が出たら、持ちません」
アッシュは違和感に気づき、一歩引こうとする。だが脚がわずかに遅れる。
彼女のもう一方の手が上がる。
掌が彼の額に触れる。
攻撃ではない。治療の形。
「少し、眠ってください」
囁きに近い声だった。
掌から淡い光がにじむ。
アッシュは反射的に振り払おうとするが、その瞬間、温かなものが神経に染み込んだ。強い衝撃ではない。細く、持続する圧力。
打撃ではなく、封じる力。
異常だと理解する。
「……お前――」
言葉が途切れる前に、視界が崩れ始めた。
彼女は彼の体を支え、倒れないよう抱き留める。
声はほとんど聞こえない。
「……これで、戻らなくて済みます」
最後に見えたのは、枝葉の隙間から落ちる光。
そして、すべてが暗く沈んだ。




