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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第十九章:帰還の道

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第199話 歪んだ祈り

 午後の光は、ゆっくりと温もりを帯びていった。

 治療のあと、痛みこそ残っているが、朝よりは明らかに安定している。アッシュは枝に体を預けて立ち上がる。


エルセリアがそばで支えるが、その動きはいつもより慎重だった。

「無理はしないで」


「方角を確かめる必要がある」

 短い応答のあと、彼女は黙って付き添い、二人で林の外縁へ向かう。


この一帯はやや高く、木々の隙間から遠くの稜線がわずかに見えた。アッシュは記憶と照らし合わせる。崩落の向き、渓の曲がり、陽の位置。

 このまま北西へ斜面を辿れば、元の山道へ戻れるはずだった。


「明日から上流へ向かう」

 ふいに彼が言う。


 エルセリアの手がわずかに止まる。

「上流へ?」


「崩れたのは上だ。生き残りがいれば、そこから探してくる。距離を詰めた方が見つかりやすい」

 声は落ち着いている。


 彼女はすぐには答えなかった。風が枝葉を揺らす。

「……誰も来なかったら?」

 静かな問いだった。


 アッシュは彼女を見る。

「全滅とは限らない。ラッセルは諦めない」


 エルセリアは視線を落とす。

「でも……見つからなかったら?」

 その言い方は、仮定というより現実をなぞるようだった。


 アッシュは眉を寄せる。

「何が言いたい」


 彼女はまっすぐ見返した。

「見つからなければ、帰るでしょう。王国はあなたが死んだと思う。教国も私が殉職したと考える。戦争は止まって、儀式も終わる」

 少しだけ間を置く。

「それで……いいとは思いませんか?」


 空気が止まった。

 アッシュの表情がわずかに冷える。

「それは解決じゃない」


「どうして?」

 問いは真剣だった。甘えでも反発でもない。


「戻れば、何が待っているか分かってるでしょう。王国の責任……それに封印の儀式も」

 彼女は静かに続ける。

「あなたが望んでいないことも」


 アッシュは否定しない。

「それでも現実だ」


「現実は変えられます」

 穏やかな声だった。

「神様が、この機会をくださったのかもしれない」


 アッシュの目が沈む。

「事故だ」

 彼は言い切る。


 エルセリアは小さく首を振った。

「どうして、そう言い切れるんですか」

 その一言に、彼はわずかに言葉を失う。


 彼女は一歩近づき、袖をつかんだ。力は強くない。

「ここには何もない。儀式も、役割も。あなたと私だけ」

 息のように言う。

「それが、あなたの望みじゃないんですか。静かな暮らし」


 アッシュの胸がわずかに揺れる。

 ――それは、リゼとリメアと共に望んだものだ。


 違う。

 彼は手を振り払う。


「逃げるために生きてるわけじゃない。死んだことにして消えるつもりもない」

 はっきりと言う。


 彼女の手が空中で止まった。

「消えてほしいんじゃない」

 慌てたように言う。


「ただ……」

 言葉が途切れる。

 その先を、自分でも言えなかった。

 ただ、留めておきたいだけだと。


 風が強くなる。

 アッシュは彼女を見つめる。声は変わらず静かだが、重さが増していた。


「誰にとって何が最善か、決めるのはお前じゃない」

 その言葉は、はっきりと届いた。


「全部の人のためじゃない!」

 彼女は初めて声を上げる。

「私たちのために――」

 途中で止まる。

 その「私たち」に、自分が含まれていないことに気づいたからだ。

 沈黙が落ちた。


 遠くで鳥が飛び立つ。

 エルセリアはゆっくり一歩退いた。涙も怒りもない。ただ彼を見つめる。


「……そうなんですね」

 声は軽い。絶望ではない。何かを決めた響きだった。

 そのまま彼女は背を向け、林の奥へ歩き出す。速くはないが、迷いもない。


 アッシュは眉を寄せる。

「エルセリア」

 呼んでも振り返らない。


 背中はすぐ木陰に紛れ、足音も落葉に消える。

 アッシュは反射的に一歩踏み出す。左脚に痛みが走り、歯を食いしばって耐える。

「勝手に動くな。危ない」

 低く言うが、彼女は止まらない。


 駆け出すわけでもない。ただ静かに、意志をもって進んでいく。その方が、かえって不安を煽った。

 アッシュは枝に体を預けて追う。歩みは遅いが止まらない。地面は湿り、折れた枝が足を取る。集中しなければ、すぐに崩れそうだった。


 思ったより森は深い。曲がりをいくつか越えるうちに、元の方向感覚が曖昧になる。地形と陽の位置で大まかな方角を取るしかない。

 ――このまま進めば、戻れなくなる。

 その考えがよぎる。


「エル」

 少し声を強める。

 今度は、止まった。


 木々の間が少し開けた場所。上から差す光が彼女の肩に落ちている。泣いてはいない。ただ静かだった。

「どうして追ってきたんですか」


 アッシュは迷わない。

「一人にできない」

 短い答え。


 それだけで、彼女の目がわずかに揺れる。

「それだけ?」


「それで十分だ」

 彼は数歩の距離を保ったまま立つ。左脚はわずかに震えているが、崩れてはいない。

「誰も置いていかない」


 付け足す。

 その言葉が、彼女だけに向けられていないことは、彼女自身が一番よく分かっていた。

 視線が彼の脚へ落ちる。本来なら追ってくる状態ではない。それでも来た。

 愛ではない。だが無関心でもない。

 その曖昧さが、拒絶よりも鋭かった。


 彼女は一歩近づく。距離が縮まる。

「もし……戻ったら」

 小さく言う。

 指先が彼の袖に触れる。

「私を選びますか」

 問いではない。確認だった。


 アッシュは答えない。

 沈黙が、そのまま答えになる。


 風が林を抜ける。

 彼女の手は離れない。

 その瞬間、彼女の目が澄む。狂気ではない。決意だった。


「今のあなたは、弱い」

 静かな声。

「もう一度熱が出たら、持ちません」


 アッシュは違和感に気づき、一歩引こうとする。だが脚がわずかに遅れる。

 彼女のもう一方の手が上がる。

 掌が彼の額に触れる。

 攻撃ではない。治療の形。


「少し、眠ってください」

 囁きに近い声だった。

 掌から淡い光がにじむ。


 アッシュは反射的に振り払おうとするが、その瞬間、温かなものが神経に染み込んだ。強い衝撃ではない。細く、持続する圧力。

 打撃ではなく、封じる力。

 異常だと理解する。


「……お前――」

 言葉が途切れる前に、視界が崩れ始めた。


 彼女は彼の体を支え、倒れないよう抱き留める。

 声はほとんど聞こえない。


「……これで、戻らなくて済みます」


 最後に見えたのは、枝葉の隙間から落ちる光。

 そして、すべてが暗く沈んだ。

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